“吸血鬼”への復讐にとり憑かれ、人から魔へと堕ちた男、トシロー・カシマ
何かに巻き込まれ、その都度ただ翻弄されているだけ。 選ぶべくもない、全てが与えられた選択肢から選んだに過ぎない。
ならば、俺は今まで……ただの一度でも能動的に道を選べたか?
己の意思で、自らの決意で。 アリヤやクラウス、アイザックのように何者にも覆せぬ鋼鉄の精神で歩めたことが―――
───あった、あるではないか。
決して誇れない過去が。過ちを犯しながらも邁進した最悪の時期が、己への不信と共に存在する。
こんな過去しか、俺は俺だけの決意を持てた時期がないのか………
そう───
「我が名は三本指───穢れて堕ちた、吸血鬼を狩る魔鳥なり」
かつて血族社会全体を揺るがし、あらゆる倫理や掟さえ通用しない模倣犯まで生み出した三本指。
その正体とは主人公、トシロー・カシマの過去の姿であった。
「猛禽の手形が示すは“八咫烏”。真の方角へ導くという伝承があり、俺はそれをなぞった。
害獣を襲い、腐肉を喰らい、死の穢れを祓う……一羽の鴉とならんとな。
―――そう息巻いていた時間が、かつての俺には存在していたのだ」
第二次大戦の終戦後も変わることなく……恋人である 美影と共に、縛血者として放浪し続けたトシロー。
彼は、熱を持たぬ肉体を抱えながらも、自分と美影は人間であると叫び続け 二人だけの世界を守らんとした。
だが、 自分達を化物として完全否定する白木の杭・クラウスとの邂逅と、それによって齎された美影の死、
そして彼女との死を拒む自身の肉体という 絶望的な現実を前に、 ついにトシローは人間で在ろうとする心を自ら捨てた。
己を含めた縛血者という存在を、彼女に一層苛酷な運命を強いた元凶と信じ込み、その絶滅を誓ったのである。
狂った機械のように、唇が呪詛を吐き始める。
「許さんぞ……俺の祈りを砕いた者どもを……俺たちの楽園を犯した者どもを……!」
「俺は……吸血鬼を憎む……!」
そして、その後には昏い、昏い嗤いを浮かべた復讐の鬼一人しか残ってはいなかった。
───吸血鬼、滅ぶべし。
倫理や法からの明らかな逸脱。
途方もない企てであり、縛血者を知る者や「常識的な」狩人ならば、嗤い出すか投げ出すであろう目標。
だが、己を救い得る光などこの世にはもう存在しないと信じ込んだトシローは、
化け物どもの血に塗れた路が己にとっての全てだと、躊躇なくこの復讐行に身を投じたのである。
血塗れの手形を残す様にしたのは、初めて同族殺しをした折、反撃により失った薬指と小指を意に介さず攻撃した時に偶然ついた痕の有り様が、化物の仕業に思えたトシローが気に入り、“吸血鬼を殺す異形” と自己を規定する意味も籠め、それ以降もワザと残すようにしたためである。
作中では特に触れられてはいないが、この時期のトシローはクラウスの銀の銃弾を既に心臓に受けた後のはずである。
ギリギリの命のやり取りが続けば続くほど、基礎能力の劣化やコンディションへの悪影響も生まれた可能性が否定できないが……
回想などを見る限り、たとえそれが突如生じたとしても、彼の研ぎ澄まされた殺意が鈍ったとは考えにくい。
本物の同族殺し、三本指――それは、弱者のように術を手繰り、強者のように猛き刃を振るう者。
闇の底で、産声を上げた……人と魔の黄昏に在る者。
達人の見切りにより全ての攻撃の性質を見極め、吸血鬼の剛力で悉く迎え撃つ。
人間としての知性が思い付く限りの手段と、縛血者としての死に難い肉体と鎖輪への侵入のし易さ。
この二つの側面を最大限に活用して、彼は次々と縛血者を手に掛けた。
だが何よりも恐るべきは、アイザックが焦がれ自らも模倣せんとした人間とも縛血者とも並ぶ者無き、“吸血鬼”滅殺への執念である。
総数二十六人の血族の集団、準藍血貴級の二体を含んでいる――彼らを相手取るに当たっては、力の詳細を把握できた者達のみ全員が都合よく同一の場所に揃い、それ以外の把握できなかった者達全員が都合良く、その場に居合わせないという状況をただひたすらに待ち続けた。
存在を気取られぬように観察を続け、僅かでも油断、隙を見せれば、即時の殲滅へと移行。確実に逃がさず殺すために。
また、特定対象の優先的な排除の為、毎夜ごとに無作為に選ぶ100種の 棺桶の中、
その者が たった一つを開けるその瞬間まで、彼は 吸血もなしにおよそ一カ月もの間柩の中で耐え忍ぶという手段を迷いなく実行した。
そして、実際の排除行動に至っては、 年を重ねた者・貴い血を引く者が当然強いという縛血者の基本認識を逆手にとり、
序列の高い者から駆逐することで、より弱い者達の意識を恐怖で縛り付け、殲滅していった。
この他、人類社会への牽制・協力を引き出すための手段を断ち切り、
狩人など敵対要因が流入しやすいように集団全体を脆弱化させて攻め落とす事も、彼にとっては常套手段だったようである。
強靭な肉体や異能に頼り、昂揚した感情のままに無謀な特攻に奔る。
危険のある行動を避けて経年による強化などに賭けるといった、己の命や生存を第一に置く思考。
三本指という字に憑かれたトシローは、そういった感情の揺れ動きや命の勘定から解き放たれ、
“絶対に殺し、滅ぼし尽くす” その無尽の執念を以てあらゆる条理を踏み拉く魔物と変貌していた。
「この三本指にかけて誓おう……
この世の全ての吸血鬼を墓の下に埋め尽くすと……」
「俺の墓標は、奴ら全ての屍の上に築くと…………」
───そして悲願を達成するのだろう。心の底から満ち足りた顔で、己の心臓を抉り出すに違いない。
項目冒頭の誓いの言葉にあるようにトシロー自身、己の行為が如何に愚かか理解しながらも、
それでも、決して止まることなどしないという心の芯が形成され……
最後の一人として、無様な自分自身を滅ぼすという安息にして至福の瞬間が訪れるまで、それは継続するかに思われた。
何百もの同族を屠ったトシローは、欧州を二分するほどの実力を持ち、最強と目された、 バイロンを次なるターゲットと見据え、彼の居城に侵入を試みようとしていた。
そんな折、バイロンの潜伏地である古城が戦闘機による砲撃を受けている状況に出くわす。
トシローが踏み込んだ時に既にバイロンの姿は無く、代わってそこにいたのは───
無残にも四肢を奪われ、その身を 血に沈めていた女であった。
そんな無残な様を見ても、トシローは腐肉を喰らう鴉として、人外に止めを刺すために切っ先を向けるが───
「マ……マ……」
今際の際に母を求める…そんな怪物とは思えぬ姿を見てトシローは驚愕し、ある事に気付いてしまう。
俺は今まで、人間を殺していただけに過ぎなくなる
憤怒が、憎悪が忘れさせていた記憶───それが一気に逆流する。
そうだ……
俺の傍にあり続けた美影とは、一体誰だったのだ?
俺は、何者をこの手で慈しみ愛していたのだ?
天地逆転にも等しい衝撃が、俺の心身を打ちのめした。
血管を満たしていた赫く黒い狂熱は、嘘のように何処にもなかった。
血だまりの海で息絶えんとする名も知れぬ女と、白木の杭に貫かれた美影の姿が重なっていく。
「人間……だ……」
嗚咽にも似た声が、震える喉から絞り出される。
気が付けば、血だまりから拾い上げた女を胸へと抱きしめていた。
「人間なのだ……美影も……おまえも……」
「怪物など……吸血鬼など……何処にもいなかったのだ……」
深い、深い慚愧の念を抱え……止め処なく流れる血涙が男の頬を濡らしていた―――
……そうして人知れず、三本指という災害にも似た狂気の存在は、縛血者社会の表舞台から姿を消していった。
どこまで行っても逃げられないってことだよ……自分自身の問題からは、な。
しかしまた同時に、数多の縁が予期せぬ因果を引き寄せるように………
アイザックのその 憧憬は─── ある結末にも繋がり得るのだった。
……今まで俺と語り合っていた時間は、やはり偽りだったのか?
相変わらず極端だな、トシロー。全部が全部、1か0で区分けられるはずがないさ………
あの時間はあの時間なりに楽しかった……おまえと語り合ったことが嘘になる訳がない。
裏切りも、敵対も、友情を終わらせる要因じゃない。……そうだろう?
死すらも、終わりにはならないと?
おまえが、俺を忘れずにいてくれる限りは……な。
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