日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道 第27話 米将軍吉宗と元文の改鋳

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貨幣の散歩道
第27話 米将軍吉宗と元文の改鋳
 テレビや時代劇でお馴染みの八代将軍吉宗は、 徳川幕府中興の祖として名高い。吉宗は、享保 の改革を通じて、五代将軍綱吉の放漫財政や災 害の発生などにより危機的状況に瀕していた幕 府財政を見事に立て直したのであった。とくに 享保7年(1722)、町人請負方式による新田開 発を解禁のうえ年貢米の増収を図ったり、米価 の調整に腐心したことにちなんで、吉宗は米将 軍とも呼ばれる。しかし、財政立て直しに最も 寄与したのは、国内産業の振興策ではなく、実 は元文元年(1736)に実施された貨幣の改鋳と いう金融面からのリフレ政策であった。
 吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視した ため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減 という強力なデフレ政策を実行した。その結果、 江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消え たようになったといわれている。物価も下落傾 向をたどったが、「諸色高の米価安」と称され るように、とりわけ米価の下落が著しかった。 年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場 合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、 米価の独歩安は彼らの生活を圧迫した。
 これに対し将軍吉宗は、米価の引き上げを狙 いとして商人に米の買い上げを強制するなど、 各種の米価対策を講じた。しかし、米の増産率 が人口増加率を上回るという需給状況もあって、 期待した効果はもたらされなかった。幕臣たち は、金銀貨の改鋳による通貨量の拡大を幾度と なく進言したが、元禄の改鋳が一般庶民を苦し めたことを熟知していた吉宗は、なかなか首を 縦に振らなかった。そして、元文元年(1736) に至り漸く、改鋳が決断された。
 元文の改鋳に当たって徳川幕府では、改鋳差 益の獲得を狙いとした元禄・宝永の改鋳とは異 なり、改鋳差益の収得を犠牲にする一方で、新 貨の流通促進に重点を置いた。すなわち、元文 小判1枚の金含有量は享保小判の半分程度に引 き下げられたが、新旧貨幣の交換に際しては旧 小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩 (ましぶ)交換を行う一方、新古金銀は1対1 の等価通用とした。この結果、旧金貨保有者に とっては、旧貨をそのまま交換手段として利用 するよりも、増歩のえられる新金貨に交換のう え利用するほうがはるかに有利となった。  こうした増歩交換政策の実施が功を奏し、徳 川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速 に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において 約40%増大した。この貨幣供給量の増加は物価 の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった 日本経済に「干天の慈雨」のような恵みを与え た。例えば大坂の米価は、改鋳直後の元文元年 から同5年までの5年間で2倍にまで騰貴する など、徳川幕府の企図したとおりの物価上昇が みられた。こうしたなかで経済情勢も好転し、 元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの 間、安定的に流通した。
 一方、幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の 増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益 として流入したこともあって大きく改善した。 この傾向は宝暦期後半(1760年代はじめ)まで 続いた。このように元文の改鋳は、日本経済に 好影響をもたらしたと積極的に評価される数少 ない改鋳であった。
最終更新:2015年04月01日 23:43