横浜正金銀行(旧)


その後、というか戦後にGHQががじがじ齧って「東京銀行」になったけどそのあとは知らん。今はUFJ組だっけ?

明治13年(1880年)創設。
えーと、国立銀行条例で作られているみたいです。
てか、明治12年に国立銀行153行が出揃った直後ですね? よく見たら。

福沢諭吉らが「貿易商会」とセットとして作ってた、これで固有名詞です。
とはいえ、そもそも下手すると日本語の訳語そのものを作ってた人たちだからなぁ、福沢諭吉(in慶応義塾)。
正直なところ来歴からして特殊銀行として作られたものだと思ってたのでびびる。
(日本銀行の海外窓口みたいな役目を負ってました。)

てか、やっぱり特殊銀行になったのは明治20年に「横浜正金銀行条例」が作られたあとなのね。
ただし、最初から政府の側で資本金の3分の1を準備金(御差加金)として銀貨で用意したり、30万円を国庫から預金し「御用外国荷為替」として融資用としたりと、いろいろしてますね。
この横浜正金銀行が養蚕の資金(蚕の卵買う時点で巨額が必要になる)を融通するようにと指定を受けている、と聞いたことがあって、どういう方法で融資しているのかちょっとわからなかったんですが、どうも地域の銀行に特別融資をし、そこから養蚕業者への担保なしの貸し出しをするような間接的な形で行われていたみたいです。
その資金源もこの辺だったのかもねぇ。

んー、他に井上馨なんかも名前が挙がってたんですが、てことは資金源は三井系ってことになるのかしら?
あ、違うみたいね、丸屋商社(丸善)や第八国立銀行に関わった中村道太が中心人物っぽい。
丸屋も福沢門下の人によって作られているのでわりとわかりやすいかも、貿易商会もこの系統って見るべきか。
どうもこの丸屋の経営不振があって福沢諭吉らを騙して起死回生策としてこの横浜正金銀行を作った、とは言われているものの、明治12年の段階で国外との取引してて成功してる事業者なんてそれこそ数えるくらいしかないしなぁ…(西洋と東洋の商売気質の違いのせいというか)。上手くいかなくても別に普通というか知らないってこともなさそうというか。

ちなみに貿易商会はそのうち政府方針に振り回された挙げ句に潰れたとか、不憫。

その後、どうも明治14年上期くらいから経営不振になっていたらしく。
安田善次郎などが日本銀行理事の立場として建て直しに関わったようです、あくまで個人伝記で読んだのでだいたいそういう場では役目が拡大されてたりするんですが、4つの方針挙げてその2つが実行されてたら確かに主導って言っていいね。
日本銀行との合併案などがあったとも聞いたことがあったんですが、それもこの実行されなかった救済案ぽい。
とはいえ、養蚕の不況は経営手腕とはまた別の部分もあるし、融資条件が特殊なものを日本銀行が直接関わるよりは、別働隊の横浜正金銀行に任せておいたほうがいいって判断もわかるかも。
もともと作られた母体が慶応義塾関係な分、勇み足なんかもあったって言われてるんですけどね。
正直、安田善次郎やその研究者から見たら甘ちゃんに見えても、慶応義塾系のビジネス人材結構多いしなー、ちょっとその評価に関しては鵜呑みにしにくいかも。上でも触れてますがむしろ欧米では日本式の賄賂や誤魔化しが嫌われて苦労してた時期なのよね…、そういう意味だとマシだったからねー、この一団。
最終更新:2015年01月14日 04:47