内国通運会社(日本通運)


まず明治3年に東京の和泉屋、島屋、江戸屋、京屋、山田屋の5つの飛脚会社が家業合体して組織を作りまして。
翌年の明治4年発足の郵便制度に対抗しようとしたそうなんですが、実際のところ前島密(郵便の父ちゃん)はここと協力関係結んだんじゃなかったかな。

ここが明治5年に「陸運元会社」へと改名。
この時期に各地に作られてた通運会社との協力関係を締結。
のちのこの通運会社の政府命令による解散などもあって大阪陸運会社、北海道陸運元会社などが合併してるようです。
実際には代表的なところが名前挙がってるだけでもっとあったんじゃないのかな?
ただ、もともとが明治政府の強制で作られたため特に活動実績がなくそのまま解散したところもあったっぽいね。

明治8年に内国通運へとさらに改名されまして、翌年には定款、規約を制定。

明治7年の段階で東京-小田原間などに長距離馬車運行。
明治10年には利根川汽船輸送。
て、この会社たまに名前見てたな、日本通運の前身だったのか。

通運会社


ええと、この内国通運会社に吸収された側の会社なんですが。
明治3年5月12日に民部・大蔵両省の合議で「宿駅人馬相対継立会社取建之趣意説諭振」を採択。
この時点では東海道各駅に対してのものだったようです、駅ってのは馬置くところですが、宿の小さい版。
大雑把に宿駅制の解消を最終目的として盛り込んでいたようです。

ただこの2ヶ月前に「再改正法」っていう宿駅制の建て直しの法律もあったようなので、なんかしらの外的要因があるのでは、ということが言われてますが、まあ確かにさすがに短い。
この前後に鉄道政策決まってるんでそれかもねー、みたいにも言われてますが、それもありそう。

明治4年5月には前の「説諭振」を具体化した「陸運会社規則案」が駅逓司によって作成。これが全国版。
設立申請が各地から届く中で実行しようとしていたら7月に立案片割れの民部省が廃止されてしまい、大蔵省単独でやり直しー。
て、これ大蔵省が吸収してたと思うんだけど…手続きってこう。
鉄道にはまだ手を付けたばかり、宿駅制も財政上無理があり、ということでこの陸運会社はどうも半強制的に作られていたようです、どうも明治9年に解散させられてるようなんですが、どうも上の「陸運元会社」の経営保護のためらしいです。途中から完全に政府庇護下にあったのね、ややこしい。
最終更新:2015年01月12日 04:11