内藤新宿


大雑把に現在の新宿駅の土地。正確にはちょっとズレてる。

内藤さんてのは江戸幕府のわりと偉い人で「宿場を作りたいです」って言ったら土地売ってくれました。
今も内藤さんはここの近所におられます、お殿様たちは幕末に逃げたり帰らされたりしていて、わりと珍しいケースっぽい。

甲州街道の一の宿、つまり日本橋基点で最初の宿。
もともとの一の宿だった高井戸宿が遠いからって理由で新設されました。
新宿ってのは「新・宿」で見た目通りの意味です、近代以前はあっちこっちにあるよ。

当時は宿場というのは街道を維持するために存在しており、その維持費のために治外法権が一部認められ。
本来ならば公認の土地でないと存在しない遊郭めいた女がいることが半ば黙認されていました。
(本当は人数が決められていたものの、なまじ半公認なので誤魔化しやすかったみたいです。)

が、甲州街道はそもそも微妙に一般の旅人がおらず(東海道か中山道)、そもそもこんな位置で泊まることもねぇだろ、みたいなことは当時から言われてたようで作られてから一旦「大概にせぃよ」って潰されました。
品川宿のほうがもっと女の数とか多かったのにー! という意見もあるみたいですが、前後考えると妥当じゃね?
ていうか、浅草の商人が発起人になって作ってる時点で、あれだ。
当然のことながら規模的にこの近隣で一番の町だったので多摩の盟主に、的な話が出たものの。
「あんなん市中と変わらないよ、風紀の点で問題があるよ!! 中野がいい!」という感じにまとまったようです。
これも前後考えると無理もない気もしますし、街道の管理もしてたようですが、近くの住人から通行税を巻き上げたりしてだいぶあれだったみたいです、そうね、余所者みたいなもんだもんな?
顛末がどうなったかわかりませんが、中野ってあれです、今も中央線沿線の駅のあそこです。
甲州街道沿いはそういう名目で一応集ってたっぽい。
微妙にその辺の地域性が近代以降の鉄道の形成(中央線と京王線)に継続で反映された可能性があるような。

追分まんじゅうの追分は要するに街道と街道の合流or分岐点。
甲州街道と青梅街道が合流する地点が「新宿追分」ですね、今の地下鉄の新宿三丁目駅がわりと近い。
その辺が江戸の頃からの繁華街で、実際のところはJR(←国鉄←省線)の駅は外れに作られましたが。
そもそも駅が出来た頃にはたぬきがいたよー、とか西口の辺りは浄水場だよー、とか、そんな感じなので気にしないで下さい。
当時は蒸気機関車なので火花出るんだ、古い写真だと結構散ってます、今のSLはだいぶ性能が良くなりました。

大雑把に甲州街道が京王線、青梅街道が西武新宿線になります。

中央線の経路は気にするな、真っ直ぐだけど田んぼの中に突っ込んでったので線形がいいわけじゃないんだ!
(だから京王線のほうが強いのはそもそも当然なんだよ、もともと道が基準になってるから、ぐねってるけど下手すると高台。)

そういやそもそも甲州街道を通る大名行列が3藩しかなかったらしく。
(いやまあそもそも甲州街道沿いが直轄地だからそれ自体は無理もないんだけど。)
まあ泊まることも位置的にそうそうなかったんで本陣がなく、泊まりの事情で急遽本陣が指定されてました。
脇本陣(大名以外も泊めていい)ならともかく、本陣が持ち回りなんて始めて聞いたわww
あ、でも大名行列は儲けがどうも出なかったらしいんだよね、東海道なんかでは一般旅客を掴まえようといがみ合ったりしてたようです。地方の名家ってニュアンスで本陣って呼ばれてたりするのたまに見るけど、そうでないと維持出来ないって意味だろうね。なんらかの特権を持ってたってことかもなぁ。

ということを考えてもつくづく内藤新宿って普通の宿じゃねぇよな。

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最終更新:2015年01月12日 05:46