雑記:文或と近代もろもろ、145


2月17日めも。


リアルタイムは5月11日、諸事情(4月18日分雑記)で存分に疲れておりますが、一応自分がなにをしたんだか伝えておかないと定期的に「自分の尊みが伝わってない」が爆発するので伝えていました、まあ、伝えておいても尊みが減るだけで自分がやらかした記憶が出来るとかそういう結果は期待出来ないんですけどね。
私がなんかやっちゃった時は私が謝るので別にやたら責められるとかはないんだ。
自分がやらかした時に私のせいにしようとして、あまりにも熱心になりすぎて何年にも掛けて責め続けるとかそういうことはわりと数日に一度のペースで起こります。
妙に覚えてることがあるとしたらそのせいもあるかもなぁ。
覚えておかないと正直命に関わるような環境だし…。
体調が悪くなるようなものを体調が悪くなる日に限って食べさせようとして、拒絶すると泣き喚くってのも定期的に起こっていて、最近吐くほど嫌と伝えて回避出来るように。
なにがどう変換されていたのかはよくわからないです。
嫌がらせって感じではないんだよなぁ…。
まあ、小さい頃から妄想とは縁が近かった感じですね。
今でもなんとなく妄想とそうでないものがわかるからなぁ、あの、人のタイプによっても多少は変化するんですけども、妄想のほうが強固なのが特徴ですね。

「根拠が外部にある/根拠が内部にある」と言い別けてます。
根拠が外部にある時は正直どんなに現実と離れていてもそのうち是正されてくだろうし、世間全般がそれの場合はまあ個人の責任でもないし…。
根拠が内部にあるとね、突くと絶叫する感じ、なんだろうなこれ。


2月18日めも。


ところでこの間からぽちぽち語ってたんですが(5月11日時点)、乱歩さんの『探偵小説四十年』を読んでいるんですが、どうもこれ『話の屑籠』タイプの本じゃないのかなー、と思える部分がないでもない。
嘘は書いてないけど真実でもないんじゃないかな、というか。
関係性が薄いことや他人の評価に関しては、多分特に疑う必要もないだろうけどねー。
えーと、菊池さんと乱歩さんが似てるって話ではないんだ、なんていうのかな…。

あ、わかった、「最初から対外的に、比較的リアルタイムで伝えるために書かれている類の随筆」なんだこれ。
菊池さんの場合は『文藝春秋』の巻末連載で、乱歩さんの場合は探偵小説の第一人者として何年か置きに前回の内容を踏まえて刷新していくような感じだったみたいだしね。
すごくは似てはないけど、多少は似たところが出てくるのも無理はないな。
なにがどう信用出来ないのかというのは、なんかちょっと表現出来ないんだよね。
他の作家さんたちへの評価なんて、嘘を付いたところで全くメリットもないし…。
自分の利益になるような嘘を付く必要も別になさそうな人たちだしなぁ。
悪意を包み隠さず言う感じではないのは、まあ特筆するような必要もなく、する人はするだろうししない人はしないだろうし。
義憤を感じたから語ってはおく、という態度なのも大人なら一定の程度でいて当然だし、文士には正直少なくても第一人者としてはそう大して珍しくもないだろうし。
ううん、上手いこと言いにくい。
まあなんというか、なにが起こってるのかの全体像が実は不明ってのは言えるかも。


2月19日めも。


前に菊池さんのほうの『屑籠』で直くんだけが言ってることがまともだって褒めてたことがあったんですよ、プロ文全体はわかってない的な。
実際のところ直くんだけでなく、二つの見解で争っていたこと、どちらにも組してない人なんかはいたらしいんですが問題はそこでもなく。
その後、プロ文自体が崩壊するような大規模な論争だったってことくらいは教えてくれておいてもいいような気もするのですが。
リアルタイムだとしょうがないんだよねこれ!!
同時代の雑誌で、比較的知られてるだろうプロ文の内紛に関して語っても仕方がないだろうしなー。
そういう意味では菊池さんが悪いとかではなく。
それ自体が最初からパズルのピースみたいなものだったって話なんだけどね。

実は地味にこれ、乱歩さんの『四十年』でも似たようなことがあったんじゃないかと思ってるんですが、昭和10年くらいだったかな、まあその前後くらいに探偵小説勢の一部がマージャンの集会作ってたって記述あったんですよ規模わからんけど。
ひょっとしてこれ、作家たちが賭けマージャンで逮捕された時期に呼応してるのではないかなと思ってるんですが。
あれです、とんちゃんたちやら華族が先に捕まってて菊池さんがちょっと遅れてあとに捕まったってやつ(なんか名前あるけど忘れた)、菊池さんと一緒に捕まった面子みたいに見えるんだよね、探偵小説作家ってのは比較的明言されていたし。
書いていてもいい気もするけど書いてない、完全にパズルのピースだわこれ。


2月20日めも。


あとあれ、昭和9年だったっけ、乱歩さんが『中央公論』の看板となったので不満が爆発したみたいな感じで語られていたんですが。
この時期にはもう代替わりしてるはずなんだよな中央公論。
あれだよね、呼び方おかしくてすみません嶋中父。
(嶋中息子さんのほうが結構文藝春秋読んでるとエンカウントするものでつい…、広津親子もなんだかんだと息子の登場回数が多いので息子が基準。)
探偵小説への不満だなんだ、純文学の絶対的優越だなんだ、という議論に関しては、実はこれ、地味にこの時期が初出なんじゃないのかなぁ?
私も菊池さんがメインだったせいか結構な期間勘違いしてたんですが「純文学の優越」なんてどうも実際にはなかったみたいなんだよね。
なんとなく予感はあったんだけど、どこを調べればいいのかよくわかってなかったんですが、純文学から一切離れて探偵小説とか翻訳小説とか歴史小説ばっかり漁ってたような菊池さんや乱歩さんの周辺を調べてるとわからないんだよね。
この人たち、自分は読んではないけど、なんか純文学って偉いんじゃないのかな、みたいな漠然としたイメージ持ってたみたいだし。

あれです、自然主義から白樺へと読み継いでったみたいな純正の同時代の文学青年の周辺を見てるとけらけら笑いながら権威なんかないよww みたいなことを語っており。
外側から見た時に純文学の権威がなぜ感じられたのかは、今後調べて行く所存なんですが、まあ、内部にいた人にとってないんならないんだろ…、とは言っていいと思う。
久米さんとか川端とか、こないだ聞いたんですが豊島さんなんかもそれだって。


2月21日めも。


前日分の続き、ただ、よくよく考えてみたら現代においてもなんとなーく「純文学は権威」みたいな感覚はあるような気もするなぁ。
ただ、マニアが偉ぶるかっていうと、そうでもない気がする。
結構見るじゃないですか「純文学とエンターテインメント小説って本当に分かれていると言えるのかな?」みたいな人たち。
多分純文学をきちんと構成してるのはあの人たちだと思うんですよね。
分析する、ちゃんと読んでる、絶対視しない。
でもそういう権威なんか関係ないところでなにかの価値はあると思っている。
ぶっちゃければあの手の人たちが支えてると考えると、尊敬に値もするし、文芸の一角には今後も是非いて欲しいとも思う、彼ら彼女らの好きな「純文学」ならば私も価値を認めたいと思う、尊敬に値する人たちの評価だから、という感じで。
まあつらつらっと連なるんですが。
多分これ、正しい形の尊敬だと思うんだよね、多分この話はこれとちょっと別。

なんというか、純文学を読まない人には絶対的な権威、嫌う人たちにとっても権威の裏返しとしての揶揄があるように思えないでもないんだよな、現代でもね。
すごく簡単に言うとあれか、菊池さんや乱歩さんに関しては純文学に携わるが故に尊敬に値する人がいたので、なんとなく全体的な評価も高かったのかもなー。
菊池さんだと先には志賀さん、あとには白鳥さんかな。
乱歩さんにとっては宇野さんですかね、まあ彼は大衆小説との融合に傾いたって言われてますけど、乱歩さんにとってそれはマイナスではなさそうだしなぁ。


2月22日めも。


志賀さんはさて置いて(なんとなく菊池さんが好きだった理由も今はわかる気もしてるけど、あれだ唯我独尊タイプの人を「平等意識が高い」と感じるバグがあるんだ菊池さん)、白鳥さんも宇野さんも純文学のほうが好きだし、ぶっちゃけてレベル低い作品は好きじゃないし、しかしお金が汚れたものだと思っているような様子もないし。
ある意味で正しい形での平等なんじゃないのかなぁ?
どこ出身の誰が良い作品を書いても褒めると思うんだよね。
ただしまあ、個人の好みはあるにはあるみたいなの。
あれだ、川端が興奮しながら尾崎士郎くんの作品を宇野さんのところに持ち込んだら「無理」として断ってたけど、別に妙な理屈も唱えてなかったし。
白鳥さんも直木さんの作品のことをこの書き方は駄目だって言い出して、菊池さんにそれはそういう書き方があるんだよって宥められていたし(滑稽な描写って言ってたけど、コメディ系だろうね、あれはあれで一系統がちゃんとあるよな、そういや、白鳥さん初期の漱石さんの作品も忌み嫌ってたね、対面するまで口に出すようなことはないです)。

ぶっちゃけて菊池さんが宥めるような物言いするのは、それが理解されるだろうと白鳥さんのことを信頼していたからだろうし。
直木さんの作品でそんなことしていて、戦後の吉川さんのことは絶賛していたんなら、その他の人たちも無下に扱ったわけもないよなぁ…。
私小説的な要素に価値を感じ、それを他のジャンルの作品にでも追い求め、他の作品がその要素を持つことを歓迎してくれた人だと思うんだよね。
正直、いつの時代にいても尊敬するわ、白鳥さんが好きな作品には価値はあるよ。


2月23日めも。


純文学の「権威」についての話つらつらつら。
ところで私が純文学の権威が菊池さんの時代にあったとは思いにくいって話をよくしているのがこの言葉そのものが北村透谷さん、まあ自殺しちゃった『文学界』(明治)の同人仲間、社会運動家でもある人が唱え。
それを花袋が受けていたからなんですが。
要するに初期は純文学=自然主義のはずなんだよね、よくも悪くもこの流れだと仕方ない気がするんだ。
しかもこれ自然主義作家たちが「内容が詰まらん!!」って言われたから、「それでも価値はある!」みたいなカウンターの一部として放たれたみたいだし。
いや、なんの本で見たっけこの辺、まああれ、蘇峰さん近辺とか読んでると出てくる感じですけどもあんまり文学史では見ないです、多分文学史では見ないだけでそんなに珍しい内容でもないっぽいです(〇〇さんと××さんがー、みたいな軽い感じで語ってたし、大して興味もなさそうだったし、むしろ親切な人の本という気もする)。

歴史小説好きな菊池さんとか、探偵小説がなんだかんだと好きな乱歩さんが内容が詰まらない「純文学」を読むかというとそんな気もしないんだよね。
菊池さんのことを「本当は純文学に対して憧れてるのよ、だって世の中は全ての人が憧れていたはずだし」みたいな見解に対しての反論にするためにこの辺を詰めてたんだよね、本当は。
ただ、それよりも純文学と付かず離れずの距離を保った文学青年たちの認識が反論として適当だったので現在は棚上げになっています、どう変遷したんだ真面目に。


2月24日めも。


ぶっちゃければ「菊池さんが純文学を尊敬していたか否か」よりも「純文学という概念はどう発展していったのか」のほうが重要ではないかという気もするんですが、この重要な案件は私が研究者であったらの重要であり。
ぶっちゃければ当時純文学への尊敬が一般的ではなかった、ということを証明するためにならば調べても良かったものの。
そうでないならば贔屓人物に関係ないから特にはいらん!! みたいな感じー。
まあ、それに近いこと語ってくれてる人に出会えたら喜ぶみたいなスタンスでいいんじゃないでしょうか。
すんごくばっさり語るといわゆる「純文学的要素」、要するに白鳥さんが追い求めていたものって人間の精神を語る側面だと思うので、菊池さんならば時代小説、乱歩さんならば探偵小説を盛り上げるためには必要であり。
そこまで無下にしてたわけでもないとは思うんだけどね。
ただ、私も正直詰まらないんだよな大抵の純文学とやら…。
そもそも純文学というものが思春期の人たちに刺さるように作られてるからなー、みたいなことが語られていた佐藤さんの研究者のおかげで客観視出来るようにはなったものの、それ以前はどっちかというと苦手だったっていう感じかも。
一部の作品は普通に読めたけどね。

それなりに読めたよ、ていうだけのことで従わなければならない絶対定理! と言われたら読めるけど苦手ってのがどうしても両立するんだよね…。
しかしまともな支持者はまともなんだよなどの時代も…、誰だよあの賛美者たち。


2月25日めも。


純文学についてのだらだらだら。
なんというか、そもそも好事家ってのは「権威」ってものを必要とせず、その世間的な評価なんかを全く気にせず、気にしていても冷静に受け止めているものではないかと思うんですが(この人たちこそが尊敬に値する)。
翻って権威が必要な人たちって言ったらはっきりしてる。
いわゆる岩波の本とか演劇の本で神山彰さんなどが語っていた「亜インテリ」と呼ばれるような層だよね。
わかりやすく悪口仕様にすると「似非インテリ」。
つまり明治末の北村透谷さんや花袋(この辺に関しては弱者の権力への意見表明みたいな体裁だったので、そんな特に問題視すべきではないと思う)の語る「純文学」から、どっかで似非インテリの棲み家になったってことなんじゃないのかしら。
まああくまで知ってる範囲で考えるとだけど。

一応現代の純文学と近い概念で文壇評価の高い小説、新聞などで連載されていた一般人気の高い小説っていう区分があるんだよね。
これが純文学にシフトした可能性があるかっていうと、まあある気はする。
ただ、自然主義から純文学という単語が始まったことを考えると、数年で凋落してしまい文壇評価を失った自然主義とずっとイコールのままとも考えにくいんだよね。
菊池さんなんかは純文学を尊敬はしてなかったんじゃないかなぁ、てのも自然主義作家たちの影響力が残ってた時代に世に出てるからですね、あの人、あとになると少し評価してるけど自然主義小説で離れたって言ってたからね(そこは勘違いされてない)。


2月26日めも。


で、でっていうか、菊池さんと乱歩さんのいろいろ読んでいた時期は大きな括りで言うとそんなに離れてない時代なんじゃないのかなぁ、て気がするんだよね。
見てるものは全く違うんだけど、興味のない世の流行りの文芸を追い掛けなくてもそれなりに供給がある時代って意味ではほとんど裏返しで似た環境みたいだし、正直お金がなくてもかなりいろいろと読むことが出来てるって点でもちょっと似てる。

どっちかというと、その環境になった「本を所持しなければ読むことは簡単になった」という部分に関して調べていったほうがいいのかもしれない。
この本が身近なものになった経緯の先頭打者に関してはいわゆる文壇小説、自然主義の時代と被っていたってことは別にないでもなさそうだしなぁ。
体感としては…ああ、そっか、日露戦争の終わりくらいから。
この時代に文壇小説だったものは普通に自然主義小説でいいはずです。
考えてみれば亜インテリなんて人種がそれ以前にいたはずもないんだよな、英語が読めればインテリだし、読めないと読むものがない時代だったから、勘違いする余地がない。
明治末から翻訳本が増加し始めて亜インテリが爆誕し自然主義は衰退するものの次の時代を白樺に取られるところまではいかず一応の体裁を残し続け。
そして本は増え、あらゆるジャンルの小説が未熟ながら増えていき、学問さえあれば本が読める環境は整えられ、文字を読むところにまでは至った学生たちはそこから順調に増えていった、みたいな感じかなぁ。
てか、花袋はなんの価値も認められない詰まらない個人の作品であっても価値があるって話はしていたのか、この時代の象徴としてならば相応しいのかもね、確かに。

(文或と近代もろもろ、145)
最終更新:2019年05月11日 19:58