鹿鳴館(明治16年)


わりと、というかそこそこ知られてると思うんですが意外と期間が短く。

明治16年に竣工し、明治20年には閉鎖。
まあ迎賓館ですね、今で言う。
日本人にとっては始めての社交(&ダンス)を経験する場になっていたそうです。

その後「華族会館」になってたんだね、迎賓館機能は近くの帝国ホテルに移ったってのは聞いてたけど。
この華族会館も昭和15年には取り壊されたそうです。

ジョサイア・コンドルの設計で、あら、施工は大倉組か(今の大成建設だって)。

前に岩倉使節団と結び付けてる本を読んだんですが、それよりは明治9年からの井上馨の妻子を伴っての欧州視察のほうがきっかけとしてはしっくり来るなぁ、確かに。
この明治9年の時点では工部卿(>工部省)。
で、主な拠点はパリで半年くらいしか滞在出来なかったようですが、政治政変の知らせを受けて明治11年の頃には帰国、そこで外務卿の地位を与えられた、てのがこの施設作るまでの経緯ですね。
不平等条約の撤廃を目指すってのももちろんあったとは思うけどね。

まあ猿真似だと評判良くなかったらしいけど、国内向けの教化って言われると馬鹿にするのも恥ずかしい気も。
士族がもっとも神経尖らせてたのが男女平等って聞いてしまうとなー、ちょっとね…。
(華族は多分だけどそこまででもないんじゃなかろうか、明治天皇がかなりアレルギー酷かったらしいけど、はは。)
この時代を「鹿鳴館時代」とも呼び、女学校の制服が一時洋装になってたりもしたんだって。
明治20年の時点で閉鎖した時に自然に和服に戻ってたって読みましたっけね。

あんまり井上馨の評判も良くないらしいんですが、なんかわからんでもないw
最終更新:2014年08月05日 05:43