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工部省(明治3年)


明治3年閏10月にエドモンド・モレル(英)の建策にて設置。
(当時はまだ旧暦なので「閏月」というものがあります。)
他の説もあったようですが、こっちのがそもそも旧来説だよね。

ここの沿革史が大蔵省から出てるんだけど、なんか複雑な事情があるらしく…。
正直複雑すぎて知らん!!
内務省のほうがあとに作られてるんですが、内務省の指揮下にあるんじゃないのかなぁ、多分。
(しかし内務省の土木寮も大蔵省から内務省に移されたらしいしもうわからん。)
重工業が工部省、軽工業が内務省のそれぞれ産業新興って分担していたらしいです、微妙に曖昧だけどねこの辺。
港湾や道路なんかに関しては内務省が作ってますね実際。
どちらかというと明治初期の頃に数少なかった建設がわかる専門家を一時的に一箇所に集中させておく必要があったって認識すべきなんじゃないかなと。ただ、初期の頃はやっぱりレベル高くないかも。

で、どうも鉄道建設がメインだったようです。
えーと、まず明治3年(1870年)3月1日に民部・大蔵両省に鉄道掛を設置。
(事務局は東京築地の旧尾張藩邸だって、なんか書いてあってね? なんでだろね。)
そういや、大蔵省が民部省食っちゃったのいつだっけ…。

この鉄道掛が工部省の発足と前後して移管。
翌年明治4年8月に鉄道寮へと改称されて初代鉄道頭として井上勝が任命されたそうです。
明治10年1月11日には鉄道局へ、この流れは基本的に昇格って考えて良さそうですね。
この間に一回鉄道寮の移転に伴っての井上勝の下野とその後の復帰があったはず。
(京浜間路線を作ったのち、京都と大阪に東・西鉄道寮を一つずつ置いたのだとか。)

明治18年には工部省が廃止されて、主に逓信省と農商務省に分割されたってあるよ(Wiki先生とこに)。
ていうかやってることが実務に近いので結構あちこちと管轄がぶつかるっぽい。
鉄道寮、鉱山寮、灯台寮、電信寮、造船寮、だったかな? 確か5寮あるんだよね。
大蔵省の造幣局もここに属するって話があったようですがこっちは取り止め。
政治的な問題で語られてますが、少なくともあっちは技術的な意味で自前でやってけたって前提はあると思うよ。

鉄道以外の分野については基本的に民営化していったようです、時々明治政府で聞く払い下げがこの辺ですね。
鉄道に関しては逓信省へと引き継がれたようですが。
民営資本の導入ということは基本的に行われてますね、鉄道院の発足の辺りで鉄道建設資金がやっと公債(借金)と決定したんですが、それまでの間だいぶ迷走しています。
(明治8年にも京浜間鉄道の華族への払い下げ計画があったらしいんだけどね。)

この工部省では明治4年に工部大学校が作られてこれは現在も東京大学工学部として残ってるみたい。

んーと、明治4年に技術見習生の制度を決め、同年9月に工学寮を作り、翌年明治5年に工学校を設立。
工学校は大学が明治6年8月に開校。
大学に入るための予備講義を行う前提の小学校が明治5年2月に開校(明治8年6月に廃校)。
これはどっちかというと別の教育機関がそのあとを負ったんでしょうね。
大学は就学6年間で、土木、機械、造家、電信、化学、治金、鉱山の7科。
明治8年1月工学寮廃止によって工部大学校と改称、そこからさらに「帝国工科大学」となったようで。
これが文部省に引き取られた時の状態だろうな、工学寮とは両立してた時期もあったのか。

あと、大蔵省と民部省の権限争いみたいなところから、とりあえず技術部門は独立させておこうみたいなのもあったっぽい。
独立前後には長州派vs薩摩派って認識していいのかなぁ…。
このあとくらいから、結構ごたごた関係が錯綜してくからわかりにくくなります。
で、この工部省もどっち派とも関わるし、案外どっちとも揉める時は揉める。
創設時点では長州寄りではあるみたい。まあ開明派って呼ばれてたのがそっちみたいだしね。