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また梵天に生まれるには、有漏定(うろじょう)の引業の上に、
慈悲の行を加えて生まれるのです。

今、この貧しい女性が、子を思う慈悲心の故に梵天に生まれたのは、
通常のあり方とは違っています。

これについて章安の二つの解釈がありますが、
結局は子を思う慈悲心より他に何もありません。

思いを、
子供という一つの対境に集中する、これは定善(じょうぜん)に似ています。
ただひたすら子を思う、これはまた慈悲にも似ています。
ですから他の善根は無かったけれども梵天に生まれたものでしょうか。

また仏になる道は、華厳宗の唯心法界、三論宗の八不(はっぷ)中道、
法相宗の唯識(ゆいしき)、真言宗の五輪観(ごりんかん)なども
実際には叶うとは思えません。
ただ天台の一念三千こそ仏になる道であると思われます。

ところが、この一念三千についても、
私は少しも仏智をもって正しく悟っていません。
しかし、釈尊一代の経々の中では、
この法華経だけが一念三千の玉を抱(いだ)いています。
他の経々に説かれた教理は、玉に似た黄色い石です。

例えば、砂を絞(しぼ)っても油は出てこないし、
石女(うまずめ)に子が出来ない様なものです。

諸経は、智者でも尚、成仏出来ませんが、
法華経は愚人でも成仏の因を植える事が出来るのです。

「解脱を求めなくても、おのずから解脱に至る」等とはこの事です。

日蓮並びに我が弟子は、どの様な諸難があっても、
少しも疑う心がなければ自然に仏界に至るのです。
天の加護がないからといって疑ってはなりません。
現世の安穏(あんのん)でない事を嘆いてはなりません。
我が弟子にこの事を朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして皆
信心を捨ててしまった事でしょう。
おろかな者の常として約束した事を真(まこと)の時には忘れてしまうものです。

妻や子をかわいそうだと思うから、
現世の生き身で別れる事を嘆(なげ)くのでしょう。
しかし、幾度(いくたび)もこの世に生まれ経てきた長い間には
何度も妻子との別れはありましたが、
親しんだ妻子とは心ならずも別れたのでしょうか。
いつも同じ様な別れだったのです。

ですから、この度(たび)こそ、我が法華経の信心を破らないで成仏し、
霊山(りょうぜん)に参って、返(かえ)って妻子を導きなさい。


48  適時(ちゃくじ)の弘教を明かす


疑って言うには、念仏者と禅宗などに対して、
無間地獄へ堕ちるなどと言っているのは、争う心があり、
きっと修羅道に堕ちるでしょう。

また法華経の安楽行品に
「好んで人及び経典の過失を説いてはならない。
また他の諸々の法師に対して軽んじたり自分を慢(まん)じたりしてはならない」
等と説かれています。
あなたはこの経文に相違しているから天に捨てられたのでしょうか。

答えて言うには「摩訶止観」に次の様に説かれています。
「仏が弘経の方法を説かれたのに二つの説がある。
一には摂受(しょうじゅ)、二には折伏(しゃくぶく)である。
安楽行品に『他の長所・短所をあげつらうな』という様なものは、
これ摂受の意味である。
涅槃経に『刀や杖を持って、謗法の者の首を切れ』というのは、
これ折伏の意味である。
与(よ)・奪(だつ)即ち相手の主張を認める立場と、
真実を明らかにして相手の主張を退(しりぞ)ける立場と、
その方法は異なっているといっても、共に衆生を利益(りやく)させる」
等と。

これを解釈して「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」には
「仏が弘経の方法を説かれたのに二つの説がある等について、
涅槃経に『刀や杖を持って』というのは、
涅槃経の第三の巻に正法を護る者は五つの戒律を持たず、
行儀作法を修めなくても良いと説き、
及び下(しも)の文に
『仙予国王は謗法の首を切った』等と説かれた文。
又同じく涅槃経に
『新医(しんい)は乳薬(にゅうやく)を禁止して、
もし更に乳薬を用(もち)いる事があればその首を断つべきであると言った』
等の文。
これらの文は全て正法を破る人を折伏しているのである。
一切の経論(きょうろん)はこの摂受(しょうじゅ)・折伏の二つの方法を出ない」
等と説かれています。

「法華文句(ほっけもんぐ)」には次の様にあります。




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「問う、涅槃経には国王に法を親しく授(さず)け付嘱(ふぞく)して、
弓を持ち矢を持って悪人を挫(くじ)き屈服させよ、と明かしている。
この法華経安楽行品には、
国王・大臣などの勢力ある者から遠ざかり離れて、へりくだり慈善の心を持て、
と説いて、涅槃経の剛と安楽行品の柔は非常に相反(あいはん)している。
どうして異ならないであろうか。
答える、
涅槃経にはもっぱら折伏について論じているが、
仏は衆生に対して平等に我が子を思う一子地(いつしじ)に住しているのだから、
どうしてまったく摂受が無い訳があろうか。
この法華経の安楽行品にはもっぱら摂受について明かしているが、
陀羅尼品(だらにほん)では、
法華経の行者を悩ます者の頭を七分になすと説いている。
だから折伏が無い訳では無い。
この二経は
摂受・折伏の一端をあげているのであり、摂受・折伏は時によるべきである」
等と。

章安大師が著(あらわ)した涅槃経の解釈書には次の様にあります。
「出家した者でも在家の者でも、法を護るには、
その根本となる心の所作を第一ととり、
事相の形式的な戒律などは捨て、教理内容を中心に大経を弘(ひろ)めるべきである。
だから『正法を護持す』というのは
小さな道義・戒律などに拘(こだわ)らない。
それで『行儀作法を修めなくても良い』と言うのである。
昔は時代が平穏で、法がよく弘(ひろ)まったから、戒を持(たも)つべきであって
杖を持(たも)ってはならなかった。
今は時代が険悪で正法が隠れてしまっているから、
当(まさ)に杖を持(たも)つべきであり、戒を持(たも)ってはならない。
今も昔も、共に時代が険悪であれば、共に杖を持(たも)つべきである。
今も昔も、時代が平穏であれば、共に戒を持(たも)つべきである。
戒(かい)と杖(つえ)、即ち摂受と折伏は、
時代によって取捨(しゅしゃ)するべきで、一向にしてはならない」
等と。

あなたの不審は、世間の学者も多分道理だと思っています。
また、どんなに諫(いさ)めたとしても、
日蓮の弟子達でさえこの考えを捨てきれません。
一闡提人の様な状態なので、まず天台・妙楽らの解釈を出して、
彼らの邪(よこしま)な非難を防ぐのです。

一体摂受・折伏という法門は、水と火の様に相容れないものです。
火は水を嫌い、水は火を憎みます。
摂受の者は折伏を笑い、折伏の者は摂受を悲しみます。

しかし無智・悪人の者が国土に充満している時は摂受を先とします。
安楽行品に説かれた様にです。
邪智・謗法の者が多い時は折伏を先とします。
常不軽品に説かれた様にです。

例えば熱い時に冷たい水を用(もち)い、
寒い時に火を好む様なものです。
草木は太陽の眷属なので、冬の月に苦しみを受けます。
諸々(もろもろ)の水は月の所従(しょじゅう)だから、
熱い時にその本性を失うのです。

末法には摂受・折伏共にあるべきです。
いわゆる無智・悪人の悪国と、
邪智・謗法の破法の国の二種の国があるからです。
日本国の今の世は、悪国か破法の国かを知らなければなりません。


49  折伏を行ずる利益


問うて言うには、摂受でなければならない時に折伏を行じても、
折伏でなければならない時に摂受を行じても利益はあるのでしょうか。

答えて言うには、涅槃経に次の様に説かれています。
「迦葉(かしょう)菩薩が釈尊に申し上げて言うには、
如来の法身(ほっしん)は金剛石(こんごうせき)の様に絶対に壊れない。
しかし、まだその理由を知る事が出来ません。
どういう訳でしょうか、と。
釈尊は言われた。
迦葉よ、よく正法を護持した因縁によって、
この金剛身(こんごうしん)を成就する事が出来たのである。
迦葉よ、我は正法を護持した因縁によって、今この常住で壊れる事のない
金剛身を成就する事が出来たのである。
善男子よ、正法を護持する者は五つの戒律を受けず、行儀作法を修めなくても、
当(まさ)に刀や剣(つるぎ)・弓矢を持って正法を護(まも)るべきである。
戒律を持った僧が、摂受を行じて種々に法を説いても、
やはり師子吼(ししく=折伏の事)をなす事は出来ないし、
正法に背く悪人を降(くだ)し伏(ふく)させる事は出来ない。
この様な僧は、自分自身を利する事も、




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衆生を利する事も出来ない。
当に知るべきである、この輩はなまけ者である。
よく戒律を持ち、清浄な行を護(まも)っていると言っても、当に知るべきである。
この人は正法を護る為に何もする事はないであろう。
時に破戒(はかい)の者があって、
折伏を行ずる人の語(ご)を聞き終わって皆共に瞋(いか)り、
この法師を殺害したとしよう。
この説法をした者は、たとえ命が尽きたとしても、
尚、戒を持ち自分自身を利し他をも利す者と名づける」
等と。

章安は
「摂受・折伏は、時代によって取捨(しゅしゃ)するべきで、
一向(いっこう)にしてはならない」等と言い、
天台は
「摂受・折伏は時によるべきである」
等といっています。

例えば秋の終わりに種子をまき、田畠(たはた)を耕(たがや)しても、
稲や米を得る事は出来ない様なものです。

建仁年中(けんにんねんちゅう)に
法然(ほうねん)と大日(だいにち)の二人が出現して、
法然は念仏宗を、大日は禅宗を興(おこ)し弘(ひろ)めました。

法然が言うには
「法華経は末法に入れば
『未だ一人も得道した者は無く、千人のうち一人も得道出来ない』教えである」
等と。
大日が言うには
「仏の心は、経文の外(ほか)に別に伝えられた」
等と。

それ以来、この二つの教義が国中に充満しました。

天台や真言の学者らが、念仏や禅の檀那(だんな)に諂(へつら)い恐れる様は、
犬が主人に尾を振り、ネズミが猫を恐れている様なものです。

そして国王や将軍に宮(みや)仕えして、
仏法を破壊する原因、国を破壊する原因となる様な話をよく説き、よく語っています。

この様な天台や真言の学者らは、
今世には餓鬼道(がきどう)に堕ち、
後生には阿鼻(あび)地獄を招(まね)き寄せるでしょう。

たとえ天台の学者が山林に交わって一念三千の観念観法をこらしても、
真言の学者が静かな所で身(しん)・口(く)・意(い)の三密の修行を、
油をこぼさない様な思いで行おうとも、
時代や機根を知らず、摂受・折伏の二つの法門を弁(わきま)えなければ、
どうして生死を離れられるでしょうか。

問うて言うには、
念仏者や禅宗などを責め立てて彼らに怨まれる事は、
どんな利益があるのでしょうか、と。

答えて言うには、涅槃経に次の様に説かれています。
「もし善比丘(ぜんびく)が、仏法を破壊する者を見ても、そのまま見過ごして、
厳しく責め、対治(たいじ)し、その罪を処分しないならば、
当に知るべきである、この人は仏法の中の怨敵である。
もしよく対治し、厳しく責め、その罪を処分するならば、
これこそ我が弟子であり、真の声聞(仏の言説を正しく聞き、実践する人)である」
等と。

また章安の著(あらわ)した涅槃経の解釈書には
「仏法を破壊し乱す者は仏法の中の怨敵である。
相手の悪を諭(さと)す慈悲心が無くして、
偽(いつわ)って親しむ事は、これはかえって彼の怨敵である。
よくその悪を糾弾・対治する者は、これこそ護法の声聞であり、
真の我が弟子である。
彼の為に悪を除いてやる事は、即ちこれこそ彼の親である。
よく悪を厳しく責める者は我が弟子である。
悪を対治しようとしない者は仏法の中の怨敵である。」
等と言っています。


50  結勧(けつかん)


法華経の宝塔品を拝見しますと、
釈迦・多宝・十方分身の諸仏が来集されましたが、
それはどういう意味でしょうか、
「法を永久に存続させる為に、ここに来たのである」
等と説かれています。

釈迦仏・多宝仏・分身の諸仏の三仏が未来に法華経を弘めて、
未来の一切の仏子即ち一切の衆生に法華経を与えようと
お思いになられた御心(おこころ)のうちを推(お)しはかってみますと、
その慈悲心は、父母がその一人の子の大苦にあっているのを見て
救おうと思う心よりも強盛であると思われます。

それなのに法然は労(いたわ)しいとも思わないで、
末法には法華経の門を堅く閉じて人を入らせまいとせき止め、




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狂った子を誑(たぶら)かして持っている宝を捨てさせる様に、
法華経を抛(なげす)てさせてしまった心はまったく恥知らずで乱暴に思われます。

自分の父母を人が殺そうとしているのに、それを父母に教えないでしょうか。
悪子(あくし)が酔い狂って父母を殺そうとするのを止めないでいるでしょうか。
悪人が寺や塔に火をつけようとしているのに、止めないでおれるでしょうか。
一人の子が重病なのに、炙(やいと)をしないでおけるでしょうか。

日本の禅と念仏者とを見て制止しない者は、
これと同じ様なものです。
「慈悲心が無くして、偽って親しむ事は、即ちこれはかえって彼の怨敵である」
等と説かれた通りです。

日蓮は日本国の諸人にとって、主であり、師であり、父母です。
しかし、一切の天台宗の人は日本国の諸人の大怨敵です。
「彼の為に悪を除いてやる事は、即ちこれこそ彼の親である」等と。

道心(どうしん)の無い者は生死を離れる事が出来ません。

教主釈尊は一切の外道から大悪人と罵(ののし)られました。
天台大師は中国の南三北七の諸宗に怨(うら)まれ、
更に日本の得一(とくいち)に
「三寸に足らない下で釈尊の教えを謗(そし)り、五尺の仏身を断つものである」
と言われました。
伝教大師は奈良の諸宗の人々に
「最澄は未(いま)だ唐の都を見ていない」などと言われました。
これらは皆法華経の故ですから、少しも恥ではありません。

愚人(ぐにん)に褒められる事こそ第一の恥です。

日蓮が御勘気(ごかんき)をこうむったので、天台や真言の法師達は
喜ばしく思っている事でしょう。
それは恥知らずな、奇怪な事です。

法華経を弘通する為に釈尊は娑婆世界に生まれ、
仏法の為に羅什(らじゅう)は秦(しん)に渡り、伝教は中国へ渡りました。
提婆達多や師子尊者は仏法の為に身命を捨てました。
薬王菩薩は臂(ひじ)を焼いて供養し、聖徳太子は手の皮を剥(は)いで経を写し、
釈迦菩薩は自分の肉を売って供養し、
楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)は骨を筆として法を書き伝えました。

天台は「時に適(かな)うのみ」等といわれました。
仏法の弘通は時によるべきです。

日蓮の流罪は、今世(こんぜ)の小苦なので少しも嘆(なげ)くには当たりません。
後生には大楽を受けるのですから、大変な喜びです。

















最終更新:2011年03月14日 07:52