228p




一闡提に似た阿羅漢とは声聞を謗り咎(とが)めて広く大乗を説く者である。
そして衆生に語って言うには、
我は汝達と共にこれ菩薩である。
何故(なぜ)かといえば、一切衆生皆仏の性分があるからである、と。
しかし、それを聞いた衆生はかえって一闡提であると言うであろう。」
等と。

涅槃経(ねはんきょう)には次の様にあります。
「仏が入滅した後、像法時代において、次の様な僧が現れるであろう。
それは、形は戒律を持(たも)っている様に見せかけて、
少しばかり経文を読み、食べ物を貪(むさぼ)って我が身を養(やしな)っている。
その僧は、袈裟(けさ)を身にまとっているけれども、
信徒の布施を狙う有様は、
猟師が獲物を狙って、細目に見て静かに近づいていく様であり、
猫がネズミを捕らえようとしている様なものである。
そして、常に『自分は羅漢の悟りを得た』と言うであろう。
外面は賢人・善人の様に装っているが、
内面は信徒の布施を貪(むさぼ)り、
正法を持(たも)つ人に嫉妬心を強く抱いている。
法門の事など質問されても答えられない有様は、
ちょうど啞法(あほう)の修行で黙りこんでいるバラモン達の様である。
実際には、正しい僧侶でも無いのに僧侶の姿をしており、
邪見が非常に盛んで正法を謗(そし)るであろう。」
等と。

妙楽は「法華文句記(ほっけもんぐき)」に
「第三の僭聖増上慢の迫害は最も甚(はなは)だしい。
後々のもの程、ますますその謗法が解り難いからである。」
等と言っています。

「東春(とうしゅん)」には
「第三に『惑有阿練若(わくうあれんにゃ)』から下(しも)の三偈は
即ち僭聖増上慢で、出家の所に一切の悪人を摂(せっ)する」
等と言っています。

「東春」にある「出家の所に一切の悪人を摂する」等というのは、
今の世の日本国にはいずれの所でしょうか。
比叡山か、園城寺(おんじょうじ)か、東寺(とうじ)か、
奈良の諸寺(しょじ)か、建仁寺(けんにんじ)か、
寿福寺(じゅふくじ)か、建長寺(けんちょうじ)か、
よくよく尋(たず)ね考えるべきです。

比叡山延暦寺の出家者達が、
頭に甲冑(かっちゅう)を着けているのを指すべきでしょうか。

園城寺(おんじょうじ)の僧が
五分法身(仏・阿羅漢が具えている五つの功徳を有する身)の膚(はだえ)に
鎧・杖をまとっているのを言うべきでしょうか。

しかし彼らは、経文に「袈裟・衣をつけて閑静な座にいて」と
指摘しているのには似ていませんし、
「世間に慎み敬われる事、六神通を得た聖者の様である」と
人は思っていません。
又「ますますその謗法が解り難いからである」と
言うべきでしょうか。

こうして見ると、第三類の怨敵は京都では聖一(しょういち)ら、
鎌倉では良観らに似ています。
だからといって人を怨(うら)んではなりません。
眼(まなこ)があるなら経文に我が身を合わせてみなさい。

「摩訶止観」の第一には
「止観の明静なる事は前代に未だ聞かないところである」等とあります。

「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」の一に
「中国・後漢の明帝は夜、夢を見て仏教が中国へ伝来してより、
陳朝(ちんちょう)に及ぶまで、禅門に交(まじ)わって
師から弟子へと教法を伝え授ける者は多くあったが、皆地獄へ堕ちた」
等とあります。

「三大部補註(さんだいぶふちゅう)」には
「衣鉢(えはつ)を伝授する者とは、達磨を指す」等とあります。

「摩訶止観」の五には
「ただ一部の空理を観ずる一種の禅入があり、そして観行ばかりで
学問を怠(おこたる)る盲目の師も、理論ばかりの跛行(はこう)の弟子も、
二人共に地獄へ堕ちる」
等とあります。

同じく「摩訶止観」の七に
「仏法を理解するための十種の心得のうち、九種の意は、
世間の文字や理論ばかりに執着する法師とも違うし、
座禅の形式ばかりにとらわれている禅師(ぜんじ)とも同じでは無い。
一種の禅師は十意のうちただ観心の一種ばかりを修行する。
しかし、その観心もあるいは浅いものであり、
あるいは偽(いつわ)っており、他の九種の意はまったく見られない。
これは決して空言(そらごと)では無い。
後世の賢人で眼(まなこ)ある者は当にこれを究明すべきである」
と。

妙楽は「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」の七に
次の様に言っています。
「文字の法師とは、
内心に智慧をもって経教(きょうぎょう)の義を明らかに観て
その意を理解する事無く、ただ文字上の解釈に陥(おちい)っている者をいう。
事相の禅師とは、境智の二法を習わず、
鼻先の浅い事に心を留めて形式ばかりに拘(こだわ)っている者をいう。
これらの座禅は、外道の根本の修行である有漏定(うろじょう)と同じで、
煩悩を断つ事は出来ない。
一師はただ観心の一意だけがある等というのは、
これはしばらく相手の主張を受け容れた立場で論じたものであり、
もし真実を明らかにして主張を退けた立場で言えば、
即ち智慧をもって経教(きょうぎょう)の義を明らかに観(み)る事も、
その意を理解する事も共に欠(か)いている。
世間の禅人はひたすら不変の真理を観ずる事を尊び、
少しも教を習おうとしない。
観をもって経文を消釈(しょうしゃく)し、
例えば八邪八風の数を数えて丈六(じょうろく)の仏としたり、
五陰(ごおん)と三毒を合わせて名づけて八邪であるとしたり、




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六入をもって六通としたり、四大をもって四諦としている。
この様に経文を解釈するのは偽りの中の偽りである。
あまりに浅すぎて論ずる事も出来ない」
等と。

「摩訶止観」の七に
「昔、鄴洛(ぎょうらく)の禅師(ぜんじ)即ち達磨(だるま)は、
その名は河海(かかい)に広く行き渡り、
留まる時は四方から雲の様に集まり来て仰ぎ、
去る時は別れを惜しんで多くの人が群れをなし、
隠々轟々(いんいんごうごう)とした様子であったが、
何の利益(りやく)があったであろうか。
達磨の臨終を見て皆後悔した」
等とあります。

妙楽はこれについて「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」の七に、
「鄴洛(ぎょうらく)の禅師とは、鄴(ぎょう)は相州にあって斉(せい)や
魏(ぎ)の国が都をおいた所である。
この禅師は大いに仏法を興(おこ)し、禅祖の一(はじめ)であり、
その地を教化した。
当時の人達の意(こころ)を護(まも)ってその名を出していないが、
達磨の事である。
洛(らく)とは即ち洛陽(らくよう)である」
等と言っています。

六巻の般泥洹経(はつないおんきょう)には
「究竟(くきょう)のところを見ないとは、
かの一闡提(いっせんだい)の輩(やから)が作る究竟の悪業
即ち法華経誹謗が底知れず深くて見えない事である」
等とあります。

妙楽は「第三類の僭聖増上慢は最も甚(はなは)だしい。
ますますその謗法(ほうぼう)が解(わか)り難(にく)いからである」
等と言っています。

仏教に無知な者や、仏教の一部分しか知らない者や、
邪見の者は末法の始めの三類を見る事が出来ないでしょう。
ただ一分の仏眼(ぶつがん)を得た者はこれを知る事が出来るのです。

法華経には
「国王・大臣・バラモン・居士(こじ)に向かって」等とあり、
これについて「東春(とうしゅん)」には
「公(おおやけ)の場所即ち国家権力者に向かって正法を謗り、
その行者の悪口を言う」
等と解釈しています。

昔、像法時代の末には、護命(ごみょう)や修円(しゅえん)らが
奏状(そうじょう)を朝廷に奉(ささ)げて伝教大師を悪く申し立てました。

今末法の始めには、良観や念阿(ねんあ)らが偽書を作って将軍家に奉げています。
これこそ三類の怨敵(おんてき)ではないでしょうか。


42  諸宗の非を判定する


今の世の念仏者達が、
天台法華宗の檀那(だんな)である国王・大臣・バラモン・居士(こじ)らに向かって
「法華経は理が深くて、我々はかすかにしか理解出来ない。
法は非常に深く、衆生の機根は非常に浅い」
などと言って法華経を遠ざけるのは、「摩訶止観」にいう
「法華経は聖者が修行する高い教えで自分の様な智慧の無い者には用は無い」
という者と同じでは無いでしょうか。

又禅宗は次の様に言っています。
「法華経は月を指す指で、禅宗は月そのものである。
月を得たなら、指は何の役に立つだろうか。
禅は仏の心であり、法華経は仏の言葉である。
仏は法華経などの一切経を説かれた後、
最後に一房(ひとふさ)の花をもって迦葉(かしょう)一人に授けられた。
その印(しるし)として仏の御袈裟(おんけさ)を迦葉に付嘱(ふぞく)し、
それがインドの付法蔵の二十八人、中国の第六祖まで伝えられた」
等と。

これらの大妄語(だいもうご)が国中を誑(たぶら)かし酔(よ)わせてから
長年月(ちょうねんげつ)が経(た)ちました。

又天台宗・真言宗の高僧達は、名前だけは天台宗・真言宗を名乗っていますが、
自分の宗派についてよく分かっていません。
貪欲(とんよく)が深いので、公家や武家を恐れて
念仏や禅などの大妄語の邪義に従い、褒(ほ)め称(たた)えています。

昔多宝仏・分身の諸仏は、法華経を「永久に存続させる」事を証明しました。
今天台宗の高僧は
「法華経は理が深くで下根の末法の衆生には理解出来ない」などという邪義を
証明してしまっています。

この様な有様ですから、日本国には法華経の名があるだけで、
得道(とくどう)の人は一人もいません。
誰を法華経の行者とするのでしょうか。

寺塔(じとう)を焼いて流罪にされる僧侶は数知れない程多くあります。
公家や武家に媚(こ)び諂(へつら)って人から憎まれる高僧も多くいます。
では、これらの僧侶を法華経の行者というべきでしょうか。




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43  正(まさ)しく法華経の行者である事を顕(あらわ)す


仏の予言が偽りでないから、
三類の怨敵はすでに国中に充満しています。
しかし、仏の金言(きんげん)が破られるかの様に法華経の行者はいません。
これは一体どうしたものでしょう。

一体、どの人が法華経の為に多くの俗人に悪口を言われ、
罵(ののし)られたでしょうか。
どの僧が刀で切りつけられたり杖で打たれたでしょうか。
どの僧を、法華経の故に公家や武家へ悪く言って訴(うった)えたでしょうか。
どの僧が「しばしば所を追い払われる」との経文通り、
度々(たびたび)流罪にされたでしょうか。

日蓮より他に、日本国にこの様な僧を取り出そうとしても、
当てはまる人はいません。

ところが日蓮は法華経の行者ではありません。
なぜなら、諸天は日蓮を見捨てられているからです。

それでは、誰をもって今の世の法華経の行者であるとして、
仏の予言を真実であると証明するのでしょうか。

釈尊と悪人の提婆達多は、身とその影の様に、
いつの世にも離れませんでした。
聖徳太子とその敵の守屋(もりや)は、
蓮(はす)の花と実が同時になる様な関係でした。

これと同じ様に法華経の行者があれば必ず三類の怨敵(おんてき)があるべきです。

三類の怨敵は既に現れています。
では法華経の行者は誰なのでしょう。
求めて師としたいものです。
あたかも一眼(いちがん)の亀が浮き木に会う様なもので、非常に稀(まれ)な事です。


44  行者値難(ぎょうじゃちなん)の故(ゆえ)を明かす




ある人が言うには、今の世に三類の怨敵はある様です。
しかし法華経の行者はいません。
あなたを法華経の行者であると言おうとすれば、次の経文と大きな違いがあります。

法華経安楽行品には次の様にあります。
「天の諸々(もろもろ)の童子が来て法華経の行者に給使(きゅうじ)をするであろう。
行者に害を加えようとしても、刀で切りつけたり杖で打つ事も出来ず、
毒も害する事が出来ないであろう」
等と。

又同じく
「もし人が法華経の行者を口悪く罵(ののし)れば、
口はたちまち閉じ塞(ふさ)がってしまう」
等とあります。

又薬草喩品(やくそうゆほん)には
「法華経を持(たも)つ者は、現世は安穏で、後世は善い処に生まれるであろう」
等とあります。

又陀羅尼品(だらにほん)には
「法華経を持(たも)つ者を悩ます者は、頭が破(わ)れて七分になり、
阿梨樹(ありじゅ)の枝の様になるであろう」
とあります。

又勧発品(かんぼつほん)には
「法華経を持(たも)つ者は、現世においてその福報を得るであろう」
等とあります。

又同じく
「もし又法華経を受け持(たも)つ者を見て、
その人の過ちや悪を取り出(い)だすならば、たとえそれが事実であっても、
または不実であっても、この人は現世において白癩(びゃくらい)の病になるであろう」
等とあります。

答えていうには、あなたの疑いは大変に結構です。
この機会に不審を晴らしましょう。

法華経不軽品(ふきょうほん)に言うには
「悪口を言い、罵(ののし)る」等と。

又同じく
「あるいは杖や木で打ったり、瓦や石を投げつけたりする」
等とあります。

涅槃経(ねはんきょう)に言うには
「もしは殺し、もしは害する」
等と。

法華経法師品(ほっしほん)には
「しかも法華経を弘通する時は
釈尊の在世でさえ尚、怨(うら)みや妬(ねた)みが多い」
等とあります。

釈尊は小指を提婆達多に傷つけられるなど、九つの大きな難に遭われました。
これは法華経の行者ではないのでしょうか。
又、不軽菩薩は法華経の行者と言われなかったでしょうか。

目蓮尊者(もくれんそんじゃ)は竹杖外道(ちくじょうげどう)に殺されました。
これは法華経で成仏の記別を受けた後の事です。
又、付法蔵第十四の提婆(だいば)菩薩と第二十五の師子(しし)尊者の二人は
共に人に殺されました。
これらは法華経の行者では無いのでしょうか.

中国の竺(じく)の道生(どうしょう)は蘇山(そざん)に流され、
法道(ほうどう)は火印(かなやき)を顔に押されて江南に流されました。
これらは法華経を持っていた者ではないのでしょうか。

外典の者ではありますが、
中国の白居易(はくきょい)や
日本の菅原道真(すがわらのみちざね)は遠くへ流罪にされましたが、
これらは賢人ではないのでしょうか。




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これらの事柄の意味を考えて見ますと、第一に、
前世において法華経を謗った罪の無い者が、今世に法華経を行じている時、
この人を世間上の過ちに事よせたり、あるいは罪が無いのに怨(あだ)すれば、
たちまちに現罰があるでしょう。

それは阿修羅(あしゅら)が帝釈を射たり、金翅鳥(こんじちょう)が
竜を食べようとして阿耨池(あのくち)に入ったりすると、
必ずかえって一時にその身を損なう様なものです。

天台は「法華玄義」で
「今の我が苦悩は全て過去の因によっている。今世において
福徳を得る為に修(おさ)めている善行(ぜんぎょう)の報(むく)いは将来にある」
等と言っています。

心地観経(しんじかんきょう)には
「過去に作った因を知りたいと思うなら、その現在の果を見よ。
未来の果を知りたいと思うなら、その現在の因を見よ」
等とあります。

不軽品には「その罪が終わって」等とあります。

不軽菩薩は過去世に法華経を謗った罪が身にあるから、
瓦や石を投げつけられる難を受けたと見えます。

第二に、
次の生を受けるごとに順々に必ず地獄へ堕ちるべき者は、
現世で重罪を作ったとしても現罰はありません。
一闡提の人がこれです。

これについて涅槃経には
「迦葉(かしょう)菩薩が釈尊に申し上げて言うには、
世尊よ、仏が説かれる様に、大涅槃の光が一切衆生の毛孔(けあな)にまで入るでしょう」
等とあります。


「迦葉菩薩が釈尊に申し上げて言うには、世尊よ、どうして未(いま)だ
菩提(ぼだい)の心を起こさない者が菩提の因を得る事が出来るでしょうか」
等とあります。

釈尊はこの問いに答えて言われました。
「釈尊が迦葉(かしょう)に告げられるには、
もしこの大涅槃経を聞いても、我は菩提の心を起こして悟りを得ようとは思わない
といって正法を謗(そし)ったとしよう。
この人はただちに夜、夢の中で悪鬼の姿を見て、心中大変に怖(お)じ恐れるであろう。
その時、悪鬼が言うには、つたなし善男子(ぜんなんし)よ、
汝は今、もし菩提(ぼだい)の心を起こさないなら、
当(まさ)に汝の命を断つであろう、と。
この人は怖(お)じ恐れ、夢から覚(さ)め終わってただちに菩提の心を起こす。
当にこの人はこれ大菩薩であると知るべきである」
等と。

この様に、甚(はなは)だしい大悪人でない者は、
正法を謗(そし)れば即時に夢を見て、正法を謗る事を改める心が生じてくるのです。

又「枯れ木に花は咲かないし、石の山に草木は生えない」等、
又「燋った種は甘雨(かんう)にあってもい芽は出ない」等、
又「明珠(めいしゅ)も泥の中では光を放たない」等、
又「手に傷のある人が毒薬をその手で掴(つか)む様なものだ」等、
又「大雨は空に留まらない」等々と、
一闡提の者が正法を謗(そし)る心は容易に改(あらた)まらないという、
多くの譬(たと)えがあります。

結局は、特に極悪の一闡提の人になれば、
次の生を受けるごとに順々に必ず無間地獄へ堕ちるから現罰は無いのです。

例えば、中国・夏(か)の国の桀王(けつおう)、殷(いん)の国の
紂王(ちゅうおう)の時代には天変地夭(てんぺんちよう)はありませんでした。
それは桀王・紂王共に重罪があって必ず世が滅ぶべきであったからでしょうか。

第三に、守護神(しゅごじん)がこの国を捨て去ってしまったから
謗法の者に現罰が無いのでしょうか。
謗法の世は、守護神も捨て去り、諸天善神も守護しない、
この為に正法を行する者に、諸天善神が守護する様子も無く、
かえって大きな難に遭うのです。

金光明経(こんこうみょうきょう)に
「善業を修める者は日々に衰え減っていく」等と説かれています。
これが仏法に無知な悪人の充満している悪国・悪時です。

くわしくは「立正安国論」に書いておいた通りです。




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45  法華経の行者を顕す文を結ぶ


詮(せん)ずるところは、天も日蓮を捨てるなら捨てなさい。
あらゆる難にも遭(あ)うなら遭いましょう。
身命を擲(なげう)つ覚悟です。

舎利弗が六十劫という長い間修行してきた菩薩行を途中で退転し成仏出来なかったのは、
乞眼(こつげん)のバラモンに舎利弗の眼が欲しいと責められ、
その責め苦に耐えられなかったからです。
久遠五百塵点劫及び下種を受けながら退転して悪道に堕ち、
三千塵点劫や五百塵点劫を経(へ)たのは、
悪知識にあったからです。

善につけ悪につけ法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業因です。
今こそ大願を立てよう。

法華経を捨て観経(かんぎょう)等の信仰について後生の極楽往生を願うなら
日本国の位を譲(ゆず)ろう、とか、
念仏を唱えないなら父母の首をはねる、などの種々の大きな難が出てきても、
智者に我が義が破られない限りは、他宗の教義に従う事は絶対にありません。
智者に我が義が破られる事以外の大難は、風の前の塵の様なものです。

私は日本の柱となろう(主の徳を顕す)、
私は日本の眼目となろう(師の徳を顕す)、
私は日本の大船(たいせん)となろう(親の徳を顕す)、
等と誓った大願は決して破る事は出来ません。


46  転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)を明かす


疑って言うには、どうしてあなたの流罪や死罪などが、
過去世の宿習(しゅくじゅう)によると知る事が出来るのですか、と。

答えて言うには、銅の鏡は色や形を映し顕(あらわ)します。
中国・秦(しん)の始皇帝が用いたと言われる、
人の心を映し邪心の有無が判(わか)るという験偽(けんぎ)の鏡は
現在の罪を映し顕しました。
仏法の鏡は過去世の業因を映し顕します。

般泥洹経(はつないおんきょう)には
「善男子よ、過去世にかつて数しれない程の諸罪(しょざい)や、
種々の悪業を作ったので、その諸々の罪の報いとして、
あるいは人に軽んじ侮(あなど)られ、
あるいは姿や顔形が醜(みにく)く、衣服が不足したり、
飲食物が粗末であったり不自由したり、
財宝をいくら求めても利益が無く、
貧(まず)しく卑(いや)しい身分の家や邪教を信じる家に生まれ、
あるいは国家権力による難に遭い、
その他種々、人間としての苦しみの報いを受けるであろう。
これらの報いを現世で軽く受けるのは、仏法を護る功徳の力によるのである。」
と説かれています。

この経文は日蓮の身に、あたかも割符を合わす様に一致しています。
これによって何故難に遭うのかという疑いは解けました。
千万の疑難ももはや理由の無い事です。
一つ一つの句を我が身に合わせてみましょう。

「あるいは軽んじ侮(あなど)られ」等とは、
法華経譬喩品に
「軽蔑され、賤(いや)しまれ、憎まれ、妬(ねた)まれる」
等と説かれている様に、
日蓮は二十余年の間軽んじ侮られてきました。

「あるいは姿や顔形が醜い」、又「衣服が不足する」とは日蓮の身の事です。
「飲食物が粗末であったり不自由する」とは日蓮の身の事です。
「財宝をいくら求めても利益がない」とは日蓮の身の事です。
「貧しく賤しい身分の家に生まれる」とは日蓮の身の事です。

また経文に「あるいは国家権力による難に遭う」とありますが、
この経文が日蓮の身に当たっている事を疑う事が出来るでしょうか。

法華経には「しばしば所を追い払われるであろう」とあり、
この般泥洹経(はつないおんきょう)には
「種々の苦報を受ける」等と説かれています。

「これは仏法を護る功徳の力によるのである」等とは、
「摩訶止観」第五に次の様に説かれています。
「散乱した心で行う微弱な善根では、宿命を転換させ動かす事は出来ない。
今、止観を修行すれば、健(ごん)・病(びょう)の二つとも欠けずに観ずるので、
生死の輪即ち宿命を動転させる事が出来る」
等と。

又「摩訶止観」には
「三障四魔が紛然(ふんぜん)と競い起こる」等と説かれています。

私は無始(むし)の昔から今に至るまで、
悪王と生まれて法華経の行者の衣服や食べ物、
田や畠(はたけ)などを奪い取ったりした事は数しれません。
それはちょうど今の世の日本国の諸人(しょにん)が法華経の山寺(さんじ)を
破壊する様なものでした。

又、法華経の行者の首をはねた事、その数もしれません。

これらの重罪は、償(つぐな)い果たしたものもありますが、
未だ果たしていないものもあるでしょう。




233p




一応償い果たしていても、
その余残(よざん)はまだ尽きていません。
生死を離れる時、即ち即身成仏する時には、必ずこの重罪を全て消し尽くして
生死を離れなければなりません。

今まで積んできた功徳は浅軽(せんきょう)であり、
これらの罪は深重(じんじゅう)です。
権経(ごんきょう)を修行していたのでは、この重罪は未だ起こってきません。

例えば鉄を焼く時、強く鍛えなければ、その傷は隠れていて見えません。
度々(たびたび)強く鍛え責めると傷が現れてきます。
麻の実を絞(しぼ)って油を取るとき、強く絞(しぼ)り責めなければ
油が少ないのと同じ事です。

今日蓮は、強盛に国土の謗法を責めるので、
この大きな難が起きたのであり、それは過去世に作った重罪を、
今世において仏法を護(まも)る功徳によって招(まね)き出したのです。

鉄は火に会わなければ黒いが、火に会うと赤くなります。
木をもって急流をかけば、波は山の様にまき起こります。
睡(ねむ)っている獅子に手をつければ大いに吼(ほ)える様なものです。


47  不求自得(ふぐじとく)の大利益


涅槃経には次の様に説かれています。
「例えば、貧しい女性がいて、居るべき家も、護(まも)ってくれる者も無く、
その上、病苦と飢(う)えに責められて彷徨(さまよ)い乞食(こじき)をしていた。
ある時他人の宿屋に泊まって子供を産んだ。
ところがこの宿屋の主人は追い出してしまった。
出産してからまだ日も経っていないのに、赤子を抱(だ)いて他の国へ行こうとしたが、
その途中でひどい風雨に出会い、寒さと苦しみに責められ、
多くの蚊(か)や虻(あぶ)や蜂(はち)や毒虫などに唼(す)い食われる事になった。
更にガンジス河にさしかかり赤子を抱(だ)いて渡ろうとした。
その水は急激であったが、赤子を手から放し捨てる事は無かった。
そして、ついに母子(ぼし)共に水中に沈んでしまった。
この女性は、子供に対する慈悲の思いの功徳によって、死んだ後梵天に生まれた。
文殊師利よ、もし善男子があって正法を護ろうと思うなら、
かの女性がガンジス河で子供を愛念(あいねん)するが為に身命を捨てた様にせよ。
善男子よ、護法の菩薩も又この通りである。
正法を護る為にむしろ身命を捨てよ。
この様な人は解脱を求め無くてもおのずから解脱に至る事、
あたかも貧しい女性が梵天に生まれようと求めたのではなかったが、
梵天におのずから生まれたのと同じである」
等と。

この経文に「貧人(びんにん)」とあるのは、法財の乏しい人の事です。
「女人」とは一分の慈悲心がある者です。
「各舎(かくしゃ)」とは穢土(えど)です。
「一子」とは法華経の信心であり、仏の種子です。

「舎主(しゃしゅ)が駆逐する」とは、流罪される事です。
「出産してからまだ日が経っていない」とは、
未だ信心してから日が経っていない事です。
「悪風」とは流罪の勅宣(ちょくせん)の事です。

「蚊(か)や虻(あぶ)」等とは法華経勧持品の
「諸々の無智の人があって悪口を言い、罵(ののし)る」等という事です。

「母子共に水中に沈んでしまった」とは、
ついに法華経の信心を破る事なくして首をはねられる事です。
「梵天」とは仏界に生まれる事を言うのです。

未来世での果報を引き起こす業というのは、
地獄界から仏界に至るまで変わる事はありません。

日本・中国など万国の諸人を殺しても、
父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏身から血を出(いだ)す・
和合僧を破る、の五逆罪と、
正法を謗(そし)るという謗法の罪がなければ無間地獄には堕ちません。
他の悪道に堕(お)ちて長年月(ちょうねんげつ)を過ごすのです。

色界天に生まれるには、
あらゆる戒律を持(たも)っても、全ての善行を修めても、
散乱の心で行う善行では生まれません。









最終更新:2011年03月14日 07:50