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釈尊一代に説かれた顕教・密教のニ道にも、
一切の大乗経・小乗経の中にも、釈迦仏と諸仏が並んで座り、
広長舌を梵天にまで届かせた という文は法華経以外にはありません。
阿弥陀経に仏の広長舌が三千大千世界を覆ったとありますが、これは有名無実です。

般若経には広長舌が三千大千世界を覆い、その舌から光を放って般若を説いたというのも、
まったく真実の証明ではありません。
これらの諸経はみな権教を兼ね帯びているために仏の久遠の本地を覆いかくしているからです。

法華経神力品では、
このように十種類の神力をあらわして地涌の菩薩に妙法の五字を付嘱した状況について
つぎのように説かれています。
「その時に仏は上行らの菩薩の大衆に告げられた。
『諸仏の神力はこのようにはかりしれないほど不可思議である。
もし、私がこの神力をもって無量無辺百千万億阿僧祗劫のあいだ、妙法五字を付嘱するために
この法華経の功徳を説こうとしても、なお説きつくすことはできない。
いまその肝要をいうならば、如来の一切の所有している法、如来の一切の自在の神力、
如来の一切の甚深の事が、みなこの経に宣べ示し説き顕されている』」と。

この経文について天台大師は「法華文句」に
「『その時に仏は上行らに告ぐ』より下は、第三の結要付嘱である」
等と述べています。

また伝教大師はこれを解釈して「法華秀句」に、
「また神力品には『肝要を取り上げていうならば、如来の一切の所有の法を(中略)
宣べ示し説き顕されている』と説かれている。
これによって明らかに知ることができる。
仏果の上の一切の所有の法、一切の自在の神カ、
一切の秘要の蔵、一切の甚深の事が 
みな法華経において宣べ示し説き顕されたのであるということを」等と述べています。

この十種の神力は、
妙法蓮華経の五字を上行・安立行・浄行・無辺行らの四大菩薩に授け与えるために顕されました。

前の五神力は釈尊の在世のため、
後の五神力は釈尊の滅後のためです。
しかしながら、一歩立ち入って論ずるならば、全て滅後のためなのです。

ですから、次の下の文に
「仏の入滅した後に、よくこの経をたもつであろうから、
諸仏はみな歓喜して無量の神力をあらわされたのである」(神力品)等とあります。

神力品の次の嘱累品に、
「その時に釈迦牟尼仏は法座より起って大神力を顕された。
右の手をで無数の菩薩の頭の頂をなで、(中略)今 汝たちに付属する」と説かれています。

すなわち地湧の菩薩を先頭にして迹化・他方の菩薩、
ないし梵天・帝釈・四天王等にこの経を付嘱されたのです。

この付属が終わると
「十方世界から集まり来ていた諸々の分身の諸仏を各々の本土へ還らせ、(中略)
多宝仏の塔も閉じてもとのようにしなさい」(嘱累品)等と説かれています。

つぎの薬王品以下の各品や涅槃経等は、
地湧の菩薩が去り終わった後、迹化や他方の菩薩たちのために重ねてこの経を付属されています。
いわゆる
君拾遺嘱(くんじゅういぞく)」というのがこれです。


10  地涌出現の時節を明かす


疑っていうには、
正法・像法二千年のあいだに地涌千界の大菩薩が閻浮提に出現してこの経を
流通されるのでしょうか。

答えていうには、そうではありません。

驚いていうには、




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法華経全体、および法華経本門は仏滅後を本として、まず地涌千界の大菩薩に授与されました。
どうして仏滅後の正法・像法時代に出現してこの経を弘通しないのでしょうか。

答えていうには、それについては宣べません。

重ねて問うていうには、どうして出現せず、弘通しないのでしょうか。

答えていうには、これを宜べることはしません。

また重ねて問うていうには、どうしてでしょうか。

答えていうのには、
これを宣べますと一切世間の人々は、威音王仏の末法の四衆のように、
増上慢をおこして地獄へ堕ちるでしょうし、
また我が弟子の中にもほぼこれを説いたならば、みな誹誘するでしょう。
だからただ黙止するのみです。

求めていうのには、
もし知っていて説かないなら、あなたは慳貪の罪におちるでしょう。

答えていうのには、
進退窮まってしまいました。
それでは試みにほぼこれを説いてみましょう。

法華経法師品には
「まして滅後の後はなおさら怨嫉が多い」と説かれ、

寿量品には「いま留めてここにおく」と説かれ、

分別功徳品には「悪世末法の時」とあり、

薬王品には
「後の五百歳すなわち末法の初めに全世界において広宣流布するであろう」
と説かれています。

さらに涅槃経に
「たとえば七人の子供があるとする。父母は子供に対して平等ではないということはないが、
しかし病気の子には心をひとえに重くかけるようなものである」等と説かれています。

以上の経文を明かな鏡として仏の真意を推しはかってみますと、
釈迦仏の出世は霊鷲山で八年にわたって法を聞いた人々のためではなく、
釈尊滅後の正法・像法・末法の人のためです。
また正法・像法二千年の間の人のためではなく、
末法の始めの私のような者のためです。

涅槃経に説かれる
「しかし病気の者には」というのは、釈尊滅後において法華経を謗る者を指すのです。

寿量品にいう「いま留めてここにおく」というのは、
「このすばらしい色香の薬をよくないと思う」(寿量品)という考えを指しているのです。

地涌千界の大菩薩が正法・像法時代に出現しないのはつぎのような理由によるのです。

正法一千年あいだは小乗教・権大乗教が流布する時で、
人々は寿量文底下種の三大秘法を受持する機根ではなく、弘通する時でもなく、
四依の菩薩たちは小乗教・権大乗教をもって縁となし、
釈尊在世に仏種を植えられた衆生を得脱させたのです。
その時代に法華経を説いてもそしるばかりで、
過去に植えられた仏種が成長し調熟しつつあるのを破ってしまうでしょうから、
これを説かなかったのです。
たとえば釈尊在世において前四味の爾前経で化導された衆生のようなものです。

像法時代の中ごろから末にかけて、
観音菩薩は商岳大師として、
薬王菩薩は天台大師と示現して世に出現し、法華経迹門を面にし、
本門を裏として、百界千如、一念三千の法門の義を説き尽くしました。
しかし、
ただ理性として具えていることを論じただけで、
事行の南無妙法蓮華経の五字、
ならぴに本門の本尊については 未だひろく外に向かって行ずることはありませんでした。
それは結局、円教を受け入れる機根は一分ありましたが、
円教の弘通される時ではなかったからです。

いま末法の初めに入って、小乗教をもって大乗教を打ち、権教をもって実教を破り、
それは、東と西ともに方向を失い、天と地が逆になったような状態です。
正法・像法時代に正法を弘めた迹化の四依の菩薩はすでに隠れて世に存在しません。

諸天善神はそのような国を捨て去り、守護しません。
この時、地湧の菩薩が初めて世に出現し、
ただ妙法蓮華経の五字の良薬をもって幼稚の衆生に飲ませるのです。
「法華文句記」にいう
「正法をそしることによって悪におちたならば、かならずその因縁によって利益を得る」
というのがこの事です。

我が弟子たちはこのことをよく考えなさい。
地涌千界の菩薩は教主釈尊が初めて悟りを求める心をおこした時以来の弟子です。
しかし、釈尊が成道した寂滅道場にも来なかったし、沙羅双樹林において入滅された時にも
おとずれなかった。
これは不孝の罪というべきでしょう。

法華経迹門の十四品にも来ないで、
本門の薬王品第二十三以下の六品には座を立ってしまいました。

ただ本門の涌出品から嘱累品までの八品のあいだだけ来還したのです。




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このょうな高貴の大菩薩が釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏にたいして
末法に弘通することを約束して妙法五字を受持したのです。
末法の初めに出現されないことがあるでしょうか。
まさに、
この上行らの四菩薩は、折伏を現ずる時には賢王となって愚王を責め誠め、
摂受を行ずる時は聖僧となって正法を弘持するのです。

問うていうには、仏が未来を予言して記した文はどうでしょうか。

答えていうには、
法華経薬王品に
「後の五百歳に、全世界において広宣流布するであろう」と説かれています。

天台大師は「法華文句」に
「後の五百歳から、末法の未来永劫に妙法が流布するであろう」と記し、

これを解釈して妙薬は「法華文句記」に
「未法の初めは下種益が必ずある」と記しています。

さらに伝教大師は「守護国界章」に
「正法・像法時代はほとんど過ぎ終わって、末法が非常に近づいている」等と述べています。

「末法が非常に近づいている」との釈は伝教自身の時代は三大秘法の南無妙法蓮華経が
正しく流布される時ではない、という意味です。


伝教大師が日本に出現して、末法の始めを記していうには、
「時代をいうならば像法時代の終わり、末法の初めであり、
その地をたずねれば中国・唐国の東で靺羯(まかつ)国の西にあたり、
その時代の人をたずねれば、五濁の盛んな衆生であり、闘諍堅固の時代である。

法華経法師品に、
『如来の現在さえなお怨みやねたみが多い。まして滅度の後の末法にはなおさらである』
と説かれているが、この言葉はまことに深い理由がある」と。

この伝教の釈に「闘諍の時なり」とありますが、
いまの自界叛逆と西海侵逼の二つの難を指すのです。
この時に地涌千界の大菩薩が出現して、
法華経本門の釈尊を脇士とする全世界第一の本尊が、この国に建立されるのです。

インド・中国にいまだこの本尊は建立されませんでした。

日本国の聖徳太子は、四天王寺を建立しましたが、
いまだこの本尊を建立する時が来ていなかったので、阿弥陀仏という多宝仏を本尊としました。

聖武天皇は東大寺を建立しましたが、その本尊は華厳経の教主の盧舎那仏で、
いまだ法華経の実義を顕わしていません。
伝教大師は ほぽ法華経の実義を顕し示しました。
しかし、時がいまだ来ていなかったので、東方の薬師如来を建立して本尊とし、
本門を四菩薩は顕していません。
それは、釈尊が地涌千界の菩薩のために、本門の本尊を譲り与えられたからです。

この地涌の菩薩は仏の命令をうけて近く大地の下にいます。
正法・像法時代にはいまだ出現していません。
末法にもまた出現されなかったならば大妄語の菩薩です。
釈迦・多宝・十方分心の三仏の未来記もまた方沫と同じになってしまいます。

以上のことから考えてみますと、
正法・像法時代になかったような大地震・大彗星等がいま出てきています。
これらは金翅鳥・修羅・竜神などのおこす動変ではありません。
ひとえに四大菩薩を出現させるための兆しでしょう。

天台大師は「法華文句」に
「雨の激しさを見て、その雨を降らせている竜が大きいことを知り、
蓮の花のさ盛んなのを見て、その池の深いことを知る」等といい、

妙楽は「法華文句記」に
「智人は物事の起こりを知り、蛇は自らのことをよく知っている」等といっています。

天が晴れたならば地はおのずから明らかになります。
法華経を識(し)る者は 世間の法をもおのずから得る事でしょう。


11  総結


一念三千を識(し)らない末法の衆生に対して、
仏(久遠元初の御本仏)は大慈悲を起こし、妙法五字のうちに一念三千の珠をつつんで、
末代幼稚の者の首にかけさせてくださるのです。




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本化地涌の四大菩薩が、
この幼稚の衆生を守護されることは、大公・周公が文王に仕えてよく助け、
商山の四晧が恵帝に仕えたのと異ならないのです。

                            文永十年四月二十五日

                                  日蓮これを記す










最終更新:2011年03月14日 08:18