雑記:文或と近代もろもろ、148


3月19日めも。


リアルタイムは5月30日、あ、月末までにお金を振り込まないと、ということを思い出しましたが、『菊池寛文学全集』昭和35年、文藝春秋の出版の本をまとめていく感じです、全10冊で10枚くらいで配分は適当にやる予定。
編集委員が山本有三さん、川端康成、小林秀雄さん、河合好蔵さん(この人だけ知らないかも)、永井龍男さん、中村光夫さん。
巻末の解説が川口松太郎氏と戸坂康二さん。

えーと、春秋座と文芸座が新劇の中でも元気の良いところ、だよね(新劇に分類しない人たちも結構います)、で、菊池さんが最終的に一番公演されたのは新国劇だったらしく、ぶっちゃけて初めて知りました。
『父帰る』の春秋座の公演までは聞いてたんだけど、これがどのくらい続いたのかも不明だし、この春秋座もわりとすぐに解体されてしまっていたようだしなぁ…(復活したみたいだけど、それすら不明)。
てか、どっかで本読めたら読んで来たいんだけど、新国劇は大正6年で沢口正二郎、これは大雑把に新派だか新劇だか歌舞伎だかよくわからん感じに混ざり合ったものみたいですね、いやだって本当に解説が場所によって違うんだもん…。
沢口さんが菊池さんの大のお気に入りだったってのは信用します、あの人は各界にいるからなそういう若手、演劇業界は沢口さん、と、覚えた。
あと大学時代にアイルランド戯曲のシングに傾倒していて読み込んだとか、その時期にわーっと書き続けた、小説で認められてからは短いものしか書かなかった、てなところも覚えておこう、この巻そのものが戯曲ばっかりなんだよね。


3月20日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品をぽちぽち、「暴徒の子」はこれはあれ『新思潮』の第4次において最初に提出した「藤十郎の恋」を久米さんたちにボツにされたので5日で書いたって言われてるやつですよね。
普通こっから始めるかよってちょっと思う。
まああれ、村の一揆と裏切りに関しての話で、菊池さんの冷たーいお話。
「屋上の狂人」はちょっと知名度高いんじゃないかな、狂ってる兄を治すことがそもそも救いになんかなるのかなぁ、ていうお話、弟が最強。
「海の勇者」は前に見たバージョンだと「順番」という名前だったようですが、兄が人を助けて死に、老母は絶対に弟を海に近づけたくなく、弟は、というような話、個人的には順番のほうが良かったなぁ。

「奇蹟」ってこれ諸説ありますが、漱石さんのところに行った時に菊池さんが見せた作品を改変したものじゃないのかなぁ、もとは閻魔像が悪ガキたちをむしゃむしゃ食べてしまうって話だったようなんですが、それをあとから漱石さんが笑ったみたいな話が伝わってるんだよね、確かにまあ荒唐無稽だとは思うものの(→勝手に怯えたと改変)。
小説ならともかく戯曲でその展開がアウトかっていうとなぁ。
現代で言うとあれ『世にも奇妙な物語』でその展開が絶対的に駄目かっていうと駄目でもないというか、漱石さんが菊池さんの前では戯曲はわからないから、と断ったのがやっぱり正しい気がするんだよな。
不敬な人間が罰を受けるって構造があり、その罰が強引ではあるものの、舞台効果とするとわからない、て漱石さんの態度が無難だと思うんだよね、正直。


3月21日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品続き。
「父帰る」は当人が『新思潮』に発表した時は自信たっぷりだったのに無視されてしまったのでしぼんでたっていう話なんですが、これが「真珠夫人」と同時期に公演されることによって一大ロングランをもたらし、あまりにも感動させすぎるからよくない!! みたいな見解もあるそうですが。
ごめんなさいよくわからない…、岸田國士さんがそんな妙なこと言わないとは信じてるけどごめんよくわからない…。
ところでこの作品はど素人が演じても成功する、代表作として語る人も多いみたいなとんでもない感じの舞台らしいんですが。
読んでもわからないよね…? 菊池さんはなぜ書いただけでわかったんだろう。
文士劇なんかでも定番だったそうですよー、ちょっと見てみたい。
ええとあれ、放蕩息子が帰る作品はたくさんあるから帰るのは放蕩父ちゃんね☆ みたいな感じで作られた話だそうです、少ないけど類似作はあるらしいけど、放蕩息子作品がたくさんあるんだから別に気にしなくてもいいんじゃない?

「敵討以上」はあれ「恩讐の彼方に」の戯曲バージョンでちょっと展開がわかりやすくなってます、というか、読み終わったあとに40年分疲れるようなことがなくなっており、展開がさくさくと進むようになっています。
ただまあ、親殺されると仇討ちが成功しないと家の再興が出来ないからなぁ…。
こ、殺していいですよ?! は反省してるとそんなに不思議な言動でもない、仇討ちってのは当時は義務だからね…、あのあとどうしたんだろうね息子…。


3月22日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品続きの続き。
「順番」は別の作品の名前として見たことがあったんですが、正直なところ、菊池さんの作品の登場人物にはどこか理性を感じるので、実は理性のある行動だったんだー!! という展開がどんでん返し感がなくて残念でした。
いや、書き込むともうその時点でどっかしら駄目だよね…。
狂気に陥った長兄と、金を使い込む次兄と、だがしかし、次兄には次兄の悩みがあったのだ、という展開は頭ではわかるものの、三男の学費だけはちゃんとしてるからな! という発言にもだろうね、感が漂う。
だって…なんとなく理性が垣間見えるんだよ…なんか…。

「A DRMATIC SKETCH」多分菊池さん、この作品好きなんだろうなと思うんだけど、こういう作品が好きって認める人が少ないんだろうな、と思う、母子心中話。
「温泉場小景」、一時は当人の分身であるとされる主人公の名前、啓吉を使っていたみたいなんだけど(国会図書館でたまたま見たよ)、名前変えたんだね、こういう裏切る女のモチーフも結構好きだよなぁ。
ぶっちゃけ、全て最初から語っていたら一緒になる結末もあったんだろうけども、最初から最後まで黙られたら切り捨てるのが無難って女でも思っちゃうんだよな…。
こういう作品は男に理性を感じるほうがいいんじゃないかなって気もする。
「茅の屋根」、これも一つ前の作品とほぼ同じテーマで生活のために男を裏切る女の話で、女が罰を受けるわけでもないのが菊池さんの特徴かなって気もする。
愛だけじゃ貫けないよね…、てテーマのほうが理性的にも見えるんだよなぁ。


3月23日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品続きの続きの続きー。
「時勢は移る」、息子が時流を理解し、父親が時代に置いて行かれるという系統の作品って多いんじゃないかなとも思うんだけど、息子が一切受け止めないのがなんとなく特徴的というか、父親に思い知らせるっていうメンタルがないんだよな。
もう父親がどうにもならないことはわかっている、まあ念のため、みたいな。
その辺、父親がずっと息子である菊池さんのことを学力って意味では認めていたってことも関係してるのかなぁ、対立意識があんまりないよな(違いはある)。

「小野小町」、まあうん、なんだ、うん。
拗れる時はとことん拗れるよね、なんとなく全員が言ってることが理解出来るわ、だって身体壊しちゃったんだもん無理するもんでもないよね!! みたいな理性的な男が嫌いじゃないよww
でも、それに対して感動してたって気付いたら死ぬほど悶えるよな女ww
「岩見重太郎」、多分ラストシーンがこの作品の一番のキモなんだけどこう、クズを追い払ったらクズが逆恨みして皆殺しにしてった、追い払った人間が悪いんだ!! で話を締められると作品を見る側としてはどこで受け止めればいいのって意味で戸惑うというか、どこにも着地出来ないままになるよな…多分そういう話なんだよね。
「玄宗の心持」、なんでざまーみろって言わせないんですか! て言ったの川口さんだったかな?(いや知り合いなので、巻末解説で) まあ言わないほうがいいんじゃないのかな、そこまで言うとやつが悪役ってことになるし。
佞臣とされた人々が全員潔いところと合わせてこれもこう、曖昧着地点。


3月24日めも。


「義民勘兵衛」、多分この作品は読後感すっきり! となってはならないんだよ、屋上の狂人とは違うんだよなんにも解決してないどころじゃないんだよ、というように一旦は思うと思うんだよ。
けどやっぱりざまーみろ!!!
と迷った末に着地するのが正しい気がする…、迷わないのは、駄目だよね…。
「貞操」、心の底からざまーみろ!!!
オッケー大丈夫だなにも問題はない、泣くなヒロイン夫が正義だ、確かに意地悪は認めていたが、若干の意地悪くらいは許してやれそれ以前に説明してたら良かったが時代が時代だ仕方ない、めでたしめでたし!!
なんかもう読んで貰うしかないような気がするこの話は。

「乳」、結局どうなるんだ、なんだったら幼児連れてけよそういうわけにもいかないのか、案外農民の知恵で本当に長生きするのか、それとも一人くらい欠けても仕方ないで流すのか。
この手の構造の作品は若い医者が正義ってなるはずなんだけど、一理はあるけど、農婦が愚かでなにもわかってないとも言い難いんだよな…、一人欠けても一人学校に送り込めるかもしれないのは大きな分岐点なんだよな…、やっぱり迷う。
「震災余憚」、まあ気にすんな人手がいるのも愛情も事実だしな!!!
「真似」、とりあえず悪意がないことはわかった、悪意がないことはわかったけどどうするんだこれ、今後大丈夫なのか、悪意がないことはわかった。
もうちょっと考えろって言っても通じ…ないかな、難しいな本当に…。


3月25日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品の前回この書き出し忘れてた、まあいいか書き直し面倒い。
「世評」、人の意見の移ろいやすさを示している作品だろうと思うんだけど、これ、言われてる側の女性たちの心証が全く書き込んでないことが特徴的だなー、と思う。
下手すると唯一同情してくれた町に戻って来てたかもしれないんだよな…。
しかして、ここまでいい加減なんだから気にすんな無駄だ、という見解を読み取るのがどうも一番健全かなー、という気もしないでもない。
「夫婦」、だいぶこう、ベタな作品なんだけどもこう、うん、なんだ。
手遅れの夫ではないよな、奥さんが歩み寄れば戻ってくる類の関係ってあるよなと思わせるところはあるよなぁ…。
この辺も男に理性を感じるところが好印象になってるパターンかもね。
妻が納得したり我慢したけども、あとでやべえことになるって絶対って作品にも事欠かないしな…、菊池作品の男ならまあ大丈夫だろ…(判断材料)。

「時の氏神」、このタイミングで、このタイミングでこれが来るかー!
みたいな意味でとてもこう、一つ前の「世評」と対になったような感じの作品でこっちの夫に関しては正直あんまり信用出来ないんだよなぁ。
たまたま博打で勝っただけなのでは、という気もしてしまうし。
夫婦間の話で、仕事出来なくてさぼって奥さんに当たり散らしてるー、な前の作品と比べてこっちのはだいぶ夫がちめやばめ段階の作品。
ただまあ、思い留まった理由はこのタイミングで、という意味でそんなにわからなくはないんだよな、しかし、そうでないほうが幸せだったかな、個人の心の問題か…。


3月26日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品、あと5作品しかないんだけど、バランス配分誤ったかしらね…。
「恋愛病患者」、正直なところ、菊池作品でなかったらまあ別に、として読み飛ばしていたと思うんだよね、良いとか悪いとかでなく、まあいるよなこういう父としか言い様がないし、ただ、菊池寛がこんなもの書くなんて感は酷く。
ぶっちゃけてこの2つあとに「兄の場合」という続編が存在するんだけど、まああれです、熱意あるファンの心ある説得に心動かされたんじゃないかな…。
しかし酷い展開になる作品自体は数多あるのに、なんでこの作品だけそんなにそりゃないぜ!? と思うところが強いのか…。
やっぱりこう、この作品の父親が理性を感じさせるからだろうな…。
あと、反対する理由があまりに弱いというか、結婚しちゃ駄目な男の要件を満たしてないてのも一つ(お調子者って言ってたけど、それはね、先生である父親の前でのお調子者かどうかは重要じゃないのよ、他に女ちょいちょい引っ掛けてるんだ! なら、反対する理由として十分なんだけど、明らかに弱いんだよね)。
多分これ、恋愛の反対っていうニュアンスに見えるからだろうなぁ。
純粋に反対しているようにしか見えないんだよね。
それならそれで、どうしてそう思うに至ったのかというところを語って欲しかった、てのが多分当時の女も考えたんじゃないのかなぁ、なんとなくだけど。

「亡兆」、これは「奇蹟」とも同じ構造の話であり、超自然の展開って意味だと閻魔像がむしゃむしゃよりこっちのがずっといいよな…、伝説の段階で完璧、ごもっとも。


3月27日めも。


『菊池寛文学全集』第一巻の収録作品から、あらすじあんまり書いてない。
「兄の場合」、でこれは本に「恋愛病患者」の続きってあってその話の段階で反対された娘さんの兄が今度は場末の商売女を連れて来るって話になるのですが。
妹の段階の一流の学校の一流の家の特に悪い評判のない学生との関係は反対していなかった叔父が今度は反対の立場に回り、父親に今度こそ反対して下さい賛成です! と言いに行くんだけどね。
言っちゃ悪いんだけどこの場合もなんか結婚の反対の要件満たしてないんだよな。
醜い、ヒステリー、以上終了。
心中するだしないだって話をしてる段階で多少興奮してたからってさぁ…。
まさか商売女に騙されているのですか?! と妹とか母親が聞いてるのはそこが一番大事だからだよね、顔は問題じゃないだろうこの際、親族の結婚相手の顔なんかそれこそ正直どうでもいいだろうとしか。
いやそういうことはないけどさ、と叔父さんが言う辺りでうーん、と。
で、今度は父親があれから7年、まだ娘も相手も2人して諦めてなくてこう、うん、悪かった、となってるんですが。
なるわなその年月、半年くらいで妥協しておいてやれよせめて3年。
大変良かったです、正直良かったです、前の展開が変化するわけじゃないんだけど、こういう展開を待ってたんだ彼には。

「入れ札」、実話が元って本当かしら…戯曲版じゃないのもうちょっと不穏よね。
「相似」、読み流してたら設定がわからなかった、ああ、この婆ちゃんか、やばい。


3月28日めも。


どうも作品数が半端だったんで、ざっくりまとめてしまって、解説から気になったところを書き出していくつもりなんですが、菊池さんの戯曲は大正3年から大正6年までの間にだいたいの代表作が書かれた。
それ以降の作品はほとんどワンシーンのみって考えてもいいかも。
全て『新思潮』で小説を書き始めるよりも前。
あとちょいちょい有名なんですがシングというアイルランド戯曲の人が好きで、大学時代には傾倒していた(上田敏さんなんかはこの辺も紹介してたのかしらね)。
同時代においては戯曲書く人のほうがむしろ多かった感じだよね、みたいなことも、少なくとも『新思潮』は実際そっちのほうが主流派ですかも(一高の同人誌ね)。
菊池さんの大正9年の「父帰る」の公演が初めてのリアリズムだったのではないか、それ以前はロマンチシズムだったんじゃないのかな、ということも川口さんが。
(これ以前に活歴という歴史ジャンルの歌舞伎もあるんだけどね、詳細は省くけど歌舞伎ではもともと歴史作品ってものがないんだよね…歴史人物の名前を借りた作品でしかない、これは揶揄ではなく、もともとそうなってる。)
菊池さんは歌舞伎は基本的に好きではなく、よく非難していたらしい。
それもあんまり公的な場所では言ってないかと思います、そういう人なので。

が、芝居をずっとやりたかったはずってのはどうなんだろうなぁ…、芝居で認められたかったはず、までは同意なんだけどね、なにしろ初期全く小説書いてないし。
だって芝居趣味って一高に入って以降だし、京大でシングでその後はずっとパトロンでしょ…あの人パトロンしてない分野のほうが少ないからなんともな…。

(文或と近代もろもろ、148)
最終更新:2019年05月31日 00:12