東海道(江戸五街道)


江戸五街道の一つでメイン街道、大名行列が一番多かったし明治以降も海外向けにも公道扱いだよね。
古代東海道(>七道駅路)とはルートは別です。
というか東海道は時代時代で経路を変えつつ「東海道」として認識され続けてきていたんだって。
江戸五街道の中では東海道、中山道、甲州街道が西とつながる道です、まあどこまでって言うと面倒なんだけど京都とか大阪とかあの辺が上方っていうか、江戸の場合も日本橋基点だけど実際は違ったりするしね(市内の経路曖昧だし)。

中山道は姫街道と呼ばれていて、女子ども向けだったらしく、東海道のほうが道程がキツかったようです。
川が多い分渡しが多くなるせいかなぁ?(基本的にここは受け売りメイン)
甲州街道は中山道と合流するんだけどそもそも徳川の私道って言われてたしな。

しかしこの街道沿い、わりと関東寄りはなんか知らんけどびっくりするほど揉めてる。
街道ってのがそもそもそういうものなのかもしれないんですが、他のところは連帯の上での内輪揉めっぽいんだよなぁ。

渡しや宿同士のいわゆる訴えだけでも結構な件数いってて、記録に残らない小競り合いがどんなものか見当が付かない。
まあ結構な距離を今の神奈川県で通ってるのでひょっとして今も神奈川の地域同士が微妙に揉めてるのそのせい? みたいな邪推してしまう。
ところであの、明治初期の頃に街道に通運会社を作った時も、馬車会社が出来た時も記録にないんですが…。
東海道沿いが一番発展してるって認識だし、そう言われてるのでなんでだかわからない。
わざわざ、政府主導で作るまでもなかったって意味の可能性もあるかなぁ。
なにぶん通運関係の資料はまだ齧った程度なのでなんとも言えないです。
時々鉄道系の人が「東海道には水運があるからそっち優先でいいだろ」って言ってるのでそこの部分かも。

一の宿が品川、多摩川を越えて次が川崎、次が神奈川、という順番なんですが。
品川はもともとは江戸以前は東海道が通っておらず、日本橋基点にした時点で初めて東海道の宿として制定され(要するに人工的に作られたと見るべきなのかな?)(近隣に江戸幕府が連れて来た漁師が移住した村とかの話は聞くよね)。
川崎は実はもともと宿ではなく、川崎大師くらいしかなかった、と語られていたんですが、てことは川崎大師のが先なの?
参拝のために宿が求められて作られたっぽいです、マジかー。
多摩川の渡しなんかも出していたのかもね(どこかの宿が請け負うことが多いです)。

で、続いてが神奈川宿。
これは神奈川湊(港の古名)とセットになっていたらしく、幕末の頃にそもそもこの神奈川湊を外国に開放するのが嫌で当時は漁村だった横浜のほうに横浜港を作ったって経緯らしいです。
ところがどうもなにもなかったことが好都合に働いたらしく、神奈川湊を国内、横浜港を国外と使い分けようとしたものの便利な横浜港に内外商人が集まってしまい(日本と外国の商会の取引もあったろうしなぁ、まあ一緒のが便利だわね)、神奈川湊が衰退してったと語られていまして、あー、となんか。
神奈川県と横浜市ってこう、最初からそういう構造なのね…。
今の時点で把握してるのはここまでなんですけど、一つの宿場を見るのに1~3冊くらい消化する必要があるっていう(ここまで3宿がすでに全く別ジャンルの本だし)。
最終更新:2014年11月05日 14:49