東京株式取引所


んーと、まず1873年10月(明治6年)に東京第一国立銀行が創設されたあとに株式取引所の設立が願い出られたもののこの時点では却下(三潴県の士族ってどなただろ、今の福岡県三潴郡)。
まだ法制度などが整っておらず、ということだったらしいです。

とはいえ、必要なのはわかっていたので1974年10月13日にまず「株式取引条例」が制定。
ただ、この条例で米取引所が作られたってあるんだけど…なんでだ、先物取引か??
ええと、江戸の頃から存在した米相場取引のためにこの株式取引条例を遵守したほうがいいって言われた、よう、です。
のちのちまで商品取引と有価証券取引が同一視された、と言われると、あー、なんとなく…。
さすがに米相場以外の実情には合ってなかったので今度は1976年8月に「米商会所条例」が制定。

だがさらにその米商会所条例と類似した骨組みで1878年5月に「株式取引所条例」が作られたそうです!!
こんちくしょう米しつこいwww
米取引所と違ったのは「取扱銘柄の資本金は20万円以上(米商会所条例は3万円以上)」、取引場所は東京と大阪に限定(1980年に解除)。
ちょっと待ってこれ、米商会所で他の有価証券売買を扱ってたフラグにしか読めないww

で、1878年6月1日に東京株式取引所が創立。
会社関係だとどうも西暦表記が多いので西暦で書いてるんですが、この1878年が明治11年。

この時点でこの東京株式取引所で扱ったのはまずこの東京株式取引所株。
で、新公債、旧公債、秩禄公債の4種類だったっぽいです。この3つは維新公債ですね。
しかし秩禄公債の流通価格が99.89円、旧公債が21.59円、新公債が65.62円って(額面は100円)。
新旧公債の値崩れっぷり半端ないなー、これ。秩禄公債はぼ満額か。
明治11年だと金禄公債(明治9年)も存在してるはずなんですが、個人取引が禁止されてたんだっけかな?

1878年9月(明治11年)
第一国立銀行、東京兜町米商会所、東京蛎殻町米商会所

1879年(明治12年)
大阪株式取引所、横浜洋銀取引所、第二国立銀行(現・横浜銀行)、第六国立銀行(現・富士銀行)

1981年(明治14年)
横浜正金銀行(現・東京銀行)

1983年(明治16年)
第三国立銀行(現・富士銀行)から第百三十二銀行までの登録15行。
て、ちょっとわかりにくいけど番号は出願順みたいです、認可受けた15行ってことっぽい。
(てかこのあとはまあ銀行は出来たら登録されたってだけになるんだろうね。)

てか銀行と米取引所と株式取引所株だけが延々と並んでますが銀行株以外の取り扱いがなかったらしく…、他の取引ってやっぱり米と一緒?! 東京と大阪以外は全て米取引所扱いだやっぱり!!
あいつ、米収集所の近くに普通に作ってた普通の取引実態あるのにー。・゚(゜´Д`゜)゚・。


その後の新規上場銘柄が別のところにまとめられていたので以下に。
なるほど、なんの年号かわからなかったんだけど金融機関以外の銘柄が現れた時期だったのね。

明治17年
日本鉄道

明治19年
日本郵船、東京瓦斯、東京馬車鉄道

明治20年
両毛鉄道、水戸鉄道

明治21年
甲武鉄道、山陽鉄道、関西鉄道、内国通運、利根運河

明治22年
九州鉄道、築豊興業鉄道、碓氷馬車鉄道、尾張紡績、東京毛糸紡織、北海道製麻、札幌製糖、日本麦酒醸造、東京電昆、鐘淵紡績、三重紡績、東京紡績、東京湾汽船、日本セメント、東京板紙、日本製鉄

明治23年
北海道炭鉱鉄道、日本運輸、日本燈布

ていうか明治22年もしくは明治23年ってどうして一区切り的に扱われてんの??
(本の方針なのかな、と思ったんだけど、説明がないんだよなぁ。)
最終更新:2014年09月28日 02:59