マリア・ルス事件(明治5年)


ペルー船籍のマリア・ルス号に中国から連れて来られた「奴隷」が乗っていて横浜港に寄港。
その件の調停に日本が乗り出したよ、というのが大筋の人権に関わる事件ですね。
さらっと流されてるけど明治5年って政府のごたごたごたごたの真っ最中だよなぁ。
なにしろ翌年が征韓論争だし、これいろんな複合要因の結果だしなー。

今のWiki先生(Wikipedia)だと正直イギリスと争ったー、みたいになってるんですが、なんだ、細かい経緯聞いてるとオフィシャル系の英国人やっぱり揃って味方してんじゃねぇか。
すんごく大雑把にイギリスが奴隷解放を目指してたのはアダム・スミスの建策もあってね。
(経済学の父ちゃんで英国のスコットランド出身だよ。)
かなり間すっ飛ばすと「奴隷労働って最終的に払う金のほうが多いわ」ということが理論的に語られまして。
ただし短期的には収益が上がるのは事実なので、この際、他国も一気に止めさせようとしたのがイギリスら・し・さ。
いや、人道的にもそこそこ偉いんだけどね、それが利益を侵害しないようにすんの上手いよねあそこ。

日本側の役者は土佐出身の大江卓さんだったらしいです。
国の方針だったっぽいのはやっぱりイギリスのバックアップがあったって見てもいんじゃね。

で、Wiki先生のと合わせるとマリア・ルス号にはイギリス商人の後ろ盾があったのかね。
ペルー船籍で、アモイで中国人にちょっといいバイトがあるよん、と言って船に乗せて奴隷にしようとしてたみたいです、というかそれはさすがにちょっと騙しすぎなような気もする。
ところが横浜に嵐で吹き寄せられまして、まあそんなことになったら普通に逃げるわな。
当時の神奈川権令だった陸奥宗光氏は「別にいいじゃんよお清国とペルーだろ勝手にすれば」と言ってるんですが。
イギリス商船はなんか起こってる、と通報してくるわ、乗り出した大江卓にはお雇い外国人たちが次々協力してくれるし。

大江卓って人は事件が始まった時点では神奈川県の参事官で、有名な人道家だったらしくて民部省時代に非人の解放令と人身販売の禁止と、あと商家の丁稚のただ働きの期間が短くなるようにとか盛りだくさんにいろいろしてたようです。
しかも陸奥さんが関係ないー、と言ってる間になぜか大蔵省に転任となり。
事件の最中に大江さんが神奈川権令となりました、そこはかとなく意思の介入を感じますww
(陸奥さんもそう思ってたっぽい。)

あと、結局押し問答で日本にくちばしを挟む権利はない、と突っぱねられたので各国領事に採決取ったんですが。
(横浜港が治外法権の一種だった関係ですね、条約未締結国に関しては各国領事の立会いが必要になるんだとか。)
フランス、ドイツ、デンマーク、ポルトガルが反対。
アメリカ、オランダが中立。
イギリスはまたここでも賛成してますね。
というかこれ多数決だったらここで話決まってるよなぁ、イギリスが各国の中で最強だったのもあるのかも。
他が反対したのは奴隷売買に自国商人が関わってたからという可能性もありますが、アメリカ商人とオランダは確か関係ないんじゃなかったかな? ドイツ…はよくわからない、奴隷売買も使用もしてた気がしないんだけど。植民地すらないよね。
というかドイツだっけこの時代というレベルで怪しいんですが本筋じゃないのでまあ割愛(本のままなのよ)。
(明治3年に成立してました、北ドイツ連邦はもう10年くらい前だったよ。)
それだけだと事態がわからないから反対、ルールにはそぐわないみたいなこと言ってたらしいのでただの性格かもw

ところで横浜にいる領事の会合のことをジェントルマンズ倶楽部って言ってたのか。
またの名を紳士クラブ、だそうです。

まあなんちゅーか、話を伸ばし伸ばしにしてる間にマリア・ルス号の船長が空の船で帰らざるを得なくなった、という実にイギリスっぽい感じの展開をしまして、日本の発想じゃないよねこれww
で、最終的にペルー側の申し立てによりロシアの皇帝アレクサンドル3世に裁可を仰ぐという展開になったらしいです。

したら「日本えらーいヾ(*´∀`*)ノ」みたいに終わりました。
誰に頼まれて引き受けたんだよ、その結論なら断るだろ普通ww お茶目な人め。

終わり☆
土佐人やっぱりなんか偉いような気がする!!
みたいな感じに〆ておこうと思います、おかげで結構しばらく清国(中国)からは感謝されてたらしい。
英国公使2代目のパークスさんが裏で頑張っていたというのは噂ですが。
証拠はないけど、この人は絶対こういうの表に出てこないからまあまあありえる気もするんだぜ。
最終更新:2014年08月09日 21:38