918p




彼の身にあやまちを起こしたならばこの重連(しげつら)が大きな罪になる。
だから殺すよりは法門で攻めるがよい。」
と答えたので、
念仏者等はあるいは浄土の三部経、あるいは摩訶止観、
あるいは真言の経釈等を小僧等の頚にかけさせ、
あるいは小脇に挟ませて正月十六日に集まった。

佐渡の国だけではなくて
越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国から集まった法師等なので、
塚原の堂の大庭から山野へかけて数百人、
それに六郎左衛門尉と兄弟一家やそれ以外の者、
百姓の入道等が数知れず集まった。

念仏者は口々に悪口を言い、真言師は緊張のために面々に顔色を失い、
天台宗の法師は天台宗が勝つとその由を声高に騒ぎたてた。

在家の者どもは
「かねてから聞き及ぶ阿弥陀仏のかたきめ」と声高に非難し、
この騒ぎが響きわたるさまは地震か雷鳴のようであった。

日蓮はしばらく騒がせておいてから
「おのおのがた静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。
悪口等は無益である」といったところ、
六郎左衛門尉をはじめ多数の人々が「そうだ」といって、
悪口した念仏者を首をつかまえて突き出した。

さて、止観・真言・念仏の法門を、
一々相手がいうことを念を押して承知させておいてから、
ちょっとばかりにつき詰めると、相手はみな一問か二問で詰まってしまった。

鎌倉の真言師・禅宗の者・念仏者・天台の者よりも
たわいがない者共であるからその様子を想像されるがよい。

それは利剣をもって瓜(うり)を切り、大風が草をなびかせるようなものであった。
彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、
あるいは経文を忘れて論といい、釈を忘れて論というありさまであった。

善導が首をくくって柳から落ち、
弘法大師が三鈷(さんこ)の金剛杵(こんごうしょ)を投げ、
大日如来と現じたこと等について、
あるいは妄語(もうご)あるいは気違い沙汰である点を一々責めたところ、
ある者は悪口し、ある者は口を閉じ、ある者は顔色を失い、
あるいは「念仏は間違いであった」という者もあり、
あるいはその場で袈裟や平念珠を捨てて念仏は称えまいという由の
誓状を立てる者もあった。

皆帰るので六郎左衛門尉も帰り一家の者も帰っていった。
このとき日蓮は不思議を一つ言おうと思って、
六郎左衛門尉を大庭から呼び出して
「いつ鎌倉へ上がられるのか」というと、
彼が答えていうには
「下人どもに農事をさせてからで、七月ごろになりましょう」
という。

日蓮は
「弓箭(ゆみぐ)を手に取る者は主家の御大事に間に合って、
ほうびに所領を賜ることこそ田畠を作るとはいうのではないか。
ただ今いくさが起ころうとしているのに、
急いで鎌倉へ駆け上り手柄をたてて領地を賜らないか。
なんといってもあなた方は相模の国では名の知れた侍である。
それが田舎で田を作っていていくさにはずれたならば恥であろう」
と言ったところ、
なんと思ったのであろうか、あわてた様子で ものも言わなかった。

見ていた念仏者・持斎・在家の者どもも、




919p




これは一体どうしたことかと恠(あや)しんだ。


10  開目抄の御述作


さて皆帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。
これは、もし頚を斬られるならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って
想を練ったのである。

この文の心は次のとおりで
「日蓮によって日本国の有無(存亡)は決まるのである。
譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である。
日蓮は日本の人の魂である。
平左衛門尉はすでに日本の柱を倒してしまった。
そのために只今世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきて
この御一門が同士打ちをし、後には他国から攻められるであろう。
たとえば立正安国論に委(くわし)く述べた通りである。」

このように書き付けて中務(なかつかさ)三郎左衛門の使いに持たせてやった。
側についていた弟子達も、強すぎる主張であると思うが止める力がないという風であった。
その後に二月十八日に島(佐渡)に船が着いた。

鎌倉に戦(いくさ)があり京都にもあって、その様子は大変なものであるという。

六郎左衛門尉はその夜・早舟をもって一門を率いて渡って行った。
その時日蓮に掌(たなごころ)を合わせて
「お助け下さい。去る正月十六日のお言葉を、どうであろうかといままで疑ってきましたが、
いくらもたたず三十日の内に符号しました。それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう。
念仏無間地獄も必ずそうでございましょう。
今後はけっして念仏を称えません」
と言ったので、

「あなたがどのように言おうとも、相模守殿(時宗)等が
用いないならば日本国の人は用いまい。
用いなければ国は必ず亡ぶであろう。
日蓮は幼若(未熟)な者ではあるが、法華経を弘めている以上は釈迦仏のお使いである。
たかの知れた天照大神・正八幡などという神は、この国でこそ重んじられているけれども
梵天・帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。
それでもこれに仕える神人(じにん)などを殺したならば
普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどといわれている。
太政入道清盛や隠岐(おきの)法皇等が亡んだのはこのためである。
しかし日蓮に比べれば神人など比べものにならない。
自分は教主釈尊のお使いであるから
天照大神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。
法華経の行者に対しては梵天帝釈は左右に仕え日天月天は前後を照らし給うのである。
このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びるのである。
まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。
この国が亡びることは疑いないけれども、
しばらく神々を制止して国を助け給えと祈る日蓮がひかえておったからこそ、
いままでは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから
罰が当たってしまったのである。
またこの度も用いなければ大蒙古国から打手を向けてきて日本国は亡ぼされるであろう。




920p




これは平左衛門尉が自ら好んで招く災いである。
そのときはあなた方もこの島であっても安穏で済むはずはない」

と言い聞かせたところ、
驚きあきれた様子で帰って行った。
さて、これを伝え聞いた在家の者達がいうには
「この御坊は神通力を得たお方なのであろうか、ああ怖ろしい怖ろしい。
今後は念仏者を養うまい、持斎も供養すまい」
と、念仏者や良観の弟子の持斎等は
「内乱をあらかじめ知っていたところを見ると
この御坊は謀叛の仲間に加わっていたのであったか」
といった。
さてしばらくして世間の騒ぎは静まった。


11  宣時の迫害と御赦免


また念仏者が集まって協議した。
「こうしていたのではわれわれは飢え死にするだろう。
どうしてもこの法師を亡き者にしようではないか。
既に国中の者も大体彼についてしまった。どうしようか。」
と相談して、
念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房(しょうゆぼう)・良観の弟子の道観等が
鎌倉へ走り登って武蔵守宣時(むさしのかみのぶとき)殿に讒訴(ざんそ)し
「この御房が島にいるならば諸宗の堂塔は一宇も残らないし、僧も一人も残らないでしょう。
阿弥陀仏をあるいは焼き払い、あるいは河に捨て流しております。
夜も昼も高い山に登って日月に向かって大声をあげてお上を呪詛(じゅそ)しております。
その音声は一国に聞こえております。」
といった。

武蔵前司宣時殿はこれを聞いて
「お上に言上するまでもあるまい。まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者が
あるならば、あるいは国を追放し、あるいは牢に入れよ」
と私の下知を下した。
また同趣旨の下文(下知状)が代官へ下った。

このように三度まであり、その間の出来事は特にふれないが、
あなたの心で推し量っていただきたい。
島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、
あるいはその御房に物を差し上げたといっては国を追い、
あるいは妻子を取り上げた。
宣時(のぶとき)がこのようにしておいて、お上へこれらを言上したところ、
予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。

念仏者等が協議して
「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚(ぜんどうわじょう)や
法然上人を罵るほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、
御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」
といってさまざまな企てがあったが、どういうわけであろうか、
思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、
間合いが悪ければ百日、五十日を経ても渡らず、順風では三日かかるところを
少しの間に渡ってしまった。

これを聞いて越後の国府(こう)や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言師等は
雲集して協議した。
「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである。
われらはどうしても生身(しょうじん)の阿弥陀仏の御前は通すまい」
と協議したけれども、
越後の国府から兵士達が大勢日蓮に付き添って善光寺を通ったので
また彼等も力が及ばなかった。




921p




こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉に入った。


12  三度目の国諫


同四月八日に平左衛門尉に対面した。
前とは打って変って様子を和らげて、礼儀正しくするうえに、
ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、
平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。
これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。

平左衛門尉は執権のお使いかと思われる様子で
「大蒙古国はいったいいつ攻めて参りましょうか」
と尋ねた。

日蓮は答えていった。
「今年中に必ず攻めて来る。しれについては日蓮が已前(いぜん)から
勘(かんが)えて進言しているのをお用いにならない。
譬えば病の起こりを知らない人が病気を治療すれば病はますます倍増する。
同様に真言師が蒙古調伏の祈祷(きとう)をするならばますますこの国は
戦(いくさ)に負けるであろう。
決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈祷をしてはならない。
各(おのおの)は仏法を知っておいでではないから言っても分からないのである。
また、どういう訳であろうか、
他の事とは異なって日蓮がいう事に限ってお用いにならない。
止むを得ないから後で思い合わせさせる為に言っておく。
隠岐(後鳥羽)法皇は天子であり、権大夫義時殿は民ではないか。
子が親に仇をなすのを天照大神は受けるだろうか。
家来が主君を敵にするのを正八幡はお用いになるだろうか。
それなのにいかなる訳で公家は負けたのであるか。
これはまったくただ事ではない。
弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見(びゃっけん)を真実と思って、
叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので
還著於本人(げんじゃくおほんにん)といってその失(とが)が
祈った方へ還って著き、公家は負けたのである。
武家は祈祷の事などは知らないので調伏も行わなかったから勝った。
今またその様になろう。
蝦夷(えぞ)は死生の理を知らぬ者、
安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を多く造った善人である。
それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。
こうしたことを考えると、
この御房たちが祈祷するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。
その時になってから、決して御房はそうは言わなかった、とおっしゃるな」
としたたかに言い渡した。


13  阿弥陀堂法印の祈雨


さて、帰って聞いたところによると、
同四月十日から阿弥陀堂の法印(加賀法印定清)に命じて雨乞いのご祈祷があった。

この法印は東寺第一の智者であり御室(おむろ「仁和寺」)の
道助法親王等の御師であって、
弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけたように精通し、
天台・華厳等の諸宗を皆胸に浮かべるように知り尽くした人である。

それに随って十日からの祈雨で十一日に大雨が降って風は吹かず、
雨は静かであって一日一夜降ったので、相模守時宗はたいそう感じ入って、




922p




金三十両に馬など様々の賜わり物があったと聞こえてきた。

これを知って鎌倉中の上下万民が手をたたき口をすくめて嘲笑し
「日蓮が間違った法門を主張して直ぐに頚を斬られようとしたが、
やっと免されたのだから神妙にするかと思ったがそうではなくて
相変わらず念仏・禅を誹(そし)るばかりではなく、
真言の密教などさえも誹るものだから、
このような法の験(しるし)が現れたのはいい見せしめでめでたい」
と罵ったところ、
日蓮の弟子達はがっかりして
「これ(真言破折)は粗暴な主張」と言ったので、
日蓮は喩(さと)していった。

「しばらく待て、弘法大師の悪義が真実であって国の祈りになるものならば
隠岐(後鳥羽)の法皇こそ戦に勝たれたはずである。
御室(仁和寺)の道助法親王の最愛の稚児(ちご)・勢多迦(せいたか)も
頚を斬られなかったであろう。
弘法は法華経を華厳経に劣っていると書いた状は十住心論という文にあり、
寿量品の釈迦仏を凡夫であると記した文は秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)にある。
天台大師を盗人と書いた状は顕密二教論にあり、
一仏乗の法華経を説いた仏を真言師の履物取りにも及ばないと書いた状は
正覚房覚鑁(かくばん)が舎利講式(しゃりこうしき)にある。
この様な邪義をいう者の弟子である阿弥陀堂の法印が日蓮に勝つならば
竜王は法華経の敵であり、梵天・帝釈・四大天王に責められるであろう。
この降雨にはなにか訳があるだろう」
というと、

弟子達がいうには
「どんな訳があるのだろうか」と嘲笑したので、日蓮はこう答えた。

「善無畏も不空も雨乞いの祈りに雨は降ったものの大風が吹いたと見えている。
弘法は三七日過ぎでから雨を降らせた。
これらは雨を降らせなかったようなものである。
なぜならば三七・二十一日の間に降らぬ雨などあるものではない。
例え降ってもなんの不思議があろうか。
天台大師や千観法師などのように一座の修法で降らせてこそ尊いのだ。
これは必ず訳があろう」
と言いも終わらぬうちに大風が吹いてきた。

大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を・あるいは天に吹き上らせて、
あるいは吹き入れ、空には大きな光り物が飛び、
地には棟(むね)や梁(はり)が倒れ乱れた。
人々さえも吹き殺し牛や馬がたくさん倒れた。

悪風であっても秋なら季節であるからまだ許すことも出来る。
だがこれは夏の四月である。
そのうえ日本全国には吹かずに但関東八か国だけである。
八か国のなかにも武蔵・相模の両国であり、両国のなかでも特に相州に強く吹いた。
相州のなかでも鎌倉、鎌倉のなかでも特に御所・若宮・建長寺・極楽寺等に強く吹いた。
ただの暴風とも見えず、ひとえに祈祷の故かと思われて、
日蓮を嘲笑し口をすくめた人々も興醒めしてしまったうえ、
わが弟子達も
「なんと不思議なことか」
と驚いて言い合った。


14  身延入山と蒙古襲来


今後の諌めも用いられまいとかねて心に期していたことなので、




923p




三度まで国を諌めても用いられなければその国を去るべしとの習いに従った。
そこで同五月十二日に鎌倉を出発してこの身延に入った。

同十月に大蒙古国が攻め寄せて壱岐・対馬の二カ国を打ち取られただけでなく、
大宰府も破られて、少弐資能(すけとし)入道覚恵や大友頼奉(よりやす)入道忍等は
それを聞いて逃げ、そのほかの兵士どもはやすやすと大体打ち取られてしまった。
また今後攻め寄せてくるならば、いかにもこの国は弱体に見受けられる。

仁王(にんのう)経には
「聖人が去るときには七難が必ず起こる」等とあり、
最勝王経には
「悪人を愛敬(あいぎょう)して善人を治罰(じばつ)するに由(よ)る故に
乃至(ないし)他方の怨賊(おんぞく)が来て必ず国中の人が滅ぼされる乱に遇う」
等とある。

仏説がまことであるならば、
この国に間違いなく悪人がいるのを国主が尊敬して、善人に仇(あだ)をするからではないか。

大集経にいわく
「日月に光なく四方が皆日照りとなる。
このような不善業の悪王と悪比丘とが我が正法を破壊するのである」云云と、
仁王経にいわく
「諸(もろもろ)の悪比丘が多く名聞と利欲とを求めて国王・太子・王子の前において
進んで破仏法の因縁・破国の因縁を説くであろう。
その王は事の善悪を分別できなくてその言葉を信じて聴く、これが破仏法・破国の因縁である」
等云云、
法華経にいわく「濁世の悪比丘」等云云、
経文が真実ならばこの国に間違いなく悪比丘が存在している。

そもそも宝山には曲がった木は伐(き)り去られ、大海には死骸を留めて置くことがない。
仏法の大海・一仏乗の宝山には五逆罪の瓦礫(がりゃく)や
四重禁戒を破る濁水は入るけれども誹謗の死骸と一闡提の曲林は収めないのである。
であるから仏法を習おうとする人は後生を願おうとする人は法華誹謗を恐るべきである。


15  臨終の相と法華誹謗の現証


弘法や慈覚を誹(そし)る人をどうして用いられようかと、あらゆる人が思っている。
しかし、他人は別として、安房の国の東条と西条の人々はこの事を信じるべきである。
それは眼の前に現証があるからである。
いのもりの円頓房・清澄の西暁房(さいぎょうぼう)・道義房・片海の実智房等は
貴いといわれてきた僧であった。
だがこれらの人々の臨終はどうであったろうかと尋ねてみるべきである。

これらはさておくが、円智房は清澄の大堂において三か年の間・
一字三礼の法華経を自身で書写し十巻を暗誦し、
五十年の間一夜昼夜に二部ずつ読まれたのである。
だから彼を人は皆必ず仏になるだろうといっていた。

これに対して日蓮だけが
「念仏者よりも道義房と円頓房こそ無間地獄の底に堕ちるであろう」
といっていたが、この人々の臨終はよかったか、どうであろうか。
もし日蓮がいなかったならば、
この人々を世間では仏になったであろうと思ったに違いない。




924p




これをもって知りなさい。
弘法・慈覚等は臨終があまり悪くてあきれる事があったけれども、
それを弟子共が隠したために、公家においてもその事実を知り給わず、
時代が下るにつれてますます尊敬しているのである。

もしそれを顕す人がないならば未来永劫までそのまま通ってしまうであろう。
昔、天竺の拘留外道(くるげどう)は石となって八百年過ぎてから融けて水となり、
迦毘羅外道(かびらげどう)は石と化して一千年後に同じく陳那菩薩に責められ
融けて水と化し、その失(とが)が顕れたではないか。

そもそも人身を受けるということは五戒の力によるのである。
五戒を持つ者を二十五の善神がこれを守るうえに、
同生同名といって二つの天が、生まれた時からその人の左右の肩にいて守護するために、
その人に失(とが)がなければ鬼神が仇をなすことはない。

しかるにこの国の無数の諸人が災難に遇って悲嘆(ひたん)しているばかりか、
壱岐・対馬の両国の人は皆大事件に遇った。
筑紫の大宰府もまたいうまでもない程の体(てい)たらくである。
このように災難に遇うのはこの国に一体どんな失(とが)があるのであろうか。
これこそぜひ知りたいことである。

一人・二人ならば失(とが)もあるだろうが、
大勢の人々に失があるということは一体どうしたことか。
これは偏(ひとえ)に法華経を見下した弘法・慈覚・智証等の末葉の真言師、
善導・法然の末の弟子等、
達磨等の人々の末の者どもが国中に充満して邪法を弘めている。
ゆえに、梵釈(ぼしゃく)・四天等が、法華経の会座の誓状(せいじょう)のとおりに
頭破作七分の治罰(ちばつ)を加えているのである。


16  頭破作七分


疑っていうには、法華経の行者を仇とする者は
「頭敗れて七分と作(な)らん」と説かれているのに、
日蓮房を謗(そし)っても別に頭も割れないのは、
日蓮房は法華経の行者ではないのか、というのは道理であると思うがどうであろうか。

答えていうには、
日蓮を法華経の行者でないというのならば、法華経をなげ捨てよと書いた法然達、
法華経の教主を無明の辺域であると書いた弘法大師、法華と真言は理は同じだが
事では真言が勝れると宣(の)べた善無畏・慈覚等が法華経の行者であるだろうか。

また頭破作(ずはさ)七分ということはどういうことであるか。
刀を以(も)って斬ったときのように割れるのだと心得ているのか。

経文には「阿梨樹(ありじゅ)の枝のごとし」と説かれている。
もともと人の頭の中には(精気の根元をなす)七滴の水があり、
七人の鬼人がいて一滴食えば頭を痛め、三滴食えば寿命が絶えようとし、
七滴全部食えば人は死ぬのである。

今の世の人々は(鬼人に頭の水を食われて)
皆・頭が阿梨樹の枝のように破(わ)れてしまっっているが
悪業が深いために自覚していないのである。

たとえば傷を負った人が、あるいは酒に酔うか、
あるいは深く寝入ってしまえばその傷の痛みを感じない様なものである。
また、頭破作七分というのは、または心破作(しんはさ)七分ともいって、
頭の皮の底にある骨が罅(ひび)破(わ)れるのである。

死んだ場合には割れることもある。
今の世の人々は
去る正嘉の大地震・文永の大彗星出現のときに皆頭が割れてしまった。
その頭が割れたときに喘息(ぜんそく)を痛み、
五臓を損なったとき赤痢を病んだのであった。




925p




これは法華経の行者を誹(そし)ったために当たった現罰であると気がつかないのか。


17  身延山の御生活


それゆえ鹿は味があるために人に殺され、亀は油があるために命を奪われる。
女人は器量が良いと嫉(ねた)む者が多い。
国を治める者は他国から狙われる恐れがあり、財のある者は、
その財宝のために命が危険にさらされる。
法華経を持つ者はかならず成仏する。
それゆえに第六天の魔王という三界の主がこの経を持つ人を強く嫉むのである。

この魔王はあたかも疫病神が誰の目にも見えずに人に付くように、
芳醇(ほうじゅん)な古酒に人が酔い入ってしまうように
国主・父母・妻子に取り付いて法華経の行者を嫉むのであると経文に見えている。

これに寸分も違っていないのが現在の世相である。
日蓮は南無妙法蓮華経と唱えるゆえに、二十余年間、住む所を追い出され、
二度まで幕府の御勘気を蒙り、最後にはこの身延の山に籠(こも)った。

この山のありさまは、
西は七面山、東は天子嶽・北は身延山・南は鷹取山がそびえ、
この四つの山の高いことは天につくばかり、
嶮(けわ)しさは飛鳥も飛びにくい程である。
そのなかに四つの河がある。
いわゆる富士河・早河・大白河・身延河である。
その四つの河に挟まれたなかに一町歩ほどの空地(谷間)がある所に庵室を構えた。

こういう谷間であるために昼は日を見ず夜は月を拝せず、
冬は雪深く夏は草が茂り、訪ね来る人もまれなので道を踏み分けることも難しい。
ことに今年は雪が深くて人が訪ね来ることがない
そのため死を当然と心得て法華経(御本尊)だけを頼み奉って暮らしていたのに
音信をいただきありがたく存じている。
おそらくは釈迦仏のお使いか、過去の父母のお使いかと感謝にたえません。
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。












最終更新:2011年03月11日 23:55