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一生成仏抄
                               建長七年 三十四歳御作
                               与富木常忍


無限の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、
今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず衆生に本来具わる妙理を
自身の生命の中に見ていくべきである。
衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経の事である。
ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば
衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ている事になるのである。
法華経は、文の法理も真実で正しい経の王であるので、経文の文字はそのまま実相であり
実相はすなわち妙法である。
結局、一心法界(いっしんほうかい)の法理を説き顕している教えを妙法と名づけるのであり、
故にこの法華経を諸仏の智慧というのである。
一心法界の法理についていえば、
十界・三千における依報も正報も、色法(しきほう)も心法(しんぽう)も、
非情の草木も、また大空も国土も、どれ一つとして除かず、微塵も残さず、
すべてを自分の一念の心に収め入れ、
又、この一念の心が宇宙のすみずみにまで行きわたっていく。
そういうさまを万法と言うのである。
この法理を覚知する事を一心法界ともいうのである。
ただし妙法蓮華経と唱え持(たも)っているといっても、
もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、
それはまったく妙法ではなく、麤法(そほう)である。
麤法は、法華経ではない。法華経でなければ方便の教えであり、仮(かり)の教えである。
方便であり仮の教えであるならば、成仏へ直(ただ)ちに至る道ではない。
成仏へ直ちに至る道でなければ、何度も繰り返し生まれて重ねる長遠(ちょうおん)な修行を経て
成仏出来るわけでもないので、一生成仏はついに叶う事はない。
故に、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名づけているのだ、
と深く信心を起こすべきである。
釈尊が一代の間に説いた八万聖教や、三世十方の仏や菩薩達も、すべて自身の心の外に有るとは、
決して思ってはならない。
従って、仏教を習うといっても、自身の心性を見ていかなければ、
全くの生死の苦悩を離れる事はないのである。
もし、心の外に成仏の道を求めて、万行(まんぎょう)万善(まんぜん)を実践したとしても、
それは、例えば貧しい人が、
昼夜、隣人の財(たから)を数えても、一銭の得にもならない様なものである。
そうであるから、妙楽が天台の教えを説明した中に、
「もし心を見なければ重罪を滅する事は出来ない」と延べ、
もし心を見なければ、無量の苦しみの修行になると断じているのである。
故に、この様な人を「仏法を学んでいながら外道となる」と厳しく批判されているのである。
即ち、天台の「摩訶止観(まかしかん)」には、
「仏教を学んでいながら、かえって外道と同じ考え方に陥っている」と述べている。
従って、仏の名を唱え、経巻を読み、華(はな)を供(そな)え、香(こう)をたくまでも、
全て自分自身の一念に功徳・善根として納まっていくのだ、と信心を起こしていきなさい。
この事(仏法の一切が我が己心にあると捉えていくべき事)から、
浄名経(じょうみょうきょう)の中では、
「諸仏の悟りは




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衆生の心の働きに求めるべきである。
衆生を離れて菩提は無く、生死の苦しみを離れて涅槃は無い」
と明かしている。
又、浄名経には
「人々の心がけがれれば、その人々が住む国土もけがれ、人々の心が清ければ国土も清い」
とある。
即ち、浄土といっても、穢土(えど)といっても、二つの別々の国土があるわけでは無く、
ただそこに住む私達の心の善悪によって違いが現れると説かれているのである。
衆生といっても仏といっても、又これと同じである。
迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。
例えば、曇っている鏡を磨いたならば、輝く玉の様に見える様なものである。
今の私達の一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、
これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。
強く信心を起こして、日夜朝暮(にちやちょうぼ)に怠ることなく磨いていきなさい。
では、どの様にして磨くのか。
ただ南無妙法蓮華経と唱える事、これが磨くという事である。
そもそも「妙」とは、どの様な意味であろうか。
それはただ、自身の一念の心が不思議である事を「妙」というのである。
不思議とは、私達の心の働きも及ばず、又、言葉でも現せないという事である。
即ち、
瞬間瞬間起っている自身の一念の心を探究してみると、
それを有ると言おうとすれば色も形も無い。
又、無いと言おうとすれば様々に心が起ってくる。
有ると考えるべきでも無い。無いと考えるべきでも無い。
有(う)と無(む)の二つの言葉では表せず、
有と無という二つの考えでも理解出来ない。
有と無のどちらでも無く、しかも有か無かのいずれかの姿をとるという、
中道にして普遍究極の真理のままの姿であり、
不思議であるその在り方を「妙」と名づけるのである。
この「妙」である心を名づけて「法」ともいうのである。
この法門の不思議を譬喩で現すのに、具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。
一つの心を妙と知ったならば、
さらに転じて、その外の心も又、妙法であると知る事を「妙経」というのである。
従って法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、
これが妙法の体であると説き宣(の)べている経王なので、
成仏の直道(じきどう)と言うのである。
この理(ことわり)を深く信じて
妙法蓮華経と唱えるならば一生成仏は絶対に間違いないのである。
故に法華経如来神力品第二十一には
「我が滅度の後において、この妙法蓮華経を受持すべきである。
この人は仏道において必ず成仏する事は疑いないのである」と説かれている。
ゆめゆめ不審をもってはならない。あなかしこ、あなかしこ。
一生成仏の信心とは南無妙法蓮華経である。南無妙法蓮華経である。




                                日  蓮   花 押















最終更新:2011年03月11日 08:47