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 如来滅後五五百歳始観心本尊抄
 (如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄)
  にょらいめつごごごひゃくさいにはじむかんじんのほんぞんしょう
  nyoraimetugo gogohyakusai ni hajimu kanjin no honzonsyou


                                           本朝      沙門    日蓮撰
                                           文永十年四月二十五日      五十二歳御作
                                           富木常忍に与う      佐渡一ノ谷に於いて 


1  一念三千の出処を示す


天台大師があらわした「摩詞止観(まかしかん)」の第五の巻に次の様にあります。
(一念三千をあらわすのに三千世間と三千如是とあるが同じ事である。
それは開と合のちがいなのである。)

「そもそも生命には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の
十種の界をそなえている。
その一つの界にまた十種の界を具えているので合して百種の界となる。
この百種の界の一界ごとに、十如是と三世間を合した三十種の世間を具えているので、
百種の界にはすなわち三千種の世間を具えているのである
この三千世間は一念の心に具わっている。もし心がないのならそれまでであるが、
わずかでも心があれば、
すなわち三千世間を具えているのである。 だから名づけて不可思議境となすのである。
意(こころ)はじつにここにあるのである」等と。

(ある本には「一界に三種の世間を具えている」とある)

問うていうには、
天台の「法華玄義」に一念三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、妙薬大師は「明かしていない」と言っています。

問うていうには、
天台の「法華文句」に一念三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、妙楽は「明かしていない」と言っている。

問うていうには、その妙薬の解釈はどうでしょうか。

答えていうには、
妙楽は「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」に
「並びに未だ一念三千といっていない」等といっています。

問うていうには、
天台の「摩訶止観」の一・二・三・四の巻等に一念一三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、その名称はありません。

問うていうには、その証拠がどうですか。

答えていうには、妙薬は「止観輔行伝弘決」に
「ゆえに「摩訶止観」第五巻のまさしく観法を明かすにいたって、
ならびに一念三千をもってその指南としたのである」等といっています。

疑っていうには、「法華玄義」第二には
「又、一つの界に他の九の界をそなえているので百界となり、
一界ごとに十如是をそなえているから、百の界には千如是となる」等とあります。

「法華文句」第一には
「一入(にゅう)に十種(しゅ)の界をそなえているから、一界に十界を互具して百界となる。
十界にそれぞれ十如是があるので、即ち千如是である」等とあります。

天台大師のあらわした「観音玄義」には
「十法界が交互(たがい)にそなえているので百法界となり、
百法界に十如是をそなえて千如是となる。
その千種の如是は冥伏して心にある。目の前に現れていないといっても、
はっきりそなえている」等とあります。
これらの意はどうかとの疑いを設けている。
その答えはないがこれらの意はすべて千如是を明かしており、
一念三千を明かしていないことが文にあって明らかである。

問うていうには、
「摩訶止観」の前の四巻に一念三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、
妙薬は「明かしてない」といっています。

問うていうには、
その妙楽の解釈はどうなのでしょうか。

答えていうには、妙楽は「止観輔行伝弘決」の第五の巻に、
「もし「摩訶止観」の第五の巻 正観章(しょうかんしょう) 第七に対すれば、
それまでの一・二・三・四巻等は全く未だ観心の行を論じておらないで、
また二十五法の修行等を明かし、具体的な問題にことよせて理解をおこさせている。
正によく正修(しょうしゅう)のための方便の行とすることができるのである。
この様な訳で、先の六章(第四巻まで)は皆理解の段階に属して正行ではなかった」
等といっています。

また同じく、
「故に、「摩訶止観」のまさしく観法を明かすにいたって、
ならびに一念三千をもってその指南としたのである。




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即ちこれが最終究極の説法である。
だから章安大師は「摩訶止観」の序分の中に
「天台大師の己心の中に行ずる所の法門すなわち一念三千の法門を説かれたのである」
といっているが、まことに深い理由があるのである。
願わくは、たずね読もうとする者は、他のものに心をうばわれてはならない」
等といっています。

天台智者大師が法を弘めたのは三十年間です。
そのうち二十九年の間は「法華玄義」や「法華文句」等を
種々の義を説いて五時八教や百界千如を明かして、
それ以前の五百余年の間の中国における諸宗の誤りを責め、
さらにインドの大論師さえいまだかつて述べたことのない甚深の奥義・法門を
説きあらわしました。
奉安大師は天台を賛嘆して、
「インドの大論師さえなお天台大師に比べれば比較することができない。
いわんや中国の仏教学者をどうして一々挙げて批評する必要があろうか。
これは決して誇りたかぷっていうのではなくて、
まったく天台の説かれた法相・説く法門自体がそのように優れ勝っているからである」
等といっています。
浅はかなことに、天台の末の学者らは華厳宗や真言宗の元祖の盗人に
一念三千の重宝を盗み取られて、かえって彼らの門家となってしまいました。
章安大師はかねてこのことを知って嘆いていうには、
「この一念三千の法門がもし将来失墜するようなことがあれば実に悲しむべきことである」と。


2  一念三千は情・非情にわたることを明かす


問うていうには、
百界千如と一念三千とどう違うのでしょうか。

答えていうには、
百界千如は有情界に限られ、一念三千は有情界・非情界にわたっています。

いぶかっていうには、非情界にまで十如是がわたり因果が具わるならば、
草木にも心が有って有情と同じ様に仏道を修行して成仏することができるのでしょうか。

答えていうには、
このことは理解し難いことです。
天台の難信難解に二つあります。
一には教門、即ち言葉で説法された面での難信難解、二には観門、
即ち覚るべき法門の面での難信難解です。
その教門の難信難解とは、釈尊という同じ仏の諸説において、
爾前の諸経では声聞・縁覚の二乗と
一闡提(いっせんだい)の者は未来永久に成仏しないと説き、
また教主釈尊はインドで始めて悟りを成就したと説いたが、
法華経迹門では二乗と闡提(せんだい)の成仏を説き、
また本門では始成正覚を破って久遠実成を説き顕わして、
爾前経の二つの説を打ち破りました。
この様に爾前と法華経では所説がまったく相反するので
一仏が二言となり水と火の様に相入れない説で
誰人がこれを容易に信ずることができるでしょうか。
これは教門の難信難解です。
観門の難信難解とは、百界千如・一念三千であり、
非情界に色心の二法・十如是を具えていると説く点である。
しかしこの点が難信難解であるからと言っても木像や画像においては、
仏教以外の外道でも仏教の各派でもこれを許して本尊としているが、
その義は天台一宗からでているのです。
なぜなら非情の草木の上にも色心の因果を具えているとしなければ、
木画の像を本尊として崇めたてまつることがまったく無意味になるからです。
疑っていうには、
それでは非情の草木や国土のうえにも十如是の因果の二法を具えているということは、
どの文に出ているのですか。

答えていうには、「摩訶止観」の第五の巻に、
「非情の国土世間もまた十種の法すなわち十如是を具えている。
だから悪国土には悪国土の相・性・体・カ・作・因・縁・・本末究責等等の十如是があり、
同じく善国土にも二乗の国土にも菩薩の国土にも仏国土にも
それぞれの十如是を具えている」等とあります。

妙楽のあらわした「法華玄義釈籤(ほっけげんぎしゃくせん)第六に
「相は外面に顕われたものだから唯色である。性は内在する性質だから唯心である。
また体は物の本体で色心をかね、力は外に応ずる内在性で、作は外部への活動、
縁は善悪の事態を生ずる助縁であり、
これらの体・力・作・縁は皆色心の二法を兼ね、因と果は唯心、報は唯色である」
等と説いています。
また同じく妙楽の「金錍論(こんぺいろん)」には、
「すなわち一本の草、一本の木、一つの礫(つぶて・小石)、
一つの塵等、それぞれ一つの正因仏性(しょういんぶっしょう)、
一の因果が具わっており縁因(えんいん)仏性・了因(りょういん)仏性も具えている。
すなわち実在する物はことごとく本有常住の三因仏性を具足しており
  • 非情の草木であっても有情と同じく
色心・因果を具足していて成仏するのである」等と説かれています。




3  略して観心を述べる


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問うていうのには、
一念三千の法門の出処が摩詞止観の第五に説かれているということを既に聞いて了解しましたが
観心の意義はどうでしょうか。

答えていうのには、
観心とは自己の心を観察して、自己の生命に具わっている十方界を見る事です。
このことを観心というのです。
たとえば他人の眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)の六根を見ることはできますが、
自分自身の六根をみることができなければ、自分自身に具わっている六根を知りません。

明らかな鏡に向かったとき始めて自分の六根を見ることができるように、
たとえ爾前の諸経の中に、処処に六道ならびに四聖を説いているといっても、
法華経ならびに天台大師の述べられた摩詞止観等の明らかな鏡を見なければ
自身の生命に具わっている十界・百界・千如・一念三千を知ることは出来ないのです。


4  広く観心を述べる


問うていうのには、
十界互具・一念三千を説く法華経はどのような文があり、
天台の釈にはどのような釈があるのでしょうか。

答えていうのには、法華経第一の巻の方便品に
「衆生の生命の中にある仏の智慧を開かせたいと思う」等とあります。
これは総じて九界の衆生すべてに仏界が具わっていることをあらわしています。
寿量品に
「このように私が成仏してよりこのかた、はなはだ大いに久遠である。
その寿命は無量阿僧祇劫(むりょうあそぎこう)を経ており、常住不滅である。
諸々の善男子よ・私が本(もと)菩薩の道を修行して成就した所の寿命は、
今なお未だ尽きてはいない。
未来もまたその寿命は五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)の数に倍するのである」
等と説かれています。
この経文は仏界に九界が具わっていることをあらわしています。

提婆達多品(だいばだったほん)に、
「提婆達多は~天王如来となる」等とあります。
ごれは謗法の罪によって地獄へ堕ちた提婆達多すら仏界を具えていることを示しており、
地獄界に仏界が具っていることをあらわしています。

陀羅尼品(だらにほん)には
「十人の羅刹女(らせつにょ)の第一を藍婆といい、~十羅刹女たちよ、
よく妙法蓮華経をたもった者を守る者は、その福ははかりしれない」等と説かれています。
これは餓鬼界に十界が具わっていることをあらわしています。

捏婆達多品には
「竜女が ~等正覚を成じた」と説かれています。
竜は畜生であるから、これは畜生界に十界が具わっていることをあらわしています。

法師品には
「婆稚阿修羅王(ばじあしゅらおう)が、法華経の一偈一句を聞いて随喜の心を起こすならば
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得る」等とあり、
これは修羅界に十界が具わっていることを示しています。

方便品に
「若し人が仏を供養する為に、形像を建立するならばこの人は必ず仏道を成就する」等とあります。
これは人界に十界が具わっていることを示しています。

譬喩品に
「大梵天王等の諸天子は、我等も亦舎利弗のように必ず成仏するであろう」等とあり、
これは天界に十界が具わっていることを示しています。

方便品に
「舎利弗は華光如来となる」等とあり、
これは声聞界に十界が具わっていることを示しています。

同じく方便品に、
「縁覚を求める比丘・比丘尼等が、仏に合掌し敬う心を以て具足の道を聞きたいと願った」等とあり、
具足の道とは、一念三千の妙法蓮華経であって
すなわちこれは縁覚界に十界を具えていることを示しています。

神力品に
「地涌千界の大菩薩等は~真実に清浄な大法を得たいと願った」等とあり、
真実に清浄な大法とは事の一念三千の南無妙法蓮華経であって、
これは、即ち菩薩界に十界が具わっていることを示しています。

寿量品には
「或(あるいは)己身(こしん)を説き或は他身(たしん)を説き、或は己身を示し或は他身を示し、
或は己事を示し或は他事を示す」等と説いています。
即ち仏界に十界が具わっていることを示しています。

問うていうのには、
自分や他人の面にあらわれた六根は見ることが出来ます。
他人や自身の生命に具わっているという十界は、いまだ見た事がありません。
どうしてこのことを信じることができるでしょうか。

答えていうのには、法華経法師品には
「信じ難く解し難し」と説かれ、
同じく宝塔品には、
六難九易も挙げて法華経の難信難解が説かれています。

また、天台大師は「法華文句」に
「法華経は迹門・本門二門ともにその説はことごとく昔に説いた教えと反しているので
信じ難く理解し難いのである。」
と述べ、




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また章安大師は「観心論疏(かんじんろんしょ)」に、
「仏はこの法華経をもって大事となしているのである。どうして理解し易いわけがあろうか」
等といい。

伝教大師は「法華秀句(ほっけしゅうく)」に、
「この法華経は最も信じ難く理解し難いのである。
なぜなら、衆生の意に随って説いた随他意の爾前経と異なって
仏が悟りの真実をそのままに説いた隋自意(ずいじい)の教えであるから」等といっています。

そもそも釈尊の生存中、釈尊の教化をうけた衆生の機根は、過去に下種をうけて宿習が厚いうえ、
釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界(じゆせんがい)の大菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩等が、
法華経をたすけて諫暁したのに、それでもなお信じない者がありました。
即ち、五千人の増上慢が席を去り、
多くの人界、天界の衆生が他の国土へ移されました。
まして仏の入滅後の正法・像法時代はますます難信難解であり、
さらに末法の初めは、なおさら難信難解です。
もしあなたがたやすく信じられるなら、それは正法ではないといってもいいでしょう。


5  一念の心に十界がそなわることを明かす


問うていうには、
法華経の文、ならびに天台大師や章安大師らの解釈については疑いありません。
ただし十界互具の説は、火を水であるといい、墨を白いといっている様なものです。
たとえ仏の説いた教えであっても信じられません。

今、しばしば他人の顔を見てみますと、ただ人界ばかりで他の九界は見られません。
自分の顔もまた同じです。
どうして十界を具えていると信じられるでしょうか。

答えていうには、
しばしば他人の顔を見てみますと、ある時は平らかに、ある時は貪りの相をあらわし、
ある時は癡(おろ)かさをあらわし、ある時は諂曲(てんごく)です。
瞋(いか)るのは地獄、貪るのは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なのは修羅、喜ぶのは天、平らかなのは人です。

このように他人の顔の色法には六道がすべて具わっています。
四聖は冥伏していて現れないけれども、くわしく探し求めれば必ず具わっているのです。

問うていうには、
六道については、明確にではないまでも、ほぼ、その説明を聞いて具えているように思います。
しかし、四聖はまったく見えないのはどうしてでしょうか。

答えていうには、
前には人界に六道が具わっていることを疑っていました。
そこで、しいて一つ一つの相似した例をあげて説明したのです。
四聖もまたこれと同じでしょう。
こころみに道理をつけくわえて、万分の一でもこれを述べてみましょう。

すなわち世間の生滅変化の姿は眼前にあります。
これを無常と見ているのですから、どうして人界に二乗界がないといえるでしょうか。
またまったく他をかえりみることのない悪人も、やはり妻子に対しては慈愛の心をもっています。
これは人界に具わっている菩薩界の一分です。
ただ仏界ばかりはあらわれにくいのです。
しかし、すでに九界を具えていることをもって、仏界のあることを信じ、疑ってはなりません。

法華経方便品の文に人界を説いて、
「衆生の生命の中にある仏の智慧を聞かせたいとおもう」とあり、
涅槃経に、
「大乗を学ぶ者は肉眼であったとしても、それは仏眼となづける」等とあります。

末法の凡夫が人間として生まれ、法華経(御本尊)を信ずるのは、人界に仏界を具えているからです。

問うていうには、
十界互具についての仏の言葉は明確になりました。
しかし、私達の劣等な心に仏法界を具えているということは、とても信ずることが出来ません。
いま、もしこのことを信じないなら、必ず一闡提(いっせんだい)となるでしょう。
願わくは、大慈悲をおこしてこれを信じられるようにし、
阿鼻地獄へ堕ちて苦しむことから救って下さい。




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答えていうには、
あなたはすでに法華経方便品の「唯一大事因縁」の経文を見聞していながらこれを信じないのだから、
釈尊よりはるかに劣る、
仏滅後に正法をたもって人々のよりどころとなった四依の菩薩や末法の理即の凡夫である私達が、
どうしてあなたの不信を救うことができるでしょうか。

そうではあるけれど、試みに述べてみましょう。
というのは、釈尊にお会いし教化されながら悟ることのできなかった者が、
阿難らによって得道した者があったからです。

そもそも衆生の機根には二種類があります。
一には仏に直接お会いし、法華経によって得道した者、ニには仏にはお会いしなかったけれども、
法華経によって得道した者です。

そのうえ仏教以前の時代に、中国の道士やインドのバラモン外道のなかには、
儒教や四韋陀(しいだ)などの教えをもって縁となし、正しい悟りの境涯に入った者がありました。

また、すぐれた機根の菩薩や凡夫たちのなかには、
華厳・方等・般若など種々の大乗経を聞いた縁によって、
三千塵点劫の昔に大通智勝仏より、
また五百塵点劫の昔に久遠実成の釈尊より法華経の下種をうけたことを
悟った者がたくさんいました。
たとえば独覚の人が、飛び散る花や落ちる葉などを見て悟るようなものです。
これを教化の得道というのです。

過去世に法華経の下種、結縁がない者で、
権教や小乗経に執着する者は、たとえ法華経に会いたてまつっても
小乗経・権経の考え方から出ることができません。
自分の考えをもって正義とするから、かえって法華経をあるいは小乗経と同じだといい、
あるいは華厳経や大日経と同じだといい、
あるいはこれらの経々より劣っているといって法華経を下すのです。
このように主張している諸師は儒教や外道の賢人・聖人よりも劣っている者です。
これらのことはしばらくおいておきましょう。

十界互具の説を立てることは、石の中に火があり、木の中に花があるというように信じ難いけれども、
縁にあって火や花があらわれる人々はこれを信じます。

人界に仏界を具えていることは、水の中に火があり、
火の中に水があるというように最もはなはだ信じ難いことです。
しかし、竜火は水から出現し、竜水は火から生まれるといわれています。
理解出来ないけれども現実の証拠があるからこれを信じてるのです。

すでにあなたは人界に地獄界から菩薩界までの八界が具わっていることを信じました。
それでは人界に仏界が具わっていることをどうして信じられないのでしょうか。
中国古代の堯王(ぎょうおう)や舜王(しゅんのう)らの聖人は、
すべての民に対して偏頗(へんぱ)無く平等な政治を行いました。
これは人界に具わった仏界の一分の顕れです。
不軽菩薩はみる人ごとに仏身を見ました。
悉達太子は人界から仏身を成就しました。
これらの現実の証拠をもって人界に仏界が具わっていることを信ずるべきです。


6  受持に約して観心を明かす


問うていうには、
教主釈尊は(これより以下は固く秘しなさい)見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を既に断じ尽くした仏です。
また十方世界の国主であり、一切の菩薩・二乗・人・天らの主君です。
釈尊が行かれるときは、大梵天王は左に、帝釈天王は右にお伴をし、
四衆や八部衆は後ろに従い、金剛神は前を導き、
八万法蔵といわれる一切経を演説して、一切衆生を得脱させるのです。
このように尊い仏陀を、どのようにして私達凡夫の己心に住せさせられましょうか。
また、法華経迹門および爾前経の意(こころ)をもって論じますと、
教主釈尊はインドに生まれて成道した始成正覚の仏です。
過去にどのような、成道の原因となる修行をしたのかと尋ねてみますと、
あるいは能施太子と生まれて布施を行じ、あるいは儒童菩薩と生まれて仏を供養し、
あるいは尸毘王(しびおう)と生まれて鳩にかわって身を鷹ににあたえ、
あるいは薩埵王子(さつたおうじ)と生まれて飢えた虎に我が身を施しました。
このような菩薩行をあるいは三祗(ぎ)百劫(こう)、あるいは動踰塵劫(どうゆじんこう)、
あるいは無量阿僧祗劫(むりょうあそぎこう)、あるいは初発心より正覚を成ずるまで、
あるいは三千塵点劫などという長遠のあいだ、
七万五千、七万六千、七万七千等といった多くの仏を供養し、
劫をつみ、修行を満足して、いまの教主釈尊となられたのです。




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このような因位における諸々の修行が、
みな私達の己心に具えている菩薩界の功徳だというのでしょうか。

仏果の位からこれを論じますと、教主釈尊は始成正覚の仏です。
成道してより四十余年の間、蔵・通・別・円の四教を説くたびにそれぞれの仏身を示現し、
爾前経・法華経迹門・涅槃経等を演説して、一切衆生を利益されました。
いわゆる華蔵世界が説かれた華厳経説法の時は、十方台上の盧舎那仏(るしゃなぶつ)とあらわれ、
阿含経の時には、三十四の智慧心をもって見思の惑を断じ成道した仏としてあらわれ、
方等教や般若経の時には諸仏や千仏として、大日経・金剛頂経の時には千二百余尊としてあらわれ、
ならびに法華経迹門の宝塔品では同居土・方便土・実報土・寂光土の四土の仏の色身を示現し、
涅槃経の時には、会座の大衆があるいは一丈六尺の仏身と見たり、あるいは小身・大身とあらわれ、
あるいは盧舎那報身仏とみたり、あるいはその身が虚空と等しい法身仏と見ました。
このように四種の身を示され、さらに八十歳で御入滅の後は仏の身骨をとどめて、
正法・像法・末法の一切衆生を利益されたのです。
法華経本門の意をもってこれを疑ってみますと、教主釈尊は五百塵点劫以前の仏です。
因位もまた同じく長遠です。
それより以来、十方の世界に分身して出現され、一代聖教を演説し、無数の衆生を教化されました。
本門にいおいて明かされた弟子の数を迹門での弟子に比較してみますと、
一滴の水と大海と、一塵と大山とを比べるようなものです。
本門の一菩薩を迹門の十方世界の文殊・観音らの菩薩に並べると、
猿を帝釈天に比較してもその差はなお及びません。

その他、十方世界の、惑いを断じ悟りの果を証得した声聞・縁覚の二乗や、
梵天・帝釈・日天月天・四天の天界、
四輪王の人界、ないし無間大城の大火炎など、これらはみな我が一念に具わる十界なのでしょうか。
己身の三千だというのでしょうか。
たとえ仏の説だといっても、信じることは出来ません。
以上のことから考えてみますと、爾前の諸経のほうが真実であり、真実を説いています。

華厳経には
「究極の悟りは煩悩という虚妄を離れ、虚空のように清浄でけがれがない」とあり、

仁王経には
「煩悩・無明の根源、本性を窮めつくして、仏界の智慧だけがある」とあり、

金剛般若経には
「悟りにいたければ清浄の善だけがある」と説かれています。

馬鳴菩薩があらわした大乗起信論(だいじょうきしんろん)には
「如来蔵のなかには清浄の功徳だけがある」とあります。

天親菩薩があらわした成唯識論(じょうゆいしきろん)には
「煩悩を断じていない有漏(うろ)の人と、煩悩を断じても劣っている無漏の人とは、
金剛のごとき堅固な禅定が現れれば極円明純浄(ごくえんみょうじゅんじょ)の悟りに入ることが出来る。
余の有漏と劣の無漏は必要ないので、永久に捨てるのである。」等とあります。

爾前の経々と法華経とを比べ考えあわせますと、爾前の経々は数かぎりなく、
説かれた期間もはるかに法華経より長いのです。

ですから、このように互いに反する教えのうちどちらにつくかとなれば、爾前経につくべきです。

馬鳴菩薩は仏の一切の教説を付嘱し伝持した第十一番目の人で、仏の予言にしるされています。
天親菩薩は千部の論をつくった人で、仏の滅後に衆生のよりどころとなった四依の大菩薩です。
それに比べて、天台大師はインドからみれば辺ぴな地の小僧で、一つの論も述べていません。
だれが天台大師を信ずることが出来るでしょうか。

そのうえ、たとえ多いほうの爾前経を捨て少ないほうの法華経につくとしても、
十界互具・一念三千について法華経の文が明らかであれば、少しはよりどころとなるでしょうが、
法華経のなかのどこに十界互具・百界千如・一念三千を説いた明らかな証文があるのでしょうか。
したがって法華経を開いてみますと、方便品に
「諸法の中の悪を断ずる」等とあり、九界の悪を断ずるところに仏界があるとされています。




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天親菩薩の法華論、堅慧菩薩(けんねぼさつ)の「宝性論」にも、十界互具は説かれておらず、
中国南三北七の諸々の大人師、また日本の七宗の末師のなかにも十界互具の義はありません。
ただ天台一人の間違った考えであり、それを伝教一人が誤り伝えたのです。

ゆえに中国華厳宗第四祖の清涼国師は「天台の誤りである」といい、

中国華厳経の慧苑法師は「三蔵は大乗教・小乗教に通ずるものであるにもかかわらず
天台は小乗教を三蔵と名づけ、
誤り混乱させている」等といっています。

了洪は「天台ひとり、いまだ華厳の真意を理解していない」等といい、

日本の法相宗の得一は「つたないかな智公(天台大師のこと)よ、なんじはいったいだれの弟子か。
三寸にも足らない凡夫の舌で、広く長い仏の舌をもって説かれた三時教説をそしるとは」
等といっています。

また真言宗の弘法大師は弁顕密(べんけんみつ)ニ経論で、
「中国の人師たちはきそって六波羅蜜経の醍醐を盗んで、それぞれ自宗派を醍醐の宗と名づけている」
等といっています。

このように、一念三千の法門は、釈尊一代の権教・実経にもその名称はなく、
正法時代に衆生のよりどころとなった四依の諸論師もその義を著書に載せていません。
像法時代の中国や日本の人師もその義を用いていません。

どうしてこれを信じることが出来るでしょうか。

答えていうには、
この非難はもっとも厳しいものです。
ただし、爾前(にぜん)の諸経と法華経の違いは、経文にその根源があり明らかです。
すなわち釈尊自身、爾前経は未顕真実(みけんしんじつ)、
法華経は己顕真実(いけんしんじつ)と説かれ、
それを多宝・十方諸仏が証明されていること、
また教えの内容で、爾前経の二乗永不成仏(にじょうようふじょうぶつ)と法華経の二乗成仏、
爾前経の始成正覚と法華経の久遠実成などが、
爾前経と法華経のどちらを信ずべきかをはっきりあらわしています。

つぎに諸論師について、天台大師は摩訶止観に
「天親菩薩や竜樹菩薩は一念三千の法門を心の中でははっきりと知っていた。
しかし、外にたいしては時代に適した法門を立て、それぞれ権教によったのである。
ところが、その後の人師や学者はかたよって解釈し、それを学者達はいいかげんに信じて執着し、
ついには互いに争いを起こし、各派は仏教の一辺にとらわれて
おおいに正しい覚りの道に背いてしまったのである」等といっています。

章安大師は
「インドの大論師でさえなお天台大師に比べればその比ではない。
中国の人師など、わずらわしく語るまでもない。これは決して誇り自慢していっているのではなく、
天台の説く法門自体が優れているからである」等といっています。

天親・竜樹・馬鳴・堅慧らの正法時代の論師たちは一念三千の法門を心の中では知っていましたが、
今だ流布する時が来ていなかったので、これを述べなかったのでしょうか。
像法時代の人師たちにおいては天台大師以前はあるいは一念三千の宝の珠を内心にふくんで
外に説かなかった人もいれば、あるいはまったくこれを知らない人もいました。
天台以後の人師は、
あるいは最初は天台の説を批判しましたが、後に帰伏した者もありますし、
あるいは最後までこれを用いない者もありました。

ただし、先にあげた法華経方便品の
「諸法の中の悪を断ずる」の経文について説明しておかなければなりません。
この方便品の文は、法華経に爾前の経文をのせているのです。
法華経をよく見てみますと、そこにははっきりと十界互具が説かれています。
いわゆる方便品に「衆生の生命の中にある仏の智慧を聞かせたいと思う」等という文がそれです。

天台大師はこの経文をうけて摩訶止観に

「もし衆生の生命の中に仏の智慧がないならば、どうしてそれを聞かせたいと論じるであろうか。
まさに仏の智慧は衆生の生命の奥底にあることを知るべきである」といっています。

さらに章安大師は観心論疏(かんじんろんしょ)に
「衆生にもし仏の智慧がないならば、どうしてそれを聞き悟ることができるであろうか。
もし貧しい女性に自分の蔵が無いならば、どうして示したりできるであろうか」等といっています。

ただし、説明することが難しいのは、さきにあげた権教・迹門・本門の教主釈尊が
私たちの己心に住するとは考えられないとの非難です。
このことを仏は遮って、次のようにいわれています。













最終更新:2011年03月14日 08:16