219p




三論宗の吉蔵(きちぞう)らが経文を読んで言うには
「般若経と法華経とは名は異なっているがその当体は同じであり、
二教は一つの法である」
と。

真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵らが経文を読んで言うには
「大日経と法華経とは理が同じで、同じく共に六難のうちの経である」
と。

日本の弘法(こうぼう)が呼んで言うには
「大日経は法華経に説く六難九易(ろくなんくい)のうちに入らない。
大日経は釈迦が説いた一切経の外(ほか)の経であり、法身(ほっしん)仏・
大日如来が説いたものである」
と。

又、ある人が言うには
「華厳経は報身如来の説いたものであり、六難九易のうちに入らない」
と。

日蓮は嘆(なげ)いて言います。
上(かみ)にあげた諸人の主張する義を躊躇(ためら)わず間違いである、
と言ったらなら、今の世の諸人(しょにん)は顔を向けるはずもありません。
さらに非に非を重ね、最後には国王に事実を曲げて悪く訴え、
その迫害は命にまで及ぶでしょう。

ただし、我々の慈父(じふ)釈尊が沙羅雙樹林(しゃらそうじゅりん)で
最後に説かれた御遺言ともいうべき涅槃(ねはん)経には
「仏の説いた法に依るべきであって、人師らの立てた義に依ってはならない」
等とあります。

「人師らに依ってはならない」等というのは、
釈尊滅後、衆生の依りどころとなる初依・二依・三依・四依の人師の事で、
普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)らの菩薩の最高位である等覚(とうがく)の菩薩が
法門を説かれたとしても、経巻を手に握らない、
即ち仏説に依らないのは用いてはならないという事です。

又、
「了義経に依るべきであって、不了義経に依ってはならない」と定めて、
経の中にも仏法の極理(ごくり)が完全に説き明かされた了義経と、
そうでない不了義経をよく糾明(きゅうめい)して信受すべきである、
とあります。

竜樹菩薩の「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」には
「修多羅黒論(しゅたらこくろん=仏の説いた真実の教説に依らない邪論:権教)
に依らず、修多羅白論(しゅたらびゃくろん=仏の説いた正論:法華経の事)
に依るべきだ」
等とあります。

天台大師は「法華玄義」に
「仏の説いた教法と合致するものは、抄録(しょうろく)してこれを用いよ。
しかし経文も義もないものは信受してはならない」
等と述べています。

伝教大師は「法華秀句」に
「仏説に依り頼むべきで、口伝に依ってはならない」
等といっています。

円珍智証(えんちんちしょう)大師は「授決集」で
「文(もん)に依って伝えるべきである」等といっています。

上(かみ)にあげたところの諸師の解釈は、
皆、一分は経論に依って勝劣を弁(わきま)えた様に見えますが、
皆、自宗の義を堅く信受して、それぞれの先師の誤った義を正していません。

ですから私情に執着し仏意を曲げて経文を解釈した勝劣であり、
自分の立てた義に勝手な理屈をつけて飾り立てた法門です。

釈尊滅後における外道の犢子(とくし)・方広(ほうこう)や、
仏法が中国へ伝来した後漢以後の外典は、仏法を知らない外道の見解よりも、
又、三皇・五帝の儒書よりも、仏法を盗用している為その邪見は強盛であり、
邪法は巧(たく)みです。

同じ様に、華厳・法相・真言などの人師は、
天台宗の正義(しょうぎ)をねたんで、実経たる法華経の文を勝手に解釈し、
華厳・法相・真言などの権教の義に順応させる事が盛んです。

しかしながら、
真に仏道を求める心のある人は、偏った主義・主張を捨て、
自宗・他宗だと争わず、人を侮(あなど)ったりしてはなりません。

法華経法師品には
「巳(すで)に説き(爾前経)、今説き(無量義経)、
当(まさ)に説こうとする(涅槃経)経々の中で法華経が最も信じ難く理解し難い」
等とあります。

この文を妙楽が解釈して「法華文句記」に
「法華経以外の経において、例え諸経の王であるとはいっても、法華経の様に、
巳(すで)に説き、今説き、当に説こうとする経々の中で最第一であるとは言っていない」
等と述べています。

又、同じく妙楽は「法華玄義釈籤(ほっけげんぎしゃくせん)」に
「法華経は、巳(い)・今(こん)・当(とう)の三説の全てに
超過した妙法であるにも関わらず、この点において固く迷い、
その謗法の罪による苦しみは未来長遠に流れ続いていくのである」
等と述べています。

この経文とその解釈に驚いて、一切経並びに




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人師達の解釈書を改めて見たところ、
疑い躊躇(とまど)う心が解けました。
いま真言宗の癡(おろか)な者達が、真言宗に印と真言がある事を頼りにして、
真言宗は法華経より勝れていると思い、
慈覚大師らが真言は勝れていると言われたのだから間違いない、
などと思っているのは、言うも甲斐(かい)ない事です。

密厳経には
「華厳経十地品の別訳である十地華厳経と
大樹緊那羅所問経(だいじゅきんならしょもんきょう)と
菩薩行方便境界神通変化経(ぼさつぎょうほうべんきょうがいじんつうへんげきょう)・
勝鬘(しょうまん)経及び、その他の諸経は皆この密厳経から出たものである。
この様な密厳経こそは一切経の中に勝れたものである」
等とあります。

大雲経には
「この経は、即ちこれ諸経の中の転輪聖王(てんりんじょうおう)である。
どうしてかというと、この経典のなかに衆生の実性(じっしょう)や
仏性の常住という法を説いているからである」
等とあります。

六波羅蜜経には
「いわゆる過去の無数の諸仏が説いた正法及び我が今説くところの、
いわゆる八万四千の諸々の妙法の集まりを、おさめ整えて五種に分ける。
一には索咀纜(そたらん=経蔵)即ち仏の教説を記(しる)し留めたもの、
二には毘奈耶(びなや=律蔵)即ち戒律を集めたもの、
三つには阿毘達磨(あびだるま=論蔵)即ち仏の教説を論議注釈したもの、
四には般若波羅蜜(はんにゃはらみつ=慧蔵)即ち仏の智慧を説いたもの、
五には陀羅尼門(だらにもん=秘密蔵)即ち上の四によって救われない衆生を
成仏させる経である。
この五種類の法蔵をもって一切の有情(衆生)を教化する。
もし彼(か)の有情が、仏法を理解する機根が鈍くて契経(かいきょう=経蔵)・
調伏(ちょうぶく=律蔵)・対法(たいほう=論蔵)・
般若(慧蔵)を受持する事が出来ず、あるいはまた有情が、諸々の悪業である、
四つの重罪、八つの重罪、無間地獄に堕ちる五つの罪、
また大乗経を謗(そし)る一闡提(いっせんだい)らが種々の重罪を作ったとしても、
これらの罪を消滅して速(すみ)やかに解脱させ、すぐに悟りを得させる事が出来る。
そしてこれらの重罪の者の為に諸々の陀羅尼蔵(だらにぞう)を説くのである。
この五つの法蔵は例えば、乳(にゅう)・酪(らく)・生蘇(しょうそ)・
熟蘇(じゅくそ)及び妙味(みょうみ)の醍醐(だいご)の様なものである。
第五の陀羅尼蔵(だらにぞう)即ち総持門(そうじもん)とは
例えば醍醐(だいご)の様なものである。
醍醐(だいご)の味は
乳(にゅう)・酪(らく)・生蘇(しょうそ)・熟蘇(じゅくそ)の中では
微妙(びみょう)第一で、よく諸々の有情の身心を安楽にさせる。
それと同じ様に、総持門とは契経(かいきょう)等五蔵の中では最も第一であり、
よく有情の重罪を除くのである」
等とあります。

解深密経(げじんみつきょう)には
「その時に勝義生(しょうぎしょう)菩薩はまた仏に申し上げた。
世尊は、はじめ第一に、かつて中インド・波羅痆斯国(はらなつしこく)の
鹿野苑(ろくやおん)の中にいて、
ただ声聞乗(小乗教)を修行する心を発(おこ)す者の為に
苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)の四つの真理の相をもって
正法を説かれた。
その法は非常に不思議であり、また非常に稀(まれ)な事である。
一切の世の中の諸々の天・人達で、
仏より先にこの法の様に説いた者はなかった程素晴らしい法であった。
しかし、その時に説かれた仏の教えは、まだ上があり、
他からの批判を容(い)れる余地があり、
未だ完全に真実の義が説かれたものでは無かった。
それ故にこの法は諸々の論争の元となった。
世尊は、昔第二の説法において、ただ心を発(おこ)して
大乗を修行しようとする者の為に、




221p




一切の法は皆それ自体の固有の本性はなく、生じる事も滅する事もなく、
本来、寂静(じゃくじょう)で、性分そのままが涅槃の相であると説かれた。
これは仏の本意を経文の中に隠して正法を説かれたのである。
これは更に、非常に不思議でまったく稀な法であるが、
彼(か)の時に説かれた仏の教えも又、
まだ上があり、他からの批判を容れる余地があり、
尚未だ完全に真実の義が説かれたものでは無かった。
それ故、この法も諸々の論争の元となった。
そして世尊は、今第三時の説法において、
あまねく一切乗(いっさいじょう)
即ち一切衆生の成仏を説く教えを求める心を発(おこ)す者の為に、
一切の法は皆、それ自体の固有の本性は無く、生じる事も滅する事もなく
本来、寂静(じゃくじょう)で、性分そのままが涅槃の相であり、
固有の本性などというものの無い性(しょう)を説かれた。
しかも仏の悟りを経文上にはっきりと示して正法を説かれた。
これこそ第一の非常に不思議であり、最も稀(まれ)な法である。
今世尊が説かれたところの仏の教えこそ、これ以上のものは無く、
他からの批判を受け容れる余地の無い法で、
これこそ真に仏法の極理が完全に説き明かされたものである。
諸々の論争が起こる事も無いのである。」
等と説かれています。

大般若経には
「聴聞するところの世間・出世間の法に従って、
それらを皆よく方便として
般若甚深(はんにゃじんじん)の理趣(りしゅ)に会入(えにゅう)し、
諸々の造作するところの世間の事業(じごう)も又、
般若をもって法性の一理に会入(えにゅう)し、
一事として法性の外に出るものは無い」
等とあります。


大日経第一には
「秘密主(金剛薩埵)よ、大乗の修行がある。
それは無縁乗の心、即ち法にとらわれない心を起こして、
一切の法にはそれ自体に具(そな)わった性はない、と修行するのである。
どうしてかといえば、彼(か)の昔、この様に修行した者が、
五蘊(ごうん)が仮に和合している万法の
根元(こんげん)に具(そな)わっている第八識の阿頼耶(あらや)を観察して、
それ自体の固有の性は幻の様なものだと知ったからである」
等とあります。

又、大日経には
「秘密主よ、彼はこの様に無我を捨てて、心の主体に自在の境地を得て自心(じしん)は
本来、不生不滅(ふしょうふめつ)である事を覚ったのである。」
等と。

更に
「いわゆる空性というのは、六根・六境を離れ、姿や形も境界も無く、
諸々(もろもろ)の戯論(けろん)を超越して、
虚空(こくう)の様に無相で一切のものを包含(ほうがん)するに等しい。
そして一切の法は互いに縁によって起こるのでり、それ自体の本性は無いと極める」
等と説いています。

更に又
「大日如来は秘密主に告げていった。
秘密主よ、菩提(ぼだい)とはどの様なものかといえば、
実のごとく自心を知る事である」
等と言っています。

華厳経には
「一切の世界の諸々の衆生の中で、声聞乗を求めようと望む者は少ない。
縁覚を求める者は更に少ない。大乗を求める者は非常に稀である。
しかし、大乗を求める者は非常に稀であるが、
それでもまだ易しい事であり、よくこの法を信じる事はより非常に難しい事である。
ましてよく受持し、正しく心中に銘記し念じ続け、説の通り修行し、
真実に理解する事は尚更(なおさら)難しい事である。
もし、三千大千世界を頭の頂に乗せて一劫という極めて長い間、
身動きしないとしてもその様な振る舞いは未だ難しい事では無い。
この法を信じる事はそれ以上に大変難しいのである。
又、大千世界を塵(ちり)にした程多くの衆生達に一劫という長い間、
諸々の楽具を供養しても、その功徳は未だ勝れたものではない。
この法を信じる功徳はそれ以上に勝れているのである。
もし、手の平の上に十のぶ仏国土をもって虚空の中に一劫の間留まる事が出来ても、
その振る舞いは未だ難しい事では無い。
この法を信じる事はそれ以上に大変難しいのである。
十の仏国土を塵(ちり)にした程多くの衆生達に一劫の間、
諸々の楽具を供養したとしても、その功徳は未だ勝れているとは言えない。
この法を信じる功徳はそれ以上に大変勝れているのである。
又、十の仏国土を塵(ちり)にした程多くの諸々の如来を、
一劫の間慎(つつ)み敬(うやま)い供養したとしても、
もしよくこの品(ほん)を受持する者の功徳はそれ以上に最も勝れているのである」
等と説かれています。

涅槃経には
「この諸々の大乗方等経典は又計り知れない程の功徳を成就するけれども、
この経の功徳に比べようとすると、例える事すら出来ない。
百倍、千倍、百千万倍、あるいは数の例えも適わない程勝れている。
善男子よ、例えば牛から乳を出し乳より酪(らく)を出し、
酪(らく)より生蘇(しょうそ)を出し、




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生蘇(しょうそ)より熟蘇(じゅくそ)を出し、
熟蘇(じゅくそ)より醍醐(だいご)を出す。
そして、その醍醐(だいご)は最上である。
もしこの醍醐(だいご)を服用する者は、諸々の病を皆取り除く事が出来るので、
あらゆる諸薬がことごとく醍醐の中に入っている様なものである。
善男子よ、仏も又これと同じである。
仏より十二部の経を出し、十二部の経より修多羅(しゅたら=般若時の教説)を出し、
般若波羅密より大涅槃(涅槃経の教説)を出すのである。
その大涅槃はあたかも醍醐の様なものである。
醍醐というのは、即ち仏性に例えるのである。」
等と説かれています。

以上のこれらの経文を、
法華経に説かれている「巳今当(いこんとう)」「六難九易(ろくなんくい)」の文に
相対してみますと、月に星を並べ、
九山に須弥山(しゅみせん)を並び合わせたのに似ています。

しかし、華厳宗の澄観(ちょうかん)、法相宗の慈恩、三論宗の嘉祥(かじょう)、
真言宗の弘法ら、仏眼を具えた様に思われている人でさえ、この文に迷いました。
まして盲目の様な状態の今の世の学者らが、
経文の勝劣を弁(わきま)える事が出来るでしょうか。

黒と白の様に明らかであり、
須弥山(しゅみせん)と芥子(けし)粒の様に明確な勝劣でさえ、尚迷っています。
まして虚空の様な理に迷わない事があるでしょうか。

教えの浅深(せんじん)を知らないで、
そこに説かれている理の浅深を弁(わきま)える事は出来ません。

法華経と他の経は巻(まき)も隔(へだ)たっており、
文も前後しているので、
教えの高低・浅深の様子を弁(わきま)える事が難しいでしょうから、
文を出して愚者を助けようと思います。

王といっても小王と大王があり、一切といっても部分と全体の意味があり、
五乳(ごにゅう)にも、仏教全体を五乳に例える全喩(ぜんゆ)と、
教説の一部分について五乳に例える分喩(ぶんゆ)がある事を
弁えなければなりません。

例えば六波羅蜜(ろくはらみつ)経には、一切衆生の成仏は一応説いていますが、
無仏性(むぶっしょう)即ち二乗と一闡提(いっせんだい)の者の成仏は
説いていません。
まして久遠実成を明かしている訳がありません。

この点からみても、六波羅蜜経は尚、涅槃経の五味にも及びません。
ましてや法華経の迹門や本門に相対出来るはずがありません。

ところが日本の弘法大師はこの六波羅蜜経の経文に迷って、
法華経を五味のうちの第四の熟蘇味(じゅくそみ)に入れたのです。
六波羅蜜経で説く第五の総持門(そうじもん)の醍醐味(だいごみ)でさえ
涅槃経の醍醐味に及ばないのに、これは一体どうしたのでしょうか。

それなのに弘法は「弁顕蜜(べんけんみつ)二教論」で
「中国の人師(にんし)は競ってこの経の醍醐を盗んだ」と、
天台大師らを盗人(ぬすびと)であると書いています。
更に「惜しい事に、古(いにしえ)の賢人は醍醐を嘗(な)めていない」などと、
自分で自分を褒(ほ)め称えています。

これらの誤った意見は暫(しばら)くおいて、我が一門の者の為に記しておきましょう。
他宗の人は信じないので、逆縁即ち正法を謗(そし)って地獄へ堕ちるが、
かえって仏縁を結ぶ事になるでしょう。

一滴の水を嘗(な)めただけで大海の塩味を知り、
一つの花が咲いたのを見て春の訪(おとず)れを推(お)し量りなさい。

万里を渡って宋の国まで行かなくても、
中国の法顕(ほっけん)の様に
三か年かかって霊鷲山(りょうじゅせん)に行かなくても、
竜樹菩薩の様に竜宮にまで行かなくても、
無著(むじゃく)菩薩の様に弥勒菩薩に会わなくても、
法華経の様に二処三会(にしょさんえ)の会座に会わなくても、
釈尊一代仏教の勝劣は知る事が出来るのです。

蛇(じゃ)は七日のうちの洪水を知ると言われていますが、
それは竜の眷属(けんぞく)だからです。
烏(からす)が年中の良い出来事と悪い出来事を知っているのは、
過去世に陰陽師(おんようじ)だったからです。
鳥は飛ぶ性質では人より勝れています。




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日蓮は諸経の勝劣を知る事においては華厳経の澄観(ちょうかん)、
三論宗の嘉祥(かじょう)、法相宗の慈恩(じおん)、
真言宗の弘法(こうぼう)よりも勝れています。
それは正師である天台大師・伝教大師の後を承継(しょうけい)しているからです。

澄観・嘉祥・慈恩・弘法達は天台・伝教に帰伏しなかったならば、
謗法の失(とが)を免れる事が出来たでしょうか。

今の世に、日本国で第一番に富んでいる者は日蓮です。
命を法華経に奉(たてまつ)り、名を後代に留めるでしょう。

大海の主となれば諸々(もろもろ)の河の神は皆従います。
須弥山(しゅみせん)の王に諸々の山の神が従わない事があるでしょうか。
法華経の六難九易を弁(わきま)えなければ、
一切経を読まなくても諸経は皆従うのです。


37  二箇の諫勅(かんちょく)を引き一代成仏不成仏を判定する


先に述べた宝塔品三箇の勅宣(ちょくせん)に加えて
提婆品において悪人成仏・女人成仏の二箇の諫暁(かんぎょう)があります。

提婆達多(だいばだった)は正法を信じず、
成仏する機縁の無い一闡提(いっせんだい)でした。
しかし法華経において未来に天王如来となる記別を与えられました。

涅槃経四十巻には、
一切衆生に仏性があると説き一闡提の成仏の理を一応明かしていますが、
その現証は法華経の提婆品にあるのです。

善星比丘(ぜんしょうびく)や阿闍世(あじゃせ)王ら無数の、
五逆罪を犯したり正法を謗(そし)ったりした者の中から、
一つの例を取り上げ頭をあげて、他の全てをそこにおさめ、
枝葉(しよう)を従えたものです。

即ち一切の、五逆罪・七逆罪を犯した者や、
正法を謗(そし)る者や、一闡提が成仏する事は、
提婆達多に天王如来の記別を与えられた事によって明確になりました。

毒薬が変じて甘露となる事であり、
それはあらゆる味に勝れているのです。

また竜女(りゅうにょ)の成仏も竜女一人だけの成仏ではなく、
一切の女人が成仏する事を示しているのです。

法華経以前の諸々(もろもろ)の小乗経には女人の成仏を許していません。

諸々の大乗経には女人の成仏往生を許している様に見えますが、
あるいは女人は身を改めて男となって成仏出来るという改転の成仏であって、
一念三千の成仏即ち即身成仏では無いので、
名だけあって事実の無い成仏往生です。

「一をあげて諸々を例す」といって、
竜女の成仏は末法の女人の成仏往生の道を踏みあけたものです。

儒教で説く孝養はただ今世に限られています。
従って来世の父母を助ける事が出来ないので、儒教などで言われる聖人(せいじん)・
賢人はその名はあっても実際にはそうではありません。

バラモン外道は過去世・来世を知っていますが、
来世の父母を助ける方法は説かれていません。
仏道こそ父母の来世を助ける事が出来るので、真実の聖賢の名があるのです。

しかし、法華経以前に説かれた大乗・小乗の経々を立てる宗派は、
自分自身の成仏さえ尚叶う事は難しい。

まして父母を助ける事は尚更の事です。
成仏といっても只その文があるだけで実義はありません。

今法華経の時に至って、女人が成仏する時、悲母(ひも)の成仏も実証され、
提婆達多の悪人が成仏するとき、
慈父(じふ)の成仏も実証されたのです。
ですから、この法華経こそ仏教典内の孝経(こうきょう)ともいうべきです。

以上で二箇の諫暁は終わります。


38  三類の強敵(ごうてき)を顕す


以上、宝塔品の三箇の勅宣(ちょくせん)と
提婆品(だいばほん)の二箇の諫暁(かんぎょう)、
合わせて五箇の仏の御金言に驚いて、勧持品で釈尊滅後の弘経の誓いがありました。
明鏡である経文を出して、
今の世の禅・律・念仏者並びにその檀那(だんな)達の謗法を知らせましょう。

日蓮という者は去年の九月十二日、
子丑(ねうし)のの時に首をはねられました。
即ち凡夫の肉身は竜(たつ)の口で断ち切られ、
久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)と現れて佐渡の国へ至り、
翌年の二月、雪深い中でこの「開目抄」を書き記(しる)して、
鎌倉の有縁(うえん)の弟子達は、
法華経を弘通する大難を思って怖(お)じ恐れるでしょうが、
日蓮と同じく広宣流布の決意を固めている者は決して恐ろしくはありません。
しかし、その決意が無くてこの書を見る人はどれ程恐れる事でしょうか。

これは釈迦・多宝・十方の諸仏が未来の日本国、
即ち日本の今の世を映し出す明鏡です。
ですから日蓮の形見とも見ていきなさい。




224p




勧持品には次の様にあります。
「ただ願うところは世尊よ、心配しないで頂きたい。
釈尊が入滅された後、恐るべき悪世の中において、
我々は広く法華経を説き弘通するであろう。
諸々の無智の人があって、法華経の行者の悪口を言ったり、罵(ののし)ったり、
及び刀や杖で打つなどする者があるであろう。
しかし我らは皆、それを耐え忍ぶであろう。
末法悪世の中の僧は邪(よこしま)な智慧に長けて、
心が曲がって媚(こ)び諂(へつら)い、
未だ何も解っていないのに悟りを得たと思い、自分を慢ずる心が充満している。
あるいは人里離れた静かな所に
袈裟(けさ)・衣(ころも)を付けて閑静(かんせい)な座にいて、
自ら真の仏道を行じていると思いこみ、
世間の事にあくせすする人間を軽んじ卑(いや)しむ者があるであろう。
そして、私腹をこやし、金品を貪(むさぼ)る為に、在家の人達に法を説いて、
世間からあたかも六神通を得た聖者の様に慎(つつし)み敬われるであろう。
この人は悪心を抱(いだ)き、常に世俗の事に思いをよせ、
閑静な座にいる事に名を借りて、
好んで正法の行者(ぎょうじゃ)の過(あやま)ちを並べ立てるであろう。
常に人々の中にあって、正法を持(たも)つ者を謗(そし)る為に、
国王・大臣・バラモン・居士(こじ)、及びその他の僧達に向かって、
正法の行者を謗(そし)って悪を作り上げて説き、
「これは邪(よこしま)な思想を持った人で、外道の論議を説いている」
と言うであろう。
濁った悪世である末法には諸々(もろもろ)の恐怖がある。
邪宗邪義の悪鬼が国王や大臣などの身に入って
正法の行者を罵(ののし)ったり、謗(そし)り辱(はずかし)めるであろう。
濁世末法の悪僧侶(あくそうりょ)達は、
方便・権経は仏が衆生の機根に従って説いたものである事を知らないでこれに執着し、
返って正法である法華経の行者の悪口を言い、
顔をしかめて憎み、しばしば正法の行者を追い出すであろう」
等と。

妙楽大師はこの法華経の文を解釈して「法華文句記」の八に次の様に言っています。
「この勧持品の文は三つに分けられる。
始めの一行は通じて邪見の人を明かしたもので、
即ち俗衆(ぞくしゅう)増上慢である。
次の一行は道門(どうもん)増上慢の者を明かしている。
第三に後の七行は僭聖(せんしょう)増上慢の者を明かしている。
この三つの中で、初めの俗衆増上慢の迫害は耐え忍ぶ事が出来る。
次の道門増上慢の迫害は第一に過ぎている。
第三のの僭聖増上慢の迫害は最も甚(はなは)だしい。
後々の者程、ますますその謗法が解り難いからである」
等とあります。

「東春(とうしゅん)」に智度(ちど)法師が言うには、
「初めに『有諸(うしょ)』から下の五行において、
第一に最初の一偈(いちげ)は身(しん)・口(く)・意(い)の三業(ごう)の悪、
即ち刀や杖による迫害や怨嫉(おんしつ)を忍ぶ事を明かしている。
この難を加えるのは出家外の在家の悪人、即ち俗衆増上慢である。
次に『悪世』から下の一偈は、
上慢(じょうまん)の出家の人、即ち道門増上慢を明かしている。
第三に『惑有阿練若(わくうあれんにゃ)』から下の三偈は即ち僭聖増上慢で、
出家の所に一切の悪人を摂(せっ)する」
等と。

又「『常在大衆』より下の二行は
公(おおやけ)の場所即ち国王・大臣などの国家権力者に向かって正法を謗(そし)り、
その行者の悪口を言うと説いている」
等とあります。

涅槃経の九には
「善男子(ぜんなんし)よ、一闡提の者が阿羅漢(あらかん)の姿を装(よそお)って、
人里離れた静かな寺などに住み、大乗経を謗(そし)るであろう。
諸々の凡夫人はこれを見て、皆、これこそ真の阿羅漢であり
大菩薩であると言うであろう」
等とあります。

又同じく涅槃経に
「その時に、この経が世界中において広く流布するであろう。
この時に諸々の悪い僧があってこの経を切り取って多くの部分に分け、
正法の勝れた色と香(かおり)と味を滅するであろう。
この諸々の悪人は、この様な大乗経典を読誦(どくじゅ)するとはいっても、
如来が説こうとする深い真意を滅除(めつじょ)して、
世間にありふれている、美しく立派に飾りたてた文や無意味な言葉を付け加える。
経文の前をとって後に著(つ)け、後をとって前に著(つ)け、
また前と後を中に著(つ)けたり、中を前後に著(つ)けたりする。
当(まさ)に知るべきである。
この様な諸々(もろもろ)の悪僧こそ魔の仲間である。」
等とあります。




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また六巻の般泥洹経(はつないおんぎょう)には
「阿羅漢(あらかん)に似た一闡提(いっせんだい)の者があって悪業を行じる。
これと反対に一闡提に似た阿羅漢があって慈悲心を起こすであろう。
阿羅漢に似た一闡提があるというのは、
この諸々の衆生の中で大乗経を謗(そし)る者をいうのである。
一闡提に似た阿羅漢とは声聞を謗(そし)り咎(とが)めて広く大乗を説く者である。
そして衆生に語って言うには、
我は汝達と共にこれ菩薩である。
何故かと言えば、一切衆生皆仏の性分があるからである、と。
しかし、それを聞いた衆生はかえって一闡提であると言うであろう」
等とあります。

涅槃経には
「仏が入滅した後、正法時代が過ぎた後、像法時代において、
次の様な僧が現れるであろう。
それは、形は戒律(かいりつ)を持(たも)っている様に見せかけて、
少しばかり経文を読み、食べ物をむさぶって我が身を養っている。
その僧は、袈裟(けさ)を身にまとっているけれども、
信徒の布施を狙う有様は、猟師が獲物を狙って、
細目に見て静かに近づいていく様であり、
猫がネズミを捕らえ様としている様なものである。
そして、常に『自分は羅漢の悟りを得た』と言うであろう。
外面は賢人・善人の様に装(よそお)っているが、
内面は信徒の布施を貪(むさぼ)り、
正法を持(たも)つ人に嫉妬心を強く抱いている。
法門の事など質問されても答えられない有様は、
ちょうど啞法(あほう)の修行で黙りこんでいるバラモン達の様である。
実際には、正しい僧侶でも無いのに僧侶の姿をしており、
邪見が非常に盛んで正法を謗(そし)るであろう」
等と説かれています。


39  三類について述べる


霊鷲山(りょうじゅせん)と沙羅双樹林(しゃらそうじゅりん)で説かれた、
日月の様に明らかな法華経と涅槃経、
毘陵(びりょう)に住んだ妙楽大師や、
東春(とうしゅん)に住んだ智度法師の明鏡の様な釈書に照らして、
今の世の諸宗、並びに国中の禅・律・念仏者達の醜い姿を映し浮かべてみますと、
一分の曇りも無く明らかです。

妙法蓮華経勧持品に
「仏が滅度した後、恐るべき悪い時代において」、
安楽行品に
「後の悪世において」、又「末世の中において」、
又「後の末世の、法が滅亡しようとする時において」、
分別功徳品に「悪世である末法の時」、
薬王品に「後の五百歳」などと説かれています。

正法華経の観説品に
「然るに後の末世に」、又「然るに後の来末世に」
などと説かれています。

添品(てんぽん)法華経にも同じ様に説かれています。

天台大師は
「像法時代のうちの南三北七の諸宗派は法華経の怨敵である」
と言っています。

伝教大師は
「像法時代の末の、奈良の六宗の学者らは法華の怨敵である」
等と言っています。

しかし、天台・伝教の時は、像法時代であり、
怨敵の姿はまだ明らかではありませんでした。

今末法については、教主釈尊と多宝仏は宝塔の中に太陽と月が並んだ様に座り、
十方の分身の諸仏は宝樹(ほうじゅ)の下(もと)に星を連(つら)ねた様に並んだ中で、
正法時代一千年、像法時代一千年の二千年が過ぎた末法の始めには、
法華経の怨敵が三種類あるであろう、と
八十万億那由侘(はちじゅうまんのくなゆた)という多数の諸菩薩の定められた事が、
どうしてウソ偽りとなるでしょうか。

当世は釈尊の滅後二千二百余年です。
大地を指差して外れる事があっても、春に花が咲かない事があっても、
三類の敵人(てきじん)は必ず日本国にあるはずです。

そうであるなら、どの様な人々が三類の敵人のうちに入るのでしょうか。
又誰人が法華経の行者であると指されるのでしょうか。
心もとない事です。

あの三類の怨敵のうちに、我々は入っているのでしょうか。
あるいは又法華経の行者のうちに入るのでしょうか。
心もとない限りです。

中国・周の第四代昭王の時代二十四年四月八日の夜中に、
天に五色の光気が南北に輝き亘って、真昼の様に明るくなりました。

その時、大地は六種に震動し、




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雨も降らないのに江河(こうが)や井戸・池の水が増え、
全ての草木に花が咲き実がなりました。
実に不思議な事でした。
昭王は大変に驚きました。
そこで大史職(たいししょく)の蘇由(そゆう)が占って言いました。
「西方に聖人が生まれたのでございます」
と。

昭王は尋ねて言いました。「この国にはどうか」と。

それに答えて
「何事もないでしょう。
しかし、千年の後にかの聖人の言説がこの国に伝えられて衆生を利するでしょう」
と言いました。

あの外典の、見思惑(けんじわく)でさえ未だ毛筋ほども断ち切っていない者で
あるにも関わらず一千年後の事を知っていました。

はたして仏教は千十五年の後、後漢の第二代明帝の永平十年
丁卯(ひのとう)の年に中国へ渡りました。

この法華経の予言は外典の蘇由(そゆう)の予言など比べものにならない程勝れた、
釈迦・多宝・十方分身の仏の御前(おんまえ)で誓った諸菩薩の未来記です。
ですから、今の世の日本国に三類の法華経の敵人が無い訳があるでしょうか。

釈尊は付法蔵経などに記して
「我が滅後に正法時代一千年の間、
我が正法を弘(ひろ)めるべき人二十四人が順に受け継いでいくであろう」
と言われています。

迦葉(かしょう)・阿難(あなん)達はさておいて、
百年後の脇比丘(きょうびく)、六百年後の馬鳴(めきょう)菩薩、
七百年後の竜樹菩薩達は、仏の予言に少しも違(たが)わず、
既に出現されました。

末法に法華経の行者と三類の敵人(てきじん)が出現するとの予言が
どうして嘘であるでしょうか。
この事が仏説に相違するなら、一経全てが相違してしまうでしょう。
いわゆる舎利弗が未来に華光(けこう)如来に、
迦葉(かしょう)が光明(こうみょう)如来になるという事も、
皆嘘偽(うそいつわ)りの言葉となるでしょう。

そうしますと、爾前経がかえって真実の決定的な教えとなって、
舎利弗(しゃりほつ)らは永久に成仏出来ない声聞達となります。
犬や野干(やかん)を供養しても、
阿難(あなん)ら声聞を供養してはならないという事になります。
一体どうしたものでしょう。


40  別して俗衆(ぞくしゅう)・道門(どうもん)を明かす


まず第一の怨敵の「諸々の無智の人あって」というのは、
経文中の第二類の「悪世の中の比丘(びく)」と、
第三類の「納衣(のうえ)の比丘」の教えを信じている大檀那達であると見えます。

従って妙楽大師はこの大一類を「俗衆増上慢」と言っています。
又、智度法師は「東春(とうしゅん)」に
「公(おおやけ)の場所即ち国王・大臣らの国家権力者に向かって」
等と言っています。

第二類の法華経の怨敵(おんてき)は、経文に
「末法悪世の中の僧は邪(よこしま)な智慧に長けて、
心が曲がって媚(こ)び諂(へつら)い、
未だ何も解っていないのに悟りを得たと思い、自分を慢ずる心が充満している」
等とあります。

これについて涅槃経には
「この時に諸々の悪い僧があるであろう。
そしてこの諸々の悪人は、この様な大乗経典を読誦するとはいっても、
如来が説こうとする深い真意を滅除する」
等と説かれています。

「摩訶止観(まかしかん)」には
「もし法華経に対して信心の無い者は、
法華経は聖者が修行する高い教えで自分の様な智慧の無い者には用は無いと言う。
又、もし真実の智慧の無い者は増上慢を起こして自分は仏に均しいと思う」
等とあります。

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は「安楽集」に法華経を捨てるべき理由として
「第二に、理が深くて下根の末法の衆生には理解出来ない事による」
等と言っています。

法然は「選択集(せんちゃくしゅう)」で
「念仏以外の諸々の修行は衆生の機根に合わず、時代が適していない」
等といっています。

妙楽は「法華文句記」の十に
「おそらく法華経を誤って理解する者は、初心の功徳の大きい事を知らないで、
その功徳を上位の聖者(せいじゃ)に譲(ゆず)り、
初心の功徳をないがしろにするであろう。
だから今、初心の修行を浅くしてしかもその功徳が深い事を示し、
法華経の功徳力を顕そう」
等と言っています。

伝教大師は「守護国界章」に
「正法・像法時代は後少しで過ぎ終わり、




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末法がはなはだ近くに来ている。
一仏乗の法華経によって一切衆生が即身成仏するのは、今まさしくこの時である。
どうしてそれを知る事が出来るのかといえば、
安楽行品に『末世において法が滅する時に』とあるからである」
等といっています。

恵心(えしん)は「一乗要決(いちじょうようけつ)」で
「日本国中は円経である法華経を求める機根ばかりである」
等といっています。

道綽(どうしゃく)と伝教と法然と恵心とは反対の 事を言っていますが、
どちらを信じるべきでしょうか。
道綽と法然(ほうねん)の主張は一切経に証文がありません。
伝教と恵心の主張は正しく法華経に依(よ)っています。

その上、日本国一同にとって、
比叡山の伝教大師は戒を授けられた受戒の師です。
どうして天魔のついた法然に心を寄せ、
自分の受戒の師である伝教を捨てるのでしょうか。

法然が智者であるなら、
何故天台や妙楽、伝教や恵心らの解釈を「選択集」に載せて、
道筋を立てて道理を明らかにしなかったのでしょうか。

それをしなかった法然の主張は人の道理を隠すものです。
従って、経文の第二類の「悪世の中の比丘」と指されているのは、
法然ら無戒・邪見の者の事です。

涅槃経に
「法華経以前に我々ことごとく邪見の人と名づける」
等とあります。

妙楽は「法華玄義釈籤(ほっけげんぎしゃくせん)」で
「自ら法華経以前の蔵・通・別の三教を指して皆邪見と名づける」
等と言っています。

天台の「摩訶止観(まかしかん)」には
「涅槃経に、これより以前は、我々は皆邪見の人と名づけるとある。
邪(じゃ)とは即ち悪ではないか」
等とあります。

妙楽の「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」には
「邪(じゃ)は即ちこれ悪の事である。
この故に、ただ円経を禅となす事を知るべきである。
これに又二つの意味がある。
一には実相に順(したが)うを善となし、実相に背(そむ)くを悪となす。
これは比較相対して勝劣を判ずる相待妙(そうたいみょう)の意である。
二には、円に執着するを悪となし、円に達するを善となす。
これは絶待妙(ぜったいみょう)の意である。
この様に相待・絶待共に悪を離れるべきである。
円に執着する事でさえ尚悪である。
ましてその他のものに執着する事は尚更である。」
等とあります。

外道の善悪は、小乗経に対すれば共に皆悪道であり、
小乗経の善道及び爾前(にぜん)の四味三教は法華経に対すれば皆邪悪であり、
ただ法華経のみに正善(しょうぜん)です。

爾前(にぜん)経に説かれた円経は相待妙です。
絶待妙に対すれば尚悪です。
又爾前の円経は前三教に摂するので尚悪道です。
爾前経に説かれている通りに爾前経の極理(ごくり)を行じても尚
悪道なのです。

まして観無量寿経など、華厳経や般若経などにも及ばない小法を基(もと)として、
法華経を観無量寿経に取り入れて、
かえって念仏に対して法華経を閣(さしお)き、
抛(なげう)ち、閉(と)じ、捨(す)てさせたという事は、
法然並びにその化導を受けた弟子達、檀那達は正法を誹謗する者ではないでしょうか。

釈迦・多宝・十方の諸仏は
「法華経を永久に存続させる為に法華経の会座に来られた」
のです。

しかし、法然並びに日本国の念仏者達は
「法華経は末法には念仏より先に滅びる」
と言っています。

これこそ釈迦・多宝・十方分身の諸仏の怨敵ではないでしょうか。


41  第三の僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)を明かす


第三類の怨敵は法華経に次の様に説かれています。
「あるいは人里離れた静かな所に袈裟(けさ)・衣(ころも)をつけて
閑静(かんせい)な座にいて、在家の人達に法を説いて、
世間からあたかも六神通を得た聖者の様に慎(つつし)み敬(うやま)われるであろう」
等と。

六巻の般泥洹経(はつないおんきょう)もは次の様にあります。
「阿羅漢に似た一闡提(いっせんだい)の者があって悪業(あくごう)を行ずる。
これと反対に一闡提に似た阿羅漢があって慈悲心を起こすであろう。
阿羅漢に似た一闡提があるというのは、
この諸々の衆生の中で大乗経を謗(そし)る者をいうのである。







最終更新:2011年03月14日 07:36