東京府(明治2年)


まず明治元年(or慶応4年)7月17日に「東京奠都の詔」が出されまして。
(この「東京」というのは東の京という意味で京都の対になる行政機能というニュアンスだったらしい。)
翌年の明治2年に行政改革に手が付けられ、「江戸→東京府」へと呼称変更。
どうもこの時点で「東の京」が東京という固有名詞になったみたい。

この東京奠都の詔が上野戦争が終結したあと。
慶応から明治へと元号が変更されたのが会津攻略のあとのタイミング、かな?

明治天皇が明治元年10月に1回目の「東幸」を行ない江戸の地へ、12月に一旦京都に帰還。
同年10月に江戸城が東京城と呼称が変更され、その後、皇城となったようです。
2度目の東幸で東京に到着したのが明治2年3月28日、そのまま京都に戻らず現在まで続いているのだとか。
どうも2度目が本番だったようなのですが、随分時間を掛けての行幸が行われたようですね。
(出雲国造である千家家への対抗とも言われてるらしいですし、始めての公開の政治パフォーマンスだったようです。)
で、その後、京都から東京への遷都をしたという公式発表は存在しないんだってさ、たまに聞くけど手続き的な意味だとマジっぽいねこれ。あくまで今でも東幸中ってことなのか。

行政機関としての「東京府」は南北町奉行所支配地を引き継いだ市政裁判所に替わって設置。
裁判所が行政機関ってのは不思議なニュアンスですが、町奉行がそういう仕事をする存在だったんだよね。
江戸の頃には町奉行の管轄である「墨引き」と寺社奉行の管轄する地域を足した「朱引き」が存在。
(基本的に墨引きの外側に朱引きがあるのですが、目黒不動の辺りだけ墨引き(町奉行)のほうが突出していたりとか、そこまで厳密でもないようです。)
どうも幕府が正式に市内を指揮ってる場合どっちかは微妙みたい、どっちのこともあったんだろうな。

この「朱引き」の内側がまず一旦東京府(第1次)という地域となりました。

で、その周辺に位置する代官支配地(幕府直轄地)や大名の旧領地(参勤交代の江戸暮らし時の住まい)などが武蔵県となった後に小菅県、品川県、大宮県へとそれぞれ引き取られたようです。
大雑把に現在の荒川区、台東区の上野浅草、足立区の千住西新井が小菅県。
品川区、渋谷や原宿、新宿などが品川県。池袋を含む豊島区や北区などは大宮県。
中野区や杉並区、南多摩の地域は神奈川県に、という感じらしいです。

確かこれ、品川県の(薩長の田舎)役人が(旧幕府天領の)農民に突き上げられて崩壊したんだよね…。

明治4年に「廃藩置県」が行われ小菅・品川・大宮の3県が廃止。
東多摩以外の北・西・南多摩はこの時点でも引き続き神奈川県に属していたようです、で、三多摩移管か。
この時点で朱引き内が6区、朱引き外が5区らしいんですが。
朱引き外の5区ってあれだ江戸4宿の品川・新宿・千住・板橋と今の葛西の辺りにあった直轄農地が加えられたってのがこの時点のことじゃないかな。この11大区の中でさらに小区に別れてたようです。

明治11年に三新法(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)が制定され、郡区町村編成法により東京府は15区6郡に。
麹町区(武家屋敷があったとこですね、今の都営新宿線の辺り)ってのを朱引きの中に入れ。
朱引き内を15区に。この15区時代ってのは時々聞くよなぁ。
15区は日本橋、京橋、神田、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川。
で、さらに朱引き外を荏原・東多摩・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾の6郡に。
(この中の南豊島郡と東多摩郡は明治29年に合体して豊多摩郡に。)
ついでに伊豆七島を静岡県から貰ってきたのもこの時点だそうです。

明治13年の時点で政府直轄地だった小笠原諸島が東京府に。
さらに明治26年の時点で神奈川県にいた「三多摩編入」です、これは多摩川の治水の関係ですね。

明治20年に市制・町村制が施行され、翌21年に「東京市」として名乗ることになるものの自治区としての権限はまだなく。
明治31年(1898年)10月1日に自治権を求める市民運動の結果市長を置くことに決まりました。
で、この日が「都民の日」なんだね、なるほどなるほど。

昭和7年に5郡82町が東京市に編入されて35区制、これも名前聞きますね。
帝都電鉄(昭和8年開業)が「帝都」電鉄になった理由なんだよん、とかも聞いたなぁ。

朱引きの範囲としては小さな単位でちまちま変わってたらしいです、地図とか鉄道単位だとたまに聞くし。
概念としての朱引きがあったのはいつくらいまでかなぁ? なんとなく自然消滅な気もしないでもないな。
最終更新:2014年11月30日 10:17