プレイレポート集

【サンプルシナリオ】

【高原家】

難易度SSの高原家に挑戦。武将は能力、武3政3知2統2水5の当主一人。初期兵力騎馬100足軽250で徴兵数足軽のみ20。最大石高5000、最大経済800。港があるのが唯一の救いだけど、流石にSSだけある難しさ。まず兵を蓄えつつ港でお金を稼ぎ鉄砲購入。細川京兆家、三好家に従属し国力を蓄える。

1560年3月兵力が2430になった時点で独立し、守備兵480の星が城を6ヶ月かけて攻略。これにより兵数1460まで減少。小寺家に従属し、三好家との関係を回復させた。次の目標は守備兵1500の常山城。郎党が一人加わり、徴兵数も50に。 1561年9月郎党の兵数が500になったところで大友と結び、三好の常山城を攻める。つり出し等を用いて7ヶ月かけて攻略。兵力は当主990、郎党260まで減少。また徴兵数は騎馬20足軽190と大幅に上昇。次に隣国の砥石山城1500をすぐに攻撃にかかる。鉄砲が1000近くあるため楽々攻略。隣の英賀城が守備兵0のため回収。星が城を三好に攻められていたため、毛利に鞍替えし、大友三好とも同盟関係に。

現在63年1月で5城15万5000石。徴兵は騎馬90、足軽930.総兵力は190に1700。鉄砲1510.資金13万。武田が東北を治め545万石でトップで、5位の213万石の北条と交戦中。2番手は織田で425万石。当家の周りに毛利233万石、三好230万石、大友203万石が勢力を拮抗させている。現在の隣接敵対国は小寺のみで3城18万石。兵力騎馬800足軽11000鉄砲2120。

小寺家との交戦。敵方が姫路城に兵力を集中させているため水路で魚住城を攻撃。4ヶ月で落城。続いて御着城を攻めるが、主家毛利が同時に姫路城を取り囲み武将が姫路から脱出できず落城。小寺孝高が御着城に流れてくる。数ヶ月かけて城を落とし、智謀9野統8の孝高を味方にする。現在64年2月。7城23万9000石。騎馬1250足軽12260。徴兵は120の1240。金36000。鉄砲2400。武将6。

一方織田家は紀伊を外交により調略、北陸の朝倉を臣従。その後三好を侵食しトップの675万石に。武田は順調に北条(残り82万石)を攻略し643万石の2位に。主家毛利は大友三好と同盟を結んでおり3位の265万石。大友は三好(176万石で5位に後退)を攻め立て220万石の4位に。

64年2月織田と対抗するため毛利に臣従。魚住城周辺で激戦が始まる。64年11月毛利と織田が同盟を機に織田に鞍替え。同時に大友との同盟も結ばれた。このころ武田が関東北条氏を制圧。織田との不戦同盟を破棄。また三好の壊滅とともに毛利と大友の戦いが始まった。

65年6月大友に鞍替えし、毛利の空城を奇襲。三木、姫路、沼城を手に入れる。これにより約48万石になり7位に躍進する。しかし常山城が落ちそうなため大友に臣従。

現在66年1月、10城46万2798石。騎馬3670足軽21990。徴兵は240の2410。鉄砲3250。金37万。軍船47。武将は高原次利と小寺孝高、郎党6人。大友に臣従。織田(822万石)と武田(763万石)、大友(328万石)と毛利(235万石)がそれぞれ戦闘。当家より上に島津(69万石、独立)と朝倉(69万石、織田に臣従)がいる。

66年3月大友を裏切り毛利に従属。岡山城、塩飽本島、雨瀧城を急襲、雨瀧城を落とす。4月雨瀧城に兵を集め、聖通寺城、勝賀城、十河城を攻撃。5月いったん兵を引いた後、上の3城を再び攻撃し、大友の手が出ないようにする。以下同様。6月岡山城を制圧。7月塩飽本島を制圧。聖通寺城、勝賀城、十河城は依然攻撃中。8月同上。9月聖通寺城攻略。10月九十九城、天霧城、羽床城を攻撃。11月勝賀城落城。12月十河城、天霧城攻略。67年1月藤目城、岩倉城攻撃。2月九十九城攻略。3月羽床城制圧。仏殿城攻撃。

現在67年4月、高原家19城73万石。騎馬4830足軽33400。鉄砲4730。第5位。毛利家に従属。織田(823万石)対武田(765万石)、毛利(238万石)対大友(250万石)は未だ継続中。

67年6月藤目城、8月岩倉城、9月金子城、11月仏殿城上桜城(大野直之捕獲)、12月白地城。68年1月高峠城、2月来島城、一宮城(一宮成相捕獲)。4月湯築城、5月鹿島城、本山城。6月能島城、7月伊予飯盛城、9月臼杵城、朝倉城、10月曾根城、岡豊城、12月地蔵獄城、69年1月法華津城、広岡城、2月佐伯城、姫野々城、浦戸城。

大友の主力が九州にいるため、四国はガラガラ。怒涛の勢いで城を落としていく。四国を大部分を手に入れ、九州への上陸を果たす。現在43城145万石。織田(877万石)対武田(724万石)の形勢は少し織田に傾いているが、まだまだ決着はつきそうに無い。毛利(234万石)対大友(194万石)は、はじめ大友が押していたが、四国を荒らされ毛利優勢に。

69年3月島津が県城と高城に武将を集めていたため、県城を取り囲み兵糧攻め。島津忠親、入来院重時、志岐麟泉を捕獲。同時に高崎城も落とす。4月府内城、黒瀬城、香宋城。5月小牟礼城、常盤城攻略、県城を放棄。6月久礼城、7月木付城攻略。8月島津がまた県城、高城に武将を集めていたため、つり出し要員等も集めて総勢7万5千で決戦を挑む。島津義久、頴娃兼堅、猿渡信光、北原堅守を捕虜に。これにより52城157万石となり大友(150万石)を上回る。毛利は231万石。

大友島津の反撃が厳しくなり、攻めかけの城もなくなったため、毛利が九州に閉じ込められている隙に大友に鞍替えする。9月県城の兵を全て引き連れ讃岐に引き返し、笠岡山城を制圧。10月鞆城を攻略。11月、四国攻めの部隊と合流、神辺城攻略。木付城(九州)を攻められているが無視。12月三原城。1月因島城攻略。木付城落城。2月猿掛城、3月鶴首城、志川滝山城、鳥籠山城。4月高山城、5月銀山城、幸山城攻略。高崎城(豊後)落とされる。徐々に毛利勢が中国地方へ。6月桜尾城、鬼身城、7月高松城(備中)、8月米山城。9月頭崎城、10月高松城(安芸)、甲山城、松山城。

現在70年11月、70城223万石。毛利を抜いて3位に。騎馬20630足軽95430。鉄砲10020軍船142。武将は高原次利、黒田孝高、大野直之、一宮成相と郎党22人。金147万。港11。織田(864万石)対武田(712万石)、毛利(184万石)対大友(155万石)は共に膠着状態。

武将が質量ともに不足している。徴兵枠は使い切れないし、郎党ばかりで知力4の武将にも奇襲される状況。西国統一は問題なさそうだが、織田戦のために武将の捕獲に力をいれなければならない。

70年11月志岐麟泉(島津)を登用。桜尾城(安芸)、葉城(備中)。12月岩国城(周防)、江美城(伯州)。71年1月吉田郡山城(安芸)、比叡尾城(備後)を落とす。これにより志川滝山城との間に13武将閉じ込め。2月日野山城(安芸)を落とす。尾高城(伯州)が空城のため軍団で制圧を狙うが逆の高田城を攻撃。3月南天山城を兵糧攻め。穂田実親、江田隆連、杉重輔、原田隆種、平賀広相、佐波興連、上田実親を捕虜に。4月入来院重時(入来院)、上田実親(三村)を登用、五龍城(安芸)、旗返城(備後)を制圧。5月北原堅守(島津)、江田隆連(江田)を登用、赤穴城(出雲)、三沢城(出雲)、虎倉城(備前)を落城。現在71年6月、83城257万石。武将33騎馬28060足軽129460。

安芸備後を中心に攻め、名のある武将も5人増えた。捕虜も9人に。しかし毛利主力が中国地方に移り、城がいくらか攻められている。大友(159万石)が毛利(150万石)を抜いたことだし、そろそろ外交を見直すときか。毛利に従属ではせっかくの捕虜武将が釈放されてしまうが、大友島津の同時攻めが可能で速い展開になる。現在のままもう少し毛利を削るということも十分可能。いくらか城を落とされるが、こちらの攻撃のほうが速い。独立して織田を少し削っておくのもいいかもしれない。兵力のほとんどが武田国境沿いであり、戻ってきたら従属という手もある。大友と2正面になる可能性もあり、毛利島津の捕虜を返還しなければならないが。現在最有力は織田に鞍替え。敵国が島津だけになり、速度は落ちるが最も堅実。武将等の増加も待てる。

71年6月、島津義久登用。織田家に従属し、島津を倒し武将の捕獲を目的とする。7月第一陣県城に到着。およそ6万の軍勢で5万の島津を高城にて撃破。8月第二陣到着、高城を落とす。9月清武城制圧、都於郡城に島津18武将を閉じ込める。10月都於郡城を兵糧攻め、11武将を捕獲。11月都城城、飫肥城を落とす。

島津はもはや敵ではなく楽勝ムードが漂う中、中陸奥の大崎家独立という思わぬところから危機が訪れる。これにより武田が不戦同盟を要請し、織田がそれを受諾。進路を西国に切り替えた。毛利の織田への従属という最悪の事態が予想されたため、高原家を独立させ毛利と同盟を結び、織田大友島津という3正面作戦を取らざるを得なくなった。一部を九州に残し、当主を含め主力部隊は織田との国境である播磨の魚住城に。

12月九州の軍団が大隈の姫木城を落とすが、常盤城(伊予)、久礼城(土佐)、沼城(備前)、砥石山城(備前)が攻撃される。1月主力が魚住城に到達するが、織田の軍も既に摂津にあった。とりあえず岩尾城(淡路)を全員で攻撃し落とす。2月大崎家を潰した武田が織田との不戦同盟を破棄。それにより織田から同盟の申し出があり、当然受諾。当面の危機を脱することが出来た。次の目標は四国統一。

3月宿毛城(土佐)を約10万の軍勢で一気に落とす。同時に内側から兵を回し久礼城(土佐)を救出。4月伊予の岡本城三滝城、土佐の中村城窪川城を同時に攻撃、武将を閉じ込め兵糧攻めに。岡城(豊後)落城。5月岡本城、中村城を攻略、戸次鑑連、斎藤鎮実を捕虜に。九州の熊牟礼城、加久藤城、垂水城も落城。6月窪川城(土佐)落城、田原親賢、木付鎮秀、一条内政捕獲。同時に安芸城(土佐)も落城。7月当主を豊後に移動、九州部隊の一部を直轄化。高森城(肥後)、三滝城(伊予)が落城。

現在72年8月、101城309万石。武将43騎馬36290足軽197370。独立し織田(871万石)毛利(154万石)と同盟、大友(124万石)島津(29万石)下蒲池(31万石)阿蘇大宮司家(12万石)と交戦中。四国は兵糧攻めの一城を残して統一し、九州で上の4家を順調に削っている。武田(670万石)がやや押されているため、すぐにでも大友や島津と同盟を結んで織田戦に持ち込みたいが、せっかくの捕虜武将が無駄になるのは勿体無い。せめて島津だけでも倒しておきたいが、毛利が織田に従属しないかが気がかりだ。

高原を日向におき一度に7、8城の広角速攻により出来るだけ早い時期での九州統一を狙う。72年8月角埋城(豊後)内牧城(肥後)、9月岩尾城(肥後)大隈高山城(大隈)大姶良城(大隈)攻略。10月下蒲池家臣従、蒲生城(大隈)内村城(肥後)攻略。11月小原家、田尻家、少弐家臣従、御船城(肥後)堅志田城(肥後)指宿城(薩摩)大口城(薩摩)海部城(阿波)制圧。12月星野家臣従、鹿児島城(薩摩)赤尾木城(大隈)、1月加世田城(薩摩)人吉城(肥後)永野城(肥後)攻略。2月伊集院城(薩摩)水俣城(肥後)鷹峰城(肥後)隈本城(肥後)攻略、角埋城(豊後)逆に落とされる。3月大友その他周辺諸家と不戦同盟、平佐城(薩摩)攻略。4月大友らを従属、伊集院城(薩摩)落城につき島津滅亡。5月大友その他周辺諸家を臣従、軍勢を織田国境へ移動開始。6月出水城(薩摩)落城、薩州島津家滅亡。

現在73年7月、124城400万石、臣従含め542万石。織田(861万石)武田(655万石)毛利(170万石)。九州をほぼ統一し、島津の武将を大量に登用。兵力も騎馬5万足軽20万と武田に匹敵する勢力に。いよいよ次回、織田家との決戦を始める。

73年7月、8月織田との戦に備えて武将の移動と徴兵を行い、9月に織田との同盟を破棄。9月総攻撃開始、室津城(播磨)、洲本城(淡路)、滝山城(摂津)を落城。天神山城(備前)、有馬城(摂津)、堺(和泉)、岸和田(和泉)にも攻めかけた。10月天神山城(備前)、有馬城(摂津)、岸和田城(和泉)を落とす。11月日和佐城(阿波)、越水城(摂津)、堺(和泉)。12月牛岐城(阿波)、渭山城(阿波)、石山城(摂津)、雑賀寺(紀伊)。1月勝瑞城(阿波)、木津城(阿波)、伊丹城(摂津)、千石堀城(和泉)、野田山城(和泉)を攻略。2月八上城(丹波)、高屋城(河内)、有田城(紀伊)、3月池田城(摂津)を制圧。4月茨木城(摂津)、若江城(河内)、太田城(紀伊)、根来寺(紀伊)、岩室城(紀伊)。5月高野山(紀伊)、亀山城(紀伊)、長藪城(紀伊)を落とす。

現在74年6月、155城537万石、臣従含め682万石で武田(648万石)を抜き第2位に。織田は755万石。阿波や備前の織田勢力を潰し、和泉や紀伊といった鉄砲拠点も押さえたため、第1戦としては大成功といったところ。ただ織田の武将が続々と信濃から向かってきて、かなりの兵力に。特に11万の鉄砲隊が脅威。戦って勝てなくは無いが、最後の敵となるであろう武田が漁夫の利を得るのは気に入らない。そろそろ潮時か。一度同盟を結んで、追い払っておくべきかもしれない。

74年6月、織田と同盟を締結。毛利を従属。74年7月、毛利を臣従、因幡山名家を従属。74年8月、因幡山名家を臣従。

現在74年9月、155城540万石、臣従含め874万石でトップに。織田は747万石、武田は652万石。列島が綺麗に3色に分かれた。勢力も拮抗しており、3国全てに天下統一の可能性が残っている。織田は中央に位置し、地の利では少し不利。しかしながら武将の質はかなり高い。また武将も多く、兵力も足軽43万と抜群。特に10万を超える鉄砲の存在が大きい。武田は織田と高原が戦っている間に勢力を伸ばす可能性があり、織田を臣従する状況になれば最強に。ただ高原が優勢であることは間違いない。戦略としては織田を武田と挟み撃ちした後に武田と1対1で争うか、または織田に武田を潰させている間に、織田を少しずつ削っていく方法が考えられる。ただ織田と武田が合併しないようにだけは気をつけなくてはならない。

74年10月、織田家との同盟を破棄。高原を河内に置き、摂津・山城・河内・大和・紀伊の各城に攻めかかる。また臣従させた毛利勢らは約20万の軍団を編成し、但馬を攻撃させた。75年2月、紀伊の約11万の部隊が志摩の波切城を落とす。軍団を編成し、志摩を担当させる。また高原を山城に移動させ、丹波を直轄部隊にて攻撃させる。75年6月、但馬軍団が丹波の福知山城を落としたため、その武将を直轄に戻す。これにより丹波攻略が加速。また本軍は山城と大和を制圧完了。近江攻略を始める。75年9月、丹波を平定、軍団を編成し、丹後と若狭へ。高原は近江に移動させ、安濃津城を落とした志摩軍団を直轄化。75年12月、亀山城にて織田武将20を不退却で嵌め秀吉、百地らを捕虜に。若狭の軍団を直轄に。

現在76年1月、220城819万石、臣従含め1158万石。前線は若狭、近江、伊勢。軍団は編成せず、近江にて指揮をとる。織田は486万石と没落、武田は663万石と現状維持。高原は日本の半分を押さえ、両者を併せた石高に。織田は石高こそ落ちたが、武将数では113と高原(69)武田(41)の合計より多く、この行方が天下を左右する。武田への従属は絶対に避けなければならないが、こちらへの従属では攻め口を失う。織田を上手く臣従に持っていけるかが今後のポイントとなりそうだ。

76年2月、約8万の部隊が末森城(尾張)を落としたため、軍団化。76年4月、高原を伊勢に写し、尾張軍を直轄化。若狭の約8万を軍団化し、越前攻め。76年8月、近江統一。高原を尾張に移動。越前の軍団に近江兵約12万を追加。76年10月、尾張平定、三河は吉田城まで、越前は本壮城まで攻略。朝倉(55万石)が独立。77年1月、高原を美濃に移動させ、越前軍を直轄化、三河遠江の約15万を軍団化。朝倉臣従。武田と同盟。77年4月、越前美濃の上下から挟み込んで織田武将約30を不退却で殲滅。武将を大量に捕獲。 遠江軍は駿河の花咲城まで到達。本軍は信濃の松尾城を攻撃中。織田勢の遠江での閉じ込めを謀る。77年6月、遠江にて織田武将約40を不退却で殲滅。武将を大量に捕虜に。

現在77年7月、293城1141万石、直轄含め1546万石。武田は711万石。織田は残り6城で22万国20武将、未だ独立。一連の戦で10人の武将を登用、60人を捕虜に。このまま織田を滅亡させ登用を謀る。次回武田との戦いを始める。全てにおいて倍程度の差をつけているため、あとはもう潰すだけである。

77年7月、武田との不戦同盟を破棄。高原は遠江にて指揮を執り、飛騨越中は軍団にて攻撃。78年2月、信濃の戸石城を落とし武田武将48人を越後との間に閉じ込める。また高原は甲斐に移動。78年5月、織田の最後の城を落とし、織田の武将を大量に登用。78年6月、信濃の武田軍を不退却で殲滅。武田軍は兵力の半数を失う。信濃平定。78年7月、高原は信濃に移動。駿河軍約30万を軍団化。越後軍を直轄化。78年10月、北条氏を臣従。高原は上野に移動。武蔵にいた駿河軍団を直轄化。78年11月、武田が同盟を要請したため、これを受諾。続いて従属化。残った大名と同盟。78年12月、武田(313万石)を臣従。残った大名を従属。

1579年1月、天下統一!353城1422万石、臣従含め2324万石。




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最終更新:2014年04月28日 10:45