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災難対治抄
                    正元二年 三十九歳御作


1  災難対治の方途を勘える


国土に大地震・時節はずれの大風・大飢饉・伝染病の大流行・大規模の戦乱等の
種々の災難の起こる根源の因を知って、いかにすれば対治出来るかという事について考え記した文。


2  五経から七文を挙げる


金光明経(こんこうみょうきょう)には次の様に説かれている。
「(ある時、四天王が仏に申し上げていうには)もし人王がいて、
その国土にこの経があっても未だかつて流布せず、
この経を捨て去る心を起こして聞くことを願わずに、又供養し尊重し讃嘆(さんたん)する事をせず、
比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の四部の衆として
この経を持(たも)つ人を見ても又尊重したり供養したりする事をしない。
その為、我ら及びその眷属や無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞く事が出来ない様にして、
甘露の味を得させず、正法の流れに浴させず、威光及び勢力をなくさせてしまう。
地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の衆生が次第に増え、
人界・天界の衆生は次第に減り、生死の迷いの河に堕ちて、涅槃の悟りの道に背くであろう。
世尊よ、我ら四天王並びに諸々(もろもろ)の眷属及び薬叉(やくしゃ)等は、
その様な事を見て、その国土を捨てて擁護する心を無くしてしまうであろう。
ただ我らがこの王を捨て去るだけではなく、
又、国土を守護する無量の諸天善神も皆悉(ことごと)く捨て去るであろう。
既に捨て去ってしまった時には、その国に必ず種々の災禍(さいか)あって、
国王の地位を失うであろう。
一切の人々は皆善心が無く、
ただ縛り殺害し争うのみで、互いに権力者に讒言(ざんげん)し諂(へつら)い、
法をまげて無実の者にまで罪をきせるであろう。
伝染病が流行し、彗星がしばしば出て、二つの太陽が並んで現れ、
日蝕や月蝕等太陽や月の光が薄くなる事が通常通りで無く、
黒色と白色の二つの虹が出て不吉の相を表し、星が流れ、地が揺れ動き、井戸の中から音響を発する。
又、暴雨や暴風が時節によらずに起こり、常に飢饉(ききん)にあって苗や実も育たず、
他国の多くの怨賊(おんぞく)が国内を侵略し、人民は諸々(もろもろ)の苦悩を受け、
国土に安楽な場所は無くなってしまうであろう」と。
大集経には、次の様に説かれている。
「もし国王がいて、我が正法が滅びようとしているのを見て擁護しないならば、
量り知れないほどの世において布施・持戒・智慧を修してきたとしても、
その功徳善根は悉く皆失われて、その国の中に三種の災いが起こってくるであろう。
(中略)命終えて後大地獄に生ずるであろう」と。
仁王経には
「大王(波斯匿王)よ、国土が乱れる時は、まず鬼神が乱れ、
鬼神が乱れる為に万民が乱れるのである」と説かれ、
又「大王よ、私が今五眼(ごげん)をもって明らかに三世を見てみると、
一切の国王は皆過去の世に五百の仏に仕えた事によって帝王主となる事が出来たのである。
これによって、




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一切の聖人や阿羅漢(あらかん)は
王の為にその国土の中に生まれて来て大利益をなすであろう。
もし王の福徳が尽きる時は、一切の聖人は皆捨て去るであろう。
もし一切の聖人が去る時は、七つの難が必ず起こるであろう」と説かれている。
仁王経(仁王般若波羅密経巻下の受持品第七)には、又次の様に説かれている。
「大王よ、私が今教化する世界には、百億の須弥山(しゅみせん)と百億の日月があり、
一つ一つの須弥山の四方に四天下があり、その一つの南閻浮提に
十六の大国と五百の中国と一万の小国がある。
その国土の中に七つの恐るべき難がある。一切の国王はこの難の為に、
どの様な事を難とするのかというと、
太陽や月が平常の運行から外れ、時節が逆になり、
あるいは赤い太陽が出たり黒い太陽が出たり、二つ・三つ・四つ・五つの太陽が出たり、
あるいは日蝕で太陽の光が無くなったり、
あるいは太陽の輪が一重・二重・三重・四重・五重に現ずる。
これを一の難とするのである。
二十八の星座が平常の運行から外れ、
金星・彗星・輪星(りんせい)・鬼星・火星・水星・風星・刁星(ちょうせい)・
南斗(なんじゅ)・北斗(ほくと)・五鎮(ごちん)の大星・一切の国主星(こくしゅせい)・
三公星(さんこうせい)・百宦星(ひゃっかんせい)等の諸々(もろもろ)の星が
それぞれ異常な現れ方をする。
これを二の難とする。
大火が国を焼いて万民を焼き尽くし、
あるいは鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火という様な怪しげな異変が起こる。
これを三の難とする。
大水が民衆を漂わせ沈める。時節は逆転して、冬に雨が降り、夏に雪が降り、
冬期に稲妻が光って雷が鳴り、夏の六月に氷や霜や霰(あられ)が降る。
赤水や黒水や青水が降り、土の山や石の山が降り、砂や礫(こいし)や石が降り、
河は逆流して山を浮かべ石を押し流す。この様な異変が起きる時、
これを四の難とする。
大風が万民を吹き殺し、国土の山河や樹木は一挙に滅び没する。
時節はずれの大風や黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風が吹く。
この様に異変が起きる時、
これを五の難とする。
天地・国土が日照りで炎に包まれた様に熱せられて多くの草は枯れ、
五穀は実らず、土地は焼けただれて万民は滅び尽きるであろう。
この様に異変が起きる時、
これを六の難とする。
四方の他国の賊が襲って来て国を侵略し、内外の賊が蜂起する。
火賊・水賊・風賊・鬼賊が横行して民衆は荒れて乱れ、
戦乱に脅かされるであろう。
この様に異変が起きる時、
これを七の難とするのである」と。
法華経陀羅尼品第二十六には
「百由旬の内において、もろもろの衰え患う事が無い様にさせる」と説かれている。
涅槃経には
「この大涅槃微妙の経典が流布される所、その地は即ち金剛であり、
この中の人々は又金剛の様である事を知るべきである」
と説かれている。
仁王経には
「この経は常に千の光明を放って、千里の内において七難が起こらない様にさせる」
と説かれ、又、
「諸々の悪比丘が多く世間の名誉や利益を求めて、




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国王や太子や王子の前で自ら仏法を破壊し国を破壊する因縁となる教えを説く。
その王は弁(わきま)えずにこの言葉を信じ聴き、道に外れて法制を作り、仏の戒法に依らない。
これを仏法の破壊・国の破壊の因縁とするのである」
と説かれている。
今、これらの経文を考えてみると、法華経には
「百由旬の内において、諸々の衰え患う事の無いようにさせる」と説かれ、
仁王経には
「千里の内において七難が起こらないようにさせる」と説かれ、
涅槃経には
「その地はすなわち金剛であり、この中の人々は又金剛のようである事を知るべきである」
と説かれているのである。


3  仏言が虚妄との疑問を出す


疑っていう。
今、この国土に種々の災難が起こっているのを見聞きしてみると、
いわゆる建長八年八月から正元二年二月に至るまで、
大地震・時節外れの大風・大飢饉・伝染病の大流行等の種々の災難が連続して今も絶える事が無い。
ほとんど国中の人が死に絶えるかの様である。
これによって種々の祈りを行う人は多いけれども、その効験は無いのであろうか。
釈尊が「正直に方便を捨て」と説かれ、多宝如来が真実であると証明され、
諸仏が舌を出して嘘でないことを示された法華経の
「百由旬の内において、もろもろの衰え患う事の無いようにさせる」の文、
沙羅双樹林での最後の遺言である涅槃経の
「その地はすなわち金剛であり、この中の人々は又金剛の様である事を知るべきである」の文、
仁王経の
「千里の内において七難が起こらないようにさせる」の文はみな偽りとなった様に見えるが、
どうか。
答えていう。今、愚かな自分の頭でこれを考えてみると、
先に挙げた諸大乗経は国土にありながらそれでもなお祈りが叶わずに災難が起こるという事は、
少しその理由があるのであろうか。
いわゆる金光明経には
「その国土にこの経があっても未だかつて流布せず、
この経を捨て去る心を起こして聞く事を願わず 我ら四天王 皆ことごとく捨て去り
その国に必ず種々の災禍があるであろう」と説かれ、
大集経には
「もし国王がいて、我が正法が滅びようとしているのを見て捨てて擁護しなかったならば、
その国の中に三種の災難が起こってくるであろう」と説かれ、
仁王経には
「仏の戒法に依ろうとしない。これを仏法破壊・国破壊の因縁とするのである」
「もし一切の聖人が去ってしまう時は七つの難が必ず起こるであろう」
と説かれている。
これらの文によってこれを考えてみると、法華経等の諸大乗経が国中にあるといっても、
一切の四衆は捨て去る心を生じて聴聞し供養すう志を起こさない為に、
国中の守護の善神や一切の聖人はこの国を捨て去り、
守護の善神や聖人等がいない為に起こってきている災難なのである。


4  悪比丘が破国の因と明かす


問うていう。
国中の人々が諸大乗経に対して捨て去る心を生じて供養する志を生じないという事は、
どの様な事から起きるのか。
答えていう。
仁王経には
「諸(もろもろ)の悪比丘が多分に世間の名誉や利益を求めて、
国王や太子や王子の前で自ら仏法を破壊し国を破壊する因縁となる教えを説くであろう。
その王は弁えずにこの言葉を信じ聴き、道に外れて法制を作り、
仏の戒法に依ろうとしない」と説き、
法華経勧持品第十三には
「悪世の中の比丘は




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邪智で心が諂い曲がっていて、未だ悟りを得ていないのに得たと思い、
おごりの心に満ちている
この人は邪悪の心を懐き国王・大臣・婆羅門・居士及びその他の諸の比丘に向って、
法華経を弘める私を誹謗して私の悪行を言い立てて
「これは邪見の人であり、外道の説を説いている」と言うであろう
悪鬼がその身に入って」等と説かれている。
これらの文によってこれを思案してみると、
もろもろの悪比丘が国中に充満して国を破り仏法を破る因縁となる教えを説く時、
国王並びに国中の四衆が弁えずに信じ聴く為に、
諸大乗経に対して捨て去る心を生ずるのである。


5  悪比丘は仏弟子の中から出来(しゅったい)


問うていう。
もろもろの悪比丘等が国中に充満して国を破り仏の戒法を破る因縁となる教えを
説くという事であるが、それは、仏弟子の中に出てくるのであろうか、
外道の中に出てくるのであろうか。
答えていう。
仁王経には
「仏・法・僧の三宝を護る者が、転じて更に三宝を滅ぼし破るのであり、
これは師子の身中の虫が自ら師子を食うようなものである。
(三宝を滅ぼすのは)外道ではない」
と説かれている。
この文の通りであれば、仏弟子の中に国を破り仏法を破る者が出てくるであろう。


6  仏法をもって仏法を破る


問うていう。
もろもろの悪比丘は、正法を破るのに、似た様な法をもって破るのか、
又は悪法をもって破ろうとするのか。
答えていう。
小乗教で権大乗教を破し、権大乗教で実大乗教を破するのであり、
しかも、師弟共にこれが謗法であり国を破る因縁となる事を知らない為に、
仏の戒法を破り国を破る因縁を成して地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるのである。


7  仏弟子が謗法を犯す証拠を示す


問うていう。
その証拠はどうか。
答えていう。
法華経勧持品第十三には
「(濁世の悪比丘は、自分の持つ法が)
仏が方便として衆生の機根に随って説かれた法である事を知らずに、
(法華経を弘める者に対して)悪口して顔をしかめて非難し、たびたび所を追うであろう」
と説かれ、
涅槃経には
「私が死んだ後、必ず数多くの量り知れない程の衆生が、
この大涅槃経を誹謗して信じないであろう
声聞・縁覚・菩薩の三乗の人も又同じ様に最高の教えである大涅槃経を憎むであろう」
と説かれている。
勝意比丘(しょういびく)が喜根(きこん)菩薩を謗(そし)って三悪道に堕ち、
尼思仏(にしぶつ)等が不軽菩薩を打って阿鼻地獄の炎に焼かれて大苦悩を受けたのも、
皆大乗と小乗、権教と実教とを弁えない事から起こったのである。




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十悪業や五逆罪は愚者も皆罪である事を知っている為に、
容易に国を破り仏法を破る因縁を成す事は無い。
故に仁王経には
「その王は弁えずにこの言葉を信じ聴き」と説かれ、
涅槃経には
「もし四重禁戒を犯し、五逆罪を作り、自らはっきりとこの様な重罪を犯した事を知っていて、
しかも心に初めから怖れや懺悔が無く、あえて起こし表そうともしない」
と説かれている。
この様な文によれば、謗法の者は自他共に子細を知らないが為に、
重罪を犯して国を破り仏法を破るのである。


8  選択集(せんちゃくしゅう)の一凶たる所以を明かす


問うていう。
もしそうであるならば、
この国に権教をもって人の心を捉え、実教を滅ぼす者がいるのか。
答えていう。
その通りである。
問うていう。
その証拠は、どうか。
答えていう。
法然上人が著した選択集が証拠である。
今、その文を抜き出して先の経文に照らし合わせ、その失をあらわにしよう。
もしこれに対治を加えるならば、国土を安穏にする事が出来るであろう。
選択集には次の様にある。
「道綽禅師(どうしゃくぜんし)が
聖道門(しょうどうもん)・浄土門(じょうどもん)の二門を立てて、
聖道門を捨てて正しく浄土門に帰することを説いた文
初めに聖道門とは、
これに二つがあって、一つには大乗教で二つには小乗教である。
大乗教の中に顕教・密教、権教・実教等の違いがあるけれども、
今この安楽集の意はただ顕大乗教及び、
権大乗教にある故に歴劫迂回(りゃっこううえ)の修行の教えにあたる。
これに順じて考えてみると、密大乗教及び実大乗教を含めるべきである。
従って、即ち今の真言・禅・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論等の八宗の説くところは、
正しく聖道門になるのである。
曇鸞(どんらん)法師の往生論(おうじょうろん)の注には、
『謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)を読み考えてみると、
菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道があり、一には難行道で、二には易行道である』
とある。
この中の難行道とは即ち聖道門であり、易行道とは即ち浄土門である。
浄土宗を修学する者はまず当然この事を知らなければならない。
たとえ、まず聖道門を修学している人であっても、
もし浄土門に対して修学の志がある者は、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきである」
と。
又、次の様にある。
「善導和尚(ぜんどうおしょう)が正(しょう)・雑(ぞう)の二行を立て、
雑行(ぞうぎょう)を捨てて正行(しょうぎょう)に帰すべきであると述べた文
第一に読誦(どくじゅ)雑行とは、
先の観無量寿経等の往生浄土を説いた経を除いて、それ以外の大乗教や小乗教、
顕教や密教の諸経を受持し読誦するのを悉(ことごと)く読誦雑行と名づけるのである。
第三に礼拝(らいはい)雑行とは、先の阿弥陀仏を礼拝するのを除いて、
それ以外の一切のもろもろの仏菩薩等及びもろもろの世天等に対して礼拝し
敬うのを悉く礼拝雑行と名づけるのである。
私の考えは次の様である。
この往生礼讃の文を見るのに、
当然の事として雑行を捨てて専(もっぱ)ら正行を修するべきである。
どうして百人が百人とも極楽へ往生出来る専修正行を捨てて、
千人のうち一人も成仏出来ない雑修雑行に堅く執着(しゅうじゃく)する事があろうか。
仏道を修行する者は、よくよくこの事を考えるべきである」
と。




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又、次の様にある。
「貞元入蔵録(じょうげんにゅうぞうろく)の中には
大般若経六百巻から始まって法常住経(ほうじょうじゅうきょう)に終わるまで
顕教・密教の大乗経は全部で六百三十七部二千八百八十三巻ある。
これらはみな当然、読誦大乗の一句に摂(おさ)めるべきである。
まさに知るべきである。
随他意の法門の時には暫く定善・散善の諸行の門を開くけれども、
随自意の法門を説いた後には反対に定善・散善の諸行の門を閉じるのである。
一度、開いて後永く閉じないのは、ただ念仏の一門のみである」
と。
又、最後の結びの文には次の様にある。
「それ速やかに生死の苦しみを離れようと欲するならば、
二種の勝れた法のうち、しばらく聖道門を閣(さしお)いて浄土門に入りなさい。
浄土門に入ろうと欲するならば、
正・雑の二行のうち、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)って選んで正行に帰すべきである」
と、以上は選択集の文である。
今これを考えてみると、
日本国中の上下万民は深く法然上人を信じて、この書を身近に置いて重んじている。
故に無智の僧俗はこの書の中の「捨・閉・閣・抛」等の字を見て、
浄土の三部経と阿弥陀仏以外の諸経や諸仏・諸菩薩・諸天善神等に対して、
捨てる・閉じる・閣(さしお)く・抛(なげう)つ等の思いを抱き、
それらの仏や経等に対して供養や受持等の志を起こさず、
逆に捨て去る心を生ずるのである。
その為に昔のもろもろの大師等が建立した鎮護国家の道場が荒廃していても護惜建立の思いは無い。
護惜建立の思いが無いが故に又経を読んで供養する声は絶え、
守護の善神も法味を食さないが故に国を捨て去り、人々の拠りどころとなる聖人も
帰ってくる事が無い。
まったく金光明経や仁王経等の
「一切の聖人が去る時は、七つの難が必ず起こるであろう」
「我ら四天王皆ことごとく捨て去るであろう。既に捨て去ってしまった時には、
その国に必ず種々の災禍があるであろう」
という文に当っている。
まさに法然こそ
「もろもろの悪比丘が多分に世間の名誉や利益を求め」
「悪世の中の比丘は邪智で心が諂(へつら)い曲がって」
と説かれている人ではないか。


9  選択以前は五常破り災難起こす


疑っていう。
国に選択集を流布させた事によって災難が起こるというならば、
この書がなかった以前の時代には国中に災難がなかったのか。
答えていう。
その当時もまた災難はあった。
即ち、仁・義・礼・智・信の五常を破り、仏法を滅ぼした者がいたからである。
いわゆる中国・北周の宇文邕(うぶんよう)や衛元嵩(えいげんすう)等がこれである。


10  今の世の災難は選択の失と示す


難詰していう。
五常を破った故に起こるというならば、
今の世の災難がどうして必ずしも選択集が流布した為の失によるといえようか。
答えていう。
仁王経には
「大王よ、未来の世の中に諸の小国の王・四部の弟子 諸の悪比丘が
道に外れて法制を作って仏の戒法に依らず
またまた仏像の形や仏塔の形を造る事を許さない
七つの難が必ず起こるであろう」
と説かれ、
金光明経には
「供養し尊重し讃嘆する事をしない その国に必ず種々の災禍があるであろう」
と説かれ、




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涅槃経には
「最高の大涅槃経を憎む」
等と説かれている。
(これらの経文が)どうして阿弥陀仏と浄土の三部経以外の諸仏や
諸経等を供養し礼拝し讃嘆するのを悉(ことごと)く雑行(ぞうぎょう)と名づけるという
選択集の主張に当らない事があろうか。


11  仏法以前の災難の因を追究


難詰していう。
仏法が広まる以前に災難があったのは、どうして謗法の者の故である事があろうか。
答えていう。
仏法が広まる以前に五常をもって国を治めたのは、
根本的には仏道における誓いをもって国を治めたのである。
礼儀を破るのは、仏が説き示された五戒を破る事になるのである。


12  五常は仏誓に基づく


問うていう。その証拠は、どうか。
答えていう。
金光明経には
「一切世間のあらゆる善法を説いた論は、みなこの経に依っているのである」
と説かれ、
法華経法師功徳品第十九には
「もし俗世間の経書の教えや世を治めるうえでの言論や生活の助けとなる行為などを説いても、
みな正法に順(したが)っている」
と説かれ、
普賢経には
「正法をもって国を治め、人民を邪(よこしま)に虐げない。
これを第三の懺悔を修すると名づける」
と説かれ、
涅槃経には
「一切世間の外道の経書の教えはみな仏説であり、外道の説ではない」
と説かれ、
摩訶止観(まかしかん)には
「もし深く世法を知るときには、それはそのまま仏法である」
とあり、
止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)には
「礼儀と音楽が先駆けて広まり、真の道が後に開ける」
とあり、
普通授菩薩戒広釈には
「仏は老子・孔子・顔回の三人を派遣して、しばらく中国を教化した。
五常をもって五戒の一面を明かしたのである。
昔、大宰が孔子に『三皇五帝は聖人であろうか』と問うと、
孔子は『聖人ではない』と答えた。
また『あなたは聖人か』と問うと、また『そうではない』と答えた。
また『もしそうであるならば、誰が聖人か』と問うと、
『私が聞くところでは、西方に聖人がいて、釈迦と称する、ということである』
と答えた」
とある。
これらの文をもってこれを考えてみると、
仏法が広まる以前の三皇五帝は五常をもって国を治め、
夏の国の桀王(けつおう)や殷(いん)の国の紂王(ちゅうおう)や
周の国の幽王などが礼儀を破って国を滅ぼしたのは、
根本的には仏道における誓いの持破(持つか破るか)と同じになるのである。


13  法華等の行者の値難の理由


疑っていう。
もしそうであるならば、法華や真言等の諸大乗経を信ずる者が、
どうしてこの災いによる難にあうのか。
答えていう。
金光明経には
「法をまげて無実の者にまで罪をきせるであろう」
と説かれ、
法華経譬喩品第三には
「不当に災難となってふりかかるであろう」等と説かれている。
これらの文をもってこれを推察すると、法華や真言等を行ずる者も未だ修行の位が深くなく、
信心が薄く、口に唱えていてもその意味を知らずに、
ひとえに名誉や利益の為にこれを唱えていて、過去世の謗法の失が未だ尽きず、
外面は法華等を行じて内面は選択集の考えを抱いて、
この災難の根源等を知らない者は、この難を免れ難いという事であろうか。


14  謗法者の難に値わない理由


疑っていう。
もしそうであるならば、どうして選択集を信ずる謗法の者の中に
この難に遭わない者がいるのか。
答えていう。
宿業が果報をもたらす力は一定ではない。
順現業は、法華経普賢菩薩観発品第二十八に
「この人は現世に白癩(びゃくらい)の病を得るであろう。(中略)
諸(もろもろ)の悪く重い病気にかかるであろう」
と説かれ、
仁王経には
「人が仏教を破壊するならば、また孝行な子はいなくなり、親族は仲が悪く、天神も助けない。
病気や悪鬼によって日々、悩まされ、異常な災難が耐える事無く、禍が連なるであろう」
と説かれ、




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涅槃経には
「もしこの経典を信じない者がいるならば 臨終の時、世の中は荒れて乱れ、
戦乱が競って起こり、帝王の暴虐や怨敵との仲違いによって侵されるであろう」
と説かれている。
順次生業は、法華経譬喩品第三に
「もし人が信じずにこの経を謗るならば その人は命終えて後阿鼻地獄に入るであろう」
と説かれ、
仁王経には
「人が仏教を破壊するならば 死んで後地獄界・餓鬼界・畜生界に入るであろう」
と説かれている。
順後業等は省略する。


15  災難対治の方法を示す


問うていう。
どのようにして速やかにこの災難を止めるべきであろうか。
答えていう。
速やかに謗法の者を対治すべきである。
もしそうでなければ、数えきれない程の祈請を行っても、災難を止める事は出来ない。


16  布施を止めて災難を対治


問うていう。
どのように対治すべきであろうか。
答えていう。
対治の方法はまた経文にある。
涅槃経に
「仏は『ただ一人を除いて、その他の一切の衆生に施しなさい
正法を誹謗してこの重い罪業を造るといった
一闡提の輩を除いて、その他の者に施すならば、すべて讃嘆すべきである』
と言われた」
と説かれている。
この文によれば(謗法に対しては)布施を止めて対治すべきであると思われる。
この他にもまた対治の方法は多く、すべてを出す余裕はない。


17  謗法苦治に罪があるかを問う


問うていう。
謗法の者に対して供養を止め、厳しい対治を加えるのは罪になるか、どうか。
答えていう。
涅槃経に
「今、最高の正法を諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属する
正法を謗る者に対しては、王者・大臣・四部の衆は必ず厳しく対治をすべきである
(この人々が)罪になる事はない」
と説かれている。


18  仏法中怨を免れるため謗法破折


問うていう。
汝自身が僧の身でありながら比丘の罪をあばくのは、罪となる行為ではないのか。
答えていう。
涅槃経に
「もし善比丘がいて、正法を破る者を見てそのままにして置いて、叱り責め、追い払い、
罪を挙げて処断する事をしなければ、この人は仏法の中の怨敵であると知るべきである。
もしよく追い払い、叱り責め、罪を挙げて処断するならば、この人は我が弟子であり、
真に仏の声を聞く者である」
と説かれている。
私はこの文を見て「仏法の中の怨なり」の責めを免れる為に、周囲の目や耳を気にかけずに、
法然上人並びにその門下の人々は阿鼻地獄に堕ちるであろうと言っているのである。
この道理を聞いて理解する僧俗の中に少しは改心する者もいる。
もし一度この考え記した文を御覧になった人で、先に挙げた経文の通りに行わないならば、
大集経の文の
「もし国王がいて、我が正法が滅びようとしているのを見て捨てて擁護しないならば、
量り知れないほどの世において布施・持戒・智慧を修してきたとしても、
その功徳善根は悉(ことごと)くみな失われて、
その国の中に三種の災難が起こってくるであろう。(中略)
命終えて後大地獄に生ずるであろう」
との予言を免れる事は出来ないであろう。
仁王経に
「もし王の福徳が尽きる時は 七つの難が必ず起こるであろう」
と説かれ、




86p




この大集経の文には
「量り知れない程の世において布施・持戒・智慧を修してきたとしても、
その功徳善根は悉(ことごと)くみな失われて」
等と説かれているのである。
この文を見ると、しばらく万事を差し置いて、まずこの災難の起こる由来を考えるべきであろう。
もしそうでないならば、ますます災難が起こるであろう。
愚かな自分の考えは以上の通りである。
取り上げるか捨て去るかは、その人の意に任せる。
















最終更新:2011年03月24日 18:11