雑記:文或と近代もろもろ、153


5月8日めも。


2019年の『文豪とアルケミスト』のゲームキャラ言及、多分全員版、目指せ全員、みたいなやつです【幸田露伴】先生。
あと紅葉先生だけ先生呼びしてるんですけどね(そんなに一般的でもない)。
どっちかというと逍遥さんとか鴎外さんとかを先生呼びするほうが一般的かなー、と思えないでもないものの、個人的には先生に求めたい資質がこっち寄りなのでこういう感じとなっております。
というか逍遥さんと鴎外さんはどうしてもガチの先生な分、明治の世相にがっつりとぶつかってく感じがあるのよね、良いとか悪いとかは全く無関係な話なんだけどね。

で、まあ、高等学校相当の中学校に行ってる時点で躓いてしまい、その後を専門学校に行くことになってしまったことにより、「中学校すら行けてない」と認識されている本を読んだことがあるのですが、露伴先生が行ってたのはあとで高等学校にスライドした学校だよ?! とか学歴が低いことをコンプレックスに思っていたという逸話も確かにそう捉えるのが妥当な時期は実際にあるけども。
京都帝大の教授としての学歴が足りないって話だよあれ!?
「帝大教授として」を略すの止めようよマジで!! となる所存…。
多分これ、180度とまでは言わないけどほとんどそれに近い勢いで違うよね、てか、露伴先生の時代には東京帝大しかないので専門学校が高等教育じゃないとか言われても困るあと、マジで中学校じゃなくてのちの「日本で一番受験が難しい学校」だよ。
紅葉先生とは同い年だけど2学年早いので、まー、うん、ドロップアウトしたら即座に学費がなくなるお家だったんだろうな、という認識になるかな…。


5月9日めも。


キャラ言及2019年ー、で、【尾崎紅葉】先生。
まああれですね、「紅露時代」ってのがあるから並べるというのもあるんだけど、私はもともと紅葉先生のことは露伴先生の随筆で知ったということもあります、『座談会 明治文学史』という本にて年取るたんびに紅葉先生のことを甘い感じで語っていたというガチの知り合い(だいぶ下よもちろん)の編集者たちの言動を聞いて改めてこう。
生前逃げ回ってたのはどういう了見かと聞きたい。
いやまあ、目に見えるようなタイミングで本当に露伴先生逃げちゃうんだよね、作品を見せたよ、と別の知り合いに言われたら原稿破るとか、紅葉先生との対決の場が設けられたら体調崩すとか。
読売新聞に紅葉先生と露伴先生で一緒に呼ばれたらとっとと別の新聞社から出してる雑誌に鞍替えするとか。
露伴先生一応硯友社にも加わっているんだよ、しかし、活動なんもしてなさそうとか。
一個ずつはちゃんと他に理屈があるんだけど並べるとどう見てもねぇ、ほら…。
傍目に正直嫌ってると見えもするんだよね、どうもそれ心配してたのか仲裁めいたことしてる人もいたみたいだし、で、冒頭に触れてた『座談会』に話を戻すわけだよね、いくらなんでもこう、そこから晩年に近づくにつれて甘くなるかなぁ、と。
生前から好意寄りの感情だったと見るのが無難って気もするんだよね。

ただまあこう、あれだ、紅葉先生は多分そのことを知らないし、弟子たちもどうなんだろうねこれ、みたいなことになるんだよな。
あと多分この話去年もしたよねすみません、他にもネタはあるんだ他にも。


5月10日めも。


文アルのキャラ言及2019年版、【泉鏡花】さん。
あれですね、あとこの人の大型イベントが来たら全体的にバランスがいいんじゃないかなという気もするんだけど、内容がさっぱりわからない(文アルにはコスプレっぽいイベントがたくさんあるので、鏡花さんの場合はそっちへの登場もないという意味でちょっと偏ってるんだよね)。
というか私、鏡花の最盛期のことをよく把握してなかったんだけど「残酷小説/悲惨小説」の時代の寵児ってことになってるのか…。
(硯友社時代の紅葉先生死後のち、硯友社の作家を含んでのブーム、鴎外さんが非難してるのもこれなんだな、どうもちゃんと把握してなかったよ。)

まあこのブームの理由はあんまりちゃんと分析されていませんが、歌舞伎なんかも同じようなブームあったらしいんでそっちだとなんか語られてないかなぁ、難しいかな。
あれですね、『外科室』とか『夜行巡査』辺りもそれになるんだなー、まああれ、ブームとは別物だと呼び名を変えたりもしてるようですが、「観念小説」って他でもなんか聞いたことある気がする。
私は基本的にその手の小細工は好きではないんですが、残酷小説扱いされるのだけは嫌ってのはわからないでもないんだよな…、だってこの手の時代、残酷であればあるほど芸術性が高いって捉えられててストーリーがまともに形成されてないんだもん…。
ただまあ、やっぱりこの時代の中の数少ない傑作であって、唯一次の時代に残ることが出来たっていう形で語ったほうが無難かなぁ、という気もしてる。
血しぶきが激しければ激しいほど傑作じゃないんだよって、重要だよね。


5月11日めも。


文アルのキャラに一回は言及してみよう2019年版、【徳田秋声】さん、去年は自然主義と硯友社で二回分書いてしまったわけですが、うんあれもなんだ。
そもそもどうして自然主義作家分類になっているのかわからないー、みたいなことを呟いていたのではないかと思うんですが、そもそも紅葉先生の四大弟子の中に青春小説にて名前を馳せた(通俗小説の小杉天外さんとだいたい並べられてる)風葉さんて方がいまして、この人が自然主義へと転身し、その時に秋声も連れて来たのが理由だってさ、てか、この人の弟子としてカウントされる真山青果さんが自然主義なのも別に全く対立とかしないわけね。
ただ、風葉さんの手慣れたプロ作家の文章にて若者の性を取り扱ったことで「風俗小説」としての扱いを受けたらしいです、あー、見た見た、少年が読もうとしたら駄目! と取り上げてる貸本屋のお姉さん。
文章と題材の相性が悪かったと言えばまあそれまでなんだけど、この時代ならではって気もしないでもないなぁ。
が、秋声の場合は幸いにもそんなことはなく、なんとなくぱさついた文章にて無事に自然主義作家として認められることに相成りました、みたいな。
真山青果さんはどうなのかというと(白鳥さんの同期、自然主義隆盛時代の最後の二人)、まああれ、なんか説教臭い感じの作品だったので無事だったそうです。

そしてそのあと、独歩さんの関係者面して臨終の実況中継などを行った首謀者として、風葉さんは花袋から、翻って自然主義文壇からはすっかり嫌われたとかなんとか。
それで秋声が謎の移動したみたいになってるのね、面倒だよな文学史。


5月12日めも。


文アルのキャラ言及、【田山花袋】さん、あれですね、藤村を先にするのかちょっと迷ったんだけど、実際のところはどうなんだろうなぁあの辺。
というか、花袋の『蒲団』から「日本自然主義」が始まったことについては多分異論とかはないと思うんですが、よくよく考えてみたらその前の時代になる「残酷小説/悲惨小説」のほうがなんぼか本家自然主義に傾向は近くない? とならないでもないな、まあ、一種の社会小説として括られていたりもしないでもないけど。
(小川未明さんの小説が残酷小説に近く、社会小説でもあるという括りにするとわかりやすいんじゃないかなー、社会主義小説分類にする人もいるけど、まあ近いとは思うけど違うんじゃないかなぁ。)
花袋の『蒲団』は本家の流れとは違うものの、自分の弱さを認めるキリスト教の告解みたいな精神があるとも言えなくもないんだよな。
それを垂れ流し性欲小説って言われるとさすがにちょっと…(性欲を感じることへの罪の意識と、性欲礼賛万々歳!! は別物だよね…性欲肯定の作品群は「生命主義」という分類になるらしいんだけど、これは女性の性欲も認めるのでまた違う)。

私は花袋の作品は正直ありだなと思うんだけど、ぶっちゃけてちゃんと我慢してるからなんだよね、性欲を感じたという段階の苦悩を描いてるし、個人的には全く性欲垂れ流しには見えない。
そして自分の妻が古いタイプの女だということをちゃんとわかった上で、彼女に新しい女を期待したし、そのことも若干悔いてる。
同時代の男たちが垂れ流し小説だと見たことは、全くありではないですね…。


5月13日めも。


文アルのキャラ言及、2019年の【島崎藤村】さん、ところで今名字をど忘れしてたんですが、名前が名字っぽいけど意外と間違えないよなこれ。
個人的には『破戒』を自然主義と呼ばれると、あーと、本家自然主義かな、ていうかやっぱりこれも社会小説って呼んだほうがいいんじゃないのかなとかいろいろ考えるんですが、ぶっちゃけると新潮版の解説の人の言うように社会問題に対して真摯にぶつかっていったというよりも、そこに迫害意識さえあれば題材をなにと取り換えても成立するような、吸血鬼辺りでもいけそうな感じの作品ってことを考えるとうーん、ともなり。
だがしかし、だからこそ、本来ならば小説を読むことが難しい層の「部落」の人々ですら読むことが出来るような軽い作品になったんだよねー、と言われるともうなんだ、社会問題を取り込んだ小説とは本来どうあるべきなのかという、ずっとあとの時代のプロ文のジレンマみたいなところに辿り着いてしまうわけなのですが。

他人を思わせる設定にしておきながら(該当者が一人の特徴とか平然と挙げてる)、自分のした不倫をそのまま作品に盛り込むようなあとの時代と比べるとだいぶんマシかなというか、なんか全体的にしっくり来ないんだよなぁこの人。
あのねー、イラストは上手いけど漫画で読みたくないみたいな感じ。
文章は上手いけど小説で読むと単純にクドいし、妙なところで足掬われる感じ。
ただこの、なんとなく逃げを打ってるような作品の構造そのものが当人の血に流れる狂気との戦いのためだと言われたら、それが駄目とは…思わないな、作品としては好きかどうかは人に任せるけど、その戦いは立派に戦い抜いたとも思う。
好きか嫌いかで言うと嫌いだけど、花袋への好意は好きかも、自然なんだよね。


5月14日めも。


文アルのキャラ言及、自然主義でまとめております、【国木田独歩】さん。
ぶっちゃけるとどの小説でピックアップされたみたいな話がなんかもごもご曖昧だったりしたんだけど、要するにあれね、小説が注目されるようになったんじゃなくてご当人が別の分野で有名人になったために短編集が売れるようになったあれだ。
で、その文章が独特なので高い高い評価を得ることになりました!
みたいな感じで言われていることもあるんですが、少し古い本を読んでいると独歩さんが持ち出された時に一歩引いて「どういうニュアンスで持ち出してますか」と語っていたりするので一時期非常に持ち上げられた気配が若干残っていたりしますが。
多分ねー、小説の独特の読みにくーいあれが、ほとんどない新聞記事みたいな感じの文章が受けたって話なので、あんまり気にしなくてもいいんじゃないかな。
文体で言うと多分藤村なんかとは真逆なんだろうなぁ。
(あ、藤村は詩人だけあって読みにくくないです、単純に無駄が多い文章が延々と続くのでいらん疲労を感じるだけ。)
あくまで個人的な評価としては文章はいいと思いますが、神の概念を取り扱うのにこの散文形式なのはちょっとなー、とはなるかな、ちょうど里美のとんちゃんの逆だな。
ただ、同時代においてめっちゃ斬新!! となったところは別に疑わなくていいんじゃないのかなぁ、円朝の落語を文章に直したみたいなところから始まった言文一致とか、どう考えてもまだだいぶくどかったろうしね…。

そしてその価値が現代人には一切わからないのも、まあ別にいいんじゃないかと思う、要するに一般的になっちゃうと価値が見失われるんだよね、先駆者ならでは。


5月15日めも。


文アルのキャラ言及、【正宗白鳥】さん、どっちが名字かどっちが名前か忘れてるなんてことはありえないよ面識があるから! みたいな言い回しを聞いたことがあるんですが、いやこれ、友人じゃないと普通に忘れんだろと思わないでもない。
知人なら覚えてあげてねもありだけど面識なら忘れても仕方ないじゃろとしか。

そもそも悪い印象がなかったのはこの人が菊池さんを認めてくれたので成功出来たからとか、選挙の時に応援に来てくれって頼んだら「直接頼みに来るなら会う」みたいに言われて菊池さんが訪ねてったらすっっごい照れてたとか。
待て待て待て、相手は超売れっ子だけどさすがに白鳥さんなら格上じゃんww となったりで別段苦手に感じる要素がなく。
この人の批判しか残っていない部分もあるんだけど、この人ってある一定以上評価出来る相手にしか批判しないんだということに気付いてから、まあやっぱり特に悪い印象になる要素とか増える余地がないよねともなるんですが。
(闇雲に嫌うこともあるし、それを相手に直接出してしまったりはするものの、文壇に影響のあるような公の場所で示したりはしない、その時点でいい人だわ、あ、漱石さんの絡みでです、最初に評価出来る作品書くまで批判もしてないんだよ。)
ただまあ、趣味はあんまり合わないので作品読む気があんまり。
いわゆる「純文学らしい純文学」が好きなんだよねー、不幸な環境、ルサンチマン、従順な女、周囲の不理解みたいなの、で、作り話だと駄目だと言っているわけではなく日本人の今の段階では作り話ではきちんとした小説にならない、と言ってるんですよ。
まあやっぱり好みは合わないんだけど、白鳥さんの褒めた作品なら食べてもいい。


5月16日めも。


文アルのキャラ言及、ええと【岩野泡鳴】さん、で、漢字変換出来ませんでした、個人的には白鳥さんが高く評価してなかったら知名度危なかったな、と思わないでもないんだけど、そういや自然主義以前の経歴とかあるのかなないのかな。
白鳥さんには申し訳ないんだけど、正直なところ自然なままの態度には全く見えておらず、他人の評価を気にしていない人の言動ではないんだよねこれ。
ただ、実際のところ「世間並みの名誉」に興味がなさそうだったり、利益を理由もないのにぶん捕っていくとかそういう気配は確かにない。
まあ事業資金として用意されたお金に関しては遊びに使い尽くすことが全く違和感がなく(実際のところ時間待ちが多いのでそういう使い方もありではある)、結局何一つ操業に至ることがなくそのまま廃業していたので、なんだろう、分別は確かにない?
ぶっちゃけ仕方ない事情で待たされる期間などがなければ(こっちも当人のせいでもなかったみたい)、普通に工場でやっていけたのではないかな、と思わせるところもないでもないんだよね。
普通に俗物かと言われるとそういうわけでもないみたいな気がするし、名誉欲も普通のものは備わってなさそうなのでそんなに嫌うものでもないというのもまあわかる。

ただなんかたまに妙なこと言うんだよね、自分はちゃんとやってるみたいな、なのになんで評価されないんだとか、この人は自分の半身だ、みたいに有名人のことを見てたり。
あれ、あの時代に流行ったっていう英雄物語の真似じゃないかなー、とふと思ったんだよね、「豪放磊落」に振舞うといつか成功するみたいなやつ、成功するはずなのにって延々と思いながらずっと演じてた人ではないのかなぁ、と、まあ作家としてはありだ。


5月17日めも。


文アルのキャラ言及、【永井荷風】さん、昔から荷風さんを嫌いな人も好きな人も街歩きの雑誌や本でよくよく拝見しておりまして、賛美の人はまだしもちゃんと土地の話をするんだけど批判の人は知らない相手への罵倒を延々読まされるとしか言い様がなく、しかもマイナー気味な土地のところでばっかりやってくれるので「批判者」への印象のほうがずっと悪かったような感じなんですが。
どっちかというと最近なんとなくわかってきたような気もします。
なんというかこう、全体的に「なんちゃって」なんだよねこの人って…。
あとマイナーめな土地のところにこそ賛美するみたいな気質なんだね、ううん。
正直、こんなこと言ってるんだよな、この土地に、みたいなことを我慢しいしい語って欲しかったというところまでですね。

ただまあ、全体的にいまいち粋人ではないところとか、なんとなく生半可だったりすることは作家としては別段にマイナスというわけでもないだろうと思わないでもないんだよね、ぶっちゃけ粋人て言えば露伴先生がそんな感じだけど、あの人は旅人に玉露出すんだよ温いし薄いんだよ味がわかる相手に出せよ…、みたいな感じに語られたりするわけじゃないですか、玉露の味がわかる人でもそんな気持ちになる。
荷風さんはぶっちゃければ自然主義の人たちが軽く欠落してった感じの時代においてもご当人の資質で十分庶民受けすることが出来るというか。
まあなんだうんそういう感じの。
高尚ぶることが必要なのも庶民受けのため、と考えるとある意味素で完璧なんだよなー、荷風さん、まあインテリは嘘くさいと嫌うし、欺瞞ごと愛する人もいるし。

(文或と近代もろもろ、153)
最終更新:2019年06月21日 16:38