雑記:文或と近代もろもろ、149


3月29日めも。


リアルタイムは6月7日、去年もやっていた【文豪とアルケミスト】のキャラ全員言及を今年もやりたいと思います完走するかどうかは知らないけど、適当に手を抜きつつ、来年に至るまで突入するという「いい加減さ」を貫きたいと思います。
継続に一番大切なのって習慣性もしくは適当さだよねやっぱり。
去年はがっつりと秋声さんで重複(自然主義のところと紅葉先生関係でやらかした)してしまったので、今年は一応メモを取りつつ行こうかと思います。
んで、半分以上越えてすらすらと出てこなくなったら今誰書いてなかったかな、みたいな総点検の形でいいんじゃないかな。
あとあれ、菊池さんの『文学全集』を現在読んでいるのでそれがだいたい平行することになるんじゃないかなと思います、てか、さすがに最初の1回だけはキャラに被るの良くないなと思ったものの、もう特に書くことがない、しかして、半分程度にめり込んでいるってのはさすがにここから始めるのもなぁ…、ともなるし。
そういやあれ、去年全く情報がなかった碧梧桐さんの本は借りてきてあります、まあ、わかる人から書いてくつもりなんで、まだしばらくは出てこないだろう(借りて来たけどまだ開いてない状態)。

他にも地味に把握出来てない人とかいると思うんですけどね、まあ、去年書いてて「おおう全然わからない」となった人からでいいかなという気もしないでもないんだけど、あれです、サッチーとか、吉井さんとかかな、介山さんなんかは調べてる人は難航しているらしいものの、私は地味に資料があるからいいんだけどねー。
あと、少し詩人勢の本でも読むかなぁ、出版社系の本だと全く見ないのよね詩人。


3月30日めも。


文アルのキャラ言及2019年版、【菊池寛】からです今年も、芥川が二番目なのも一緒であとは適当に考えていこうかなと思います、よく考えたら芥川賞まで込みにすればこの辺が重要でもあるな、とも考えたものの、それ以降の重要度を細かく設定していくのはかったるすぎるのでなしです。
とりあえず比較的最近の収穫としては「新講談の文壇側への働き」みたいな雑誌の試みが存在しており、これに菊池さんが参加していたこと、それが大正9年の中頃だった辺りがありますかね。
新講談ってのはまあ大雑把にレベルの低い歴史ものみたいなやつです。
(もともと芸人さんが寄席で行うものであって、それを速記で書き起こしたものが雑誌とか新聞によく載ってた、最初から作家が書くのが「新講談」、ここから少しずつ大衆小説となっていった感じ。)
今まで把握してなかったんですが(菊池さんの創作活動はそもそも誰も全部把握してない、菊池原作映画の年表すら完全じゃないって断ってた)、これ、ちょうど最初の長編新聞小説である『真珠夫人』のちょっと前なんだよね。
この真珠夫人はわりと新聞小説そのものを変えたと言われています。

つまり通俗小説と大衆小説の本格的な発展に関わった年が同じ、ということに。
まあ大衆小説に関しては菊池さんは裏方に回る感じなんだけどねー、こう言ったらあれだけど、菊池さんの歴史作品は普通に長編には向かないと思う。
この時代の長編というものが「大衆化」にとって一番大きいファクターだったということを今後調べていけるといいと思うんですけどね、芥川も長編目指してたよな。


3月31日めも。


文アルのキャラ言及今年版【芥川龍之介】、ところでどっちかというと菊池さんの関係の調べ物のつもりなんですが「純文学」という言葉を最近ちまちまと調べてまして、まあ、言葉の定義なんてわりと個人個人のものだろうし、ぶっちゃければ現代人だってこの言葉の定義はばらばらなんじゃないかって思いますものの。
結構新しく、北村透谷さん(『文学界』なんかで知られてる社会運動家)が提唱しており、花袋がそれを自分たち自然主義の作品を示すものとして呼んでいたということを知ると、さて芥川や菊池さんのデビューするような時代に果たして「純文学の優越」なんて観点があったのかどうかがかなり謎なんだよな…。
てか、この自然主義文壇、そもそも現代小説しか扱う機能がなかったんじゃないか、というのが最近の調べどころであり、芥川や菊池さんのようにあとあとあれだけちやほやされた人たちが文壇評価が初期なかった、という時点で、どうもそれなりに根拠があるような気もするんだよね。
というより、戯作扱いされちゃってた気もするんだよな。
芥川はそれこそ漱石さん以外には評価されていなかった、てのが定説。

そもそも新思潮(第4次)たちが世に出てからのことを調べ直すというのが当面の目標、この辺の時代が欠けているのは誰かも言っていたけれど早稲田系の評論家たちが存在していなかったことにされてるせいかもなぁ、という気もする。
つか、なんで現代小説のことを純文学って言う傾向あるんだろうね?
そしてどう考えてもそのラインで行くと芥川は「純文学作家」ではないんだよなぁ、なんでそこが乖離してるんだろうね、なんか不思議。


4月1日めも。


文アルのキャラ言及2019年、重要度って観点でちょっと思い出したので【久米正雄】さん、あれです、菊池さんが通俗小説をばんばん書き始めた頃に(どうも難しかったので盛り上がったらしい、あれだよな、世間受けと作品の完成度と両方上げようとすると途端に難しくなるよね…)、「女の気持ちを一番理解しているのはあるいは久米ではなく菊池ではないか、言い過ぎだろうか」などというような言い回しがあったんですが、大雑把に同期の若手じゃねぇか中堅カウントにはしていいみたいだけど。
つまりその言い方って久米さんのほうは確定なんだよね…。
ところでよくよく考えてみるともともとモテモテ男だったところに、失恋した、相手の女が悪い、というような作品を書きまくっておきながら女の気持ちをもっとも理解している作家(引き合いに出されたほうがガチ)として確定していき。
新時代の婦人雑誌の形成において久米も菊池も参加してなかった段階で時代遅れ、とまで罵られてるんだよね、二人しかいないじゃねぇか無理言うなよ。
んで、婦人雑誌ってのは最終的に『キング』として出現するように、戦前最大のメディア媒体の原型です、大衆化はまず婦人雑誌から始まってるんだよね。

まあ、この辺全部「純文学の歴史」においては抹殺されているので、可哀想なことに久米さんは筆を折ったということになっているようです。
つまり純文学の歴史ってのはポンコツだってことでそこでも証明されるわけですね。
ただぶっちゃけ、なんでそこまで女性人気が高かったのかが謎過ぎて仕方ない、というか、若い頃からめっちゃモテるんだよな…、男の友人どもがあがあ煩い。
とりあえずまともな資料集めからかなぁ、ていうか失恋小説から転がりすぎだろこれ。


4月2日めも。


文アルのキャラ言及の去年に続いて2回目で完成したらそれなりに嬉しい版、あれです、ここの表現変えてくのすごく面倒です、んじゃこう、【山本有三】さんで。
『新思潮』の第3次の参加者で、それが重要視されてるのかどうなのかなぁ?
第4次に関しては有名人揃いすぎて(しまいにゃ成瀬さんまでピックアップされてた)、なんかもう有名って言いきったほうがいいみたいなんですけども、第3次に関しては第4次の事情が解説されていたりしてなんというか、完全に食われてるような状態なので信用出来ないんだよねー。
第3次が潰れた事情から第4次辺りまでの情報なんかは信じてるけどあとがなぁ。
そもそも山本さんからして芥川らの一学年上で、どうも演劇関係の仕事が忙しかったものか一年落第して同級生になってたよーん、みたいな事情らしく。
優秀な人間が多い学年(芥川らもその前も)数少ない落伍者として語られてましたがまあ、他なら別に珍しくもないよなー、みたいな感じに触れられてましたっけか。
多分ここが言及されてるのは先生が良くなってるせいなんだろうね。

で、この人が久米さんの「女性遊び」などを盛り込んだ怪文書を漱石さんの未亡人のお家に送ったと知られているんですが、その内容がほぼ事実、ちょっとしか盛っていないなどということを考えるとどうも判断がしづらい(松岡さんの本にあるよ)。
ていうか、実言うとテンション低い人なんだよねこの人…、菊池さんや久米さんに酒に連れて行かれると寝るとか本読んでるとかさぁ。
高校大学時代になんかイキってたのか、なんか他の事情があるのか。
しかし久米さんのことを不細工で劇の看板にするなと怒っていたのは見たな、うん。


4月3日めも。


文アルのキャラ言及、えーと、新思潮でまとめたほうがいい?
第2次に参加の【谷崎潤一郎】ですが、別にそれで有名になったとかではなさそうだよなー、というか、第4次にしたところで属してるだけで有名になったのは久米、芥川、菊池を輩出したあとだろうけどねー(漱石さんの令嬢の取り合いが菊池さんの前にあるし、成瀬さん以外はもう有名…残り一人だとなんか気になるよな…私でもそうなる)。
実際、上の三人に谷崎とか里見のとんちゃんとか追加して叢書とか作ってるケースなんかもあるので、ゆるーくつながってると見られていたんじゃないかな。
ご当人は当時の仲間はこっち来なかったしなー、て言ってるみたいですね。
まあ学生同人誌なんて普通はそんなもんだよな、あ、文筆業って意味だと第2次にも和辻哲郎さんがいますね、この人はどっちかというと哲学とか政治でよく見る。
(あんまり触れられてませんでしたが、宗教ブームにも関わってるって。)

同時代の人にとっては武者さんと似た時期の登場らしく、どっちが早いのかいまいち覚えてないみたいな感じに語られているようです、正確には武者さんらしいけど。
が、この時代からしてもうどのジャンルに登場したのかよくわからず。
白鳥さんなんかだと武者さんの存在がいまいちよく認識出来てないらしいので(谷崎は皆無だった)、演劇ジャンルのことを指しているのかなぁ、谷崎が私淑していた荷風さんなんかも演劇のほうに関わっていたみたいだしなぁ。
ただ、戯曲で世に出たってわけではないんだよね、演劇原作は書いてるみたい。
中央公論なんかの人から見ると一角の人物ということで間違いはないようです、佐藤さんなんかと並んでたし、しかしわからない、雑誌とかどこなんだろ。


4月4日めも。


文アルのキャラ言及、ここまで「このようなところがわからない」ばかりで進んでおり、まあ別にそれもそれでいいんじゃないかと思わないでもないものの、一つさすがに問題なのが「ゲームがかけらほども感じ取れない」という辺りでしょうか。
調べる域に入ってる人だと正直そのくらいの年月が経っちゃってるんだよな。
の【佐藤春夫】さん、この人はわりと最初から謎の人で、えーと雑誌は『中外』でしたっけ、大正の中頃に登場した総合誌の部類でいいのかな?
この辺の総合誌ってぼこぼこ生まれてるらしいんだけどその後がよくわからないんだよね、まあ、雑誌なんて基本的にそんな感じですけども。
(なので馬鹿にされていても長生きしてる段階で、実はちゃんと「格が高い」と言われるだけの理由があったりもするんだよね、文壇の頂点ではないけども!)(そう言われてるのを否定したいだけなんだけどわりと上手く行かない…ごめんなさい。)

ええとだから、弟子がたくさんいる、という佐藤さんのキャラをどう捉えるべきかというと、どちらかというと文壇の外側にいる無防備な人という感じになるのかな。
で、それなりに文壇ギルドへの影響力があるみたいなの。
この結構強大だったはずの文壇ギルドそのものが存在しなかったことにされているのが「純文学の歴史」のようなので、佐藤さんの評価そのものがなんかよくわからないことになってるような気もするんだよな…。
大正8年以降のプラトン社関係の記述を見ていると「その他筆頭」と言ったところでしょうか、だいたい志賀さんと同格くらいの扱いだったな。
しかしここまで書いてて思うけど、なんか酷いページだなこれ、まあいいか。


4月5日めも。


文アルのキャラ言及、2019年で【武者小路実篤】さん。
多分なんですけども、どうもこの時代においては大雑把に「持ち込みで載せて貰える」ところまでは特にプロという扱いではないみたいなんだよね、依頼が来て初めてプロになるというか、それもあんまり格の低い雑誌だと曖昧みたいなアマチュア領域がかなり広いというか、商業雑誌に載っているからとそれでプロの作家とは認識してはいけないみたいなところがあるんですが。
武者さんとか谷崎ってなんか世に出た時期と依頼が来るようになった時期が大差ないみたいなんだよね、芥川なんかは依頼のほうが先なのかなあれ。
あと、同人誌においては軽くであっても批判であっても商業雑誌において批評されただけでも「大したもの」です。
ただまあ正直、依頼が来てる人たちに対して軽く言及されただけで格が上みたいな言説になると否定するしかないんだけどね…(武者さんが前者、志賀さんが後者)。
これ、こういう形で紹介された人たちに罪はないよね…。
武者さんが周囲の作家たちを結構立てるような言い方しかしないらしいのも、まあ、かなり格差があることを念頭に置いたほうがわかりやすいよな。

この辺の扱いの差というのは同人誌『白樺』の目次欄を見るとわりと普通にわかる上、新聞連載を世に出た辺りでこなしているので(自然主義作家が「生き延びた!!」と明言してるのと同じお仕事、朝日新聞)、まあうんなんだ、うん。
なんで低めに扱われるのかというと、低く扱った人たちがポンコツの極みだったからなのでは…ないでしょうか、高く扱われた人の評価がだだ下がるのも酷いよな…。


4月6日めも。


文アルのキャラ言及、毎度面倒なことになる【志賀直哉】さん、初期は半分くらいの本にて文壇の頂点を誇りもう半分くらいの本にてそもそも作家として存在しているのかどうかすら不明だった謎な感じの人なんですが。
「売れっ子ではないがその他筆頭」というのがだいたいの位置ではないかと思います、たまに出版社が引き立てようとしてるのもそのせいらしい。
というか、創作能力という意味ではかなり多くの人に普通に認められており。
単純にまともな仕事が続かず、作風において媚びるみたいなことも特にないようなので(白鳥さんに通俗小説扱いされていたり、長編に挑戦したりとかは普通に通俗化傾向なんだけど、ご当人のそもそもの資質らしいしね、もともと純文学を嫌いな作家たちにやたらと絶賛されている感じの人です)、個人的には生き延びただけでも結構大したもんなんじゃないのかなぁ? みたいな実感。
芸術家の極みって言ったら確かにそうなのかもねー。
ぶっちゃけて純文学作家たちがもはやプロの世界に存在することが出来なくなっている昭和10年よりあとにも、一応隅っこでも存在していたらしいしなぁ…。
売れっ子にならない中で一番マシに作家やってる、という意味でも大したものなんじゃないのかな…。

いやまあただ、今の「純文学の歴史」の中に置こうとするとなまじプロとして通俗作家たちと普通に一緒の雑誌にいるもので、その雑誌を改変したりとかなんかあれやこれやと設定が変わってくる感じでやたらとバリエーションがあって全く信用出来ない。
志賀さんとか、ある意味で一番蔑ろにされてる気もしないでもない…、酷いよね。


4月7日めも。


文アルのキャラ言及、さすがにもうゲームを一瞬しか思い出してないのどうかと思うんですが、どっちかというと既存の「純文学の歴史」を正直さっぱり無視しているというのがゲームのスタンスと言ってもいいのかも。
なのでまあ、一部の本とは引き裂かれるレベルで真逆ですね正直。
白樺の一人として数えられる【有島武郎】さんに関してはそこまで乖離は酷くないっちゃあ酷くないかな、あれです、人気が出たのが激しくゴシップ作品としての人気だったのであの、うん、まあ…。
文学史においてもわりともごもご言われてますし、その気持ちもわかるし、女性向けゲームで盛り込まないとならないかというとそれもねぇ、どうかなって。
個人的には久米さんとか菊池さんの系譜に近いんじゃないかと思うんだけどね、この受け方って。
島田清次郎さんなんかと同時期に新潮社によって売り出された新人です、新潮社には他に当時大事にしたい新人がおりまして、それ以外の作家を乱雑に売っていたというのは『カネと文学』という本なんですが、かなり説得力がありました…。
(作家さんにとってもマイナスでもないしね…、売り方に関しては物理的な証拠があると言ってもいいし、一見の価値はあります…。)

が、よく知られているようにかなり真面目な社会運動の系譜の方ですし、漱石さんなどが行っていたホイットマンの人道詩人の紹介なども引き継いでいたようだし、プロレタリア文学が一定になる以前の主要論文も出したりしてるしなぁ。
とっとと『改造』辺りに身を寄せてたらな、てのは無責任な言い方かなぁ。

(文或と近代もろもろ、149)
最終更新:2019年06月08日 17:57