市区改正事業(明治15年)


東京府知事である芳川顕正の明治15年の市区改正の意見書によって始まる一連の東京の市区計画。
大雑把に大正9年まで続いているようです。
この人以前の楠本正隆の東京改造論、松田道之による市区改正、東京築港なんてのも盛り込まれてるみたい。

が、「官庁集中計画」(明治17年)と対立したことで頓挫。
これはあれだ、日比谷練兵場跡地に作る予定だったあれですね、仮の帝国議事堂(>国会議事堂)がそこにあったからね。
外務省(井上馨)や内務省直属の臨時建築局(井上馨外相が総裁)によるもので、明治14年の鹿鳴館もこの一貫。
この後、井上馨が不平等条約の改正に失敗したために外務省を辞任したことで計画が再燃。

ただ、東京築港(品川築港)は横浜港の改築とぶつかって消滅しちゃってるようですね。
確か神奈川県の意向ってのもあったんじゃなかったかなぁ。

明治19年(1888年)に「東京市区改正条例案」が帝国議会に掛けられ一旦廃案となるものの、内務省の山形有朋、大蔵省の松方正義らの手で閣議に掛けられて承認され布告。
道路、河濠、橋梁、公園、鉄道、市場、火葬場、墓地などの整備計画へとなりました。
まあ道路が主らしかったんですけどね。

まずは道路に次いでの重要度の上水道の整備をしようとしたら鉄管納入で不正品が続出したってのもこの時期の話か(で、疑獄事件に発展☆)。
(鉄道王の雨宮敬次郎が関わった事件として時々聞くことありますね、中心人物誰だろ。)
日本初の公園である日比谷公園はなんとか作り始めたけどどうにも長引いたとか、まあそういう話ですね。
日本橋を作っていたのもこの頃らしいですが、あれ本当になんで獅子(当時の東京府の徽章をお手てでころころしてるやつ)と、麒麟が乗ってるんでしょうね、正直説明あるけどよくわからないんだよなぁ。あの麒麟、特に羽根生えてるし。
(1911年竣工、妻木頼黄と東京美術学校にデザイン依頼、ああ、複数で作ってるから意図が曖昧なのか。)

なんで大正9年で区切るのかな、と思ったんですが後藤新平以降は別の扱いなんだろうなこれ。
後藤新平はあれです、関東大震災の直前に都市計画をしてた人ですね。もう東京府知事じゃなくて東京市長なんだよな。
最終更新:2014年11月30日 13:31