雑記:文或と近代もろもろ、144


2月7日めも。


ところで昨日まで、日本の「文学史」のスタンダートだろう本を読んでいたんですが、1974年だったかな…、うわ、嫌な感じの年代が…。
えーとあれ、小田切進さんで『日本近代文学の展開』です。
なんと言っていいものか、そうですね、日本においてはいわゆる社会主義というのは明治何年だっけ? 明治末くらいに入って来てまして、いや、前にやったんだよね、幸徳秋水を社会主義の観点から如何なものか! と糾弾してる人と全くしてない人がいる、なぜ違う? という気になって調べてみたらそもそも日本に社会主義が伝わったのは幸徳秋水の死後だったよ、と判明したとかそういうの。
大逆事件の辺りでもその話をしてますねー。
要するに来て即座に起こった事件なのよあれ(そういう意味でもまあ、でっち上げ感がますます上がりますね、前に本で触れてて資料読んだけど、鴎外さんとか事件が起きる前のブレインしてたせいか苦悩してた、でっち上げを隠すつもり…あるのあれ、現代の中等教育程度で多分わかるよ?!)。

時代を逆行することなく、社会小説がこのあとから出てきてくれてとても感心しました、そうなの、古い時代の政治小説とは別物なんだよねあの辺。
あと、文藝時代という文藝春秋の弟分の雑誌と、『種蒔く人』の後継として出て来た文芸戦線に関してもなかなか良かったです。
というか、あの辺に関してはちょっとくらい間違ってても著者さん悪くないよ!!
よく考えてみたら同系統なのだろう瀬沼さんの本でプロ文の前史に関してがわりとしっかりしてたのもここからスタートしてたら当然かもなー。


2月8日めも。


小田切さんの本の話。
いいところはプロ文の『文藝戦線』までと『文藝時代』に関してです、特に面白かったのが一応対立的な雑誌なのだろうに、文芸戦線が発禁喰らったらそこの代表的な作家さんだった葉山さんが文芸時代に変わりに載せていたことですね。
あー、うんうん、平凡社でこの2雑誌を合わせての全集出してたよねー。
あと利一くんや川端みたいな、初っ端から強かったとされている若手も(多分滑り出しの滑らかさでは当代一じゃないかしら…、一時大変に華々しくというより、もうレールの上というか)、頭おかしな言動があるんだなって安心したことでしょうか。
同人誌で見たのと大差ないような、我々が世界を支配するんだ的な。
そんなこと言われても、利一くんって菊池さんが改造の社長に「くれぐれもよろしくね」と頼まれていたとかそういう、後ろ盾どばーんな人たちなので。
そんなこと言われても。
新感覚派たちに対して中堅作家としては如何なものか、的な指摘をしていた論文を書いていた人は、なぜまた、完全にぶら下がったままで「前世代の作家は全て処分しろ」などということを語ったのかということに触れたほうが良かったんじゃないのかな。

やっぱり作家って、一度は頭おかしな思春期ムーブを打ち出すんだな…。
そう、菊池さんにおいては自分は能力がないのではないかという…あの人の思春期なんか変だよな…?
あまりにも能力が高すぎて世界が自分に嫉妬☆ みたいな万能感と考えると、まあ、大抵誰にでもあるよね…菊池さんは、なんだろなこれ?


2月9日めも。


小田切さんの本の話、続き。
良かったところは自然主義末期の頃に日本に渡って来た社会主張のある小説の紹介、プロ文初期の文芸戦線とほぼ同時代の文芸時代について。
以上終了となります。
んにゃ、鵜呑みにしないんなら参考になりそうな部分もないでもなかったんだけどさぁ、あと、若干引っ掛かるところはあるけど、そう問題もなさそうみたいな、伊藤整さんの『日本文壇史』よりはマシだなってのも結構あったし。
単純に私が知らなくてピンと来ないようなジャンルもあったし。
しかし、同時代に売れてたみたいな本が全くなかったので、それを把握することが利益があるのかないのかちょっと私には判断出来なかったんだよな。
あ、覚えて損するかって意味ではないです。
好きならそれをうんぬんするつもりもない。
義務的に短文と人名を詰め込む価値があるか、他の本を読む時に役に立つかどうかって意味で保留って意味ですね。
まあ小出版社研究とか読んでたら役に立たないものは少ないだろうし。

とりあえず、菊池さんは通俗小説を多少変質させたようなものを生涯書いていたわりと売れていた人という認識のようでした。
いや、中間小説の原型として挙げられていたり、利一くんへの助言でしか出てこなかったので、あくまでも推測なんだけどねー。
なので彼に関わった文壇事業が全てさっぱりと消えてました、あれだ、空白の時代だ。


2月10日めも。


小田切さんの本の続き、だんだん投げやりになりますご了承下さい。
あとあれ、文芸戦線まではとても良かったんですよ、特にずたぼろだったところ良かった、葉山さんという人がプロ文の本において神のように崇め立てられ日本を代表する作家として堂々と押し出されているのを見ることがあるのですが。
文芸戦線の中でまともに内容のある小説を初めて書いた人だということを初めて説明されまして、ああはい、はい、わかった、あの若干異常なまでのヒートアップもよくわかった、というか確かにこれは奇跡と呼んでも差し支えない。
挙げ句の果てにちゃんと一般の商業雑誌で評論付いたんですよ!!
プロ文たちにとっては驚天動地の出来事であり、葉山さんがどれほどまでに感動と共に語られるに相応しい人なのかどうかもよくわかりました。
ていうか、彼が結構簡易な「読み物」に近いような簡易な書き方で書いてハードルを下げてくれたおかげか次から次へとプロ文独自の作家が生まれまして、そこからプロ文が軌道に乗ったってことを考えるとまあ確かに日本の歴史も間接的に変えてるのかなぁ。
まあプロ文が日本の歴史を変えたかっていうと私には判断出来ないですが。
個人的には変えてないのではないかな、と言いますね。
だからってそれがよろしくないとは言わないけど、だからって葉山さんが日本の歴史を変えたかって言われると、あー、保留で、とはなるというか。仕方ない。

プロ文以外からすると普通の作家さんです。
数年の間はわりとちゃんと書いてらして内容も整っているけども、数年で終了してしまったわりと普通の作家さんです、レベル高くも低くもないと思う。


2月11日めも。


小田切さんの本の話の続き、いや、前回は葉山さんの扱いが本によってあまりにも違いすぎるような? という理由がきちんとした形で判明したという意味で私にとってはとてもありがたかったです、文芸戦線に関しては本当に何一つ疑わない。
というか、文芸時代に関しても知らないことは踏み込んだりしてなかったしなぁ。
あまり詳しくはないけれど、同時代をやった範囲でわかったことに関しては書いておきますね的に詰め込まれていてとても好感が持てました。
同じ時代の話しかしてませんが、近代文学の本なんですよね。
そしてあと、著者さんに対しての悪感情があるかというとだいぶ微妙な感じです、次に本を読むか読まないかと言われたら、迷います、すぐに読むかどうかは、なんか細かいテーマとか扱っててちゃんとご当人が調べてたら大丈夫そうだけど、という保留な感じにやっぱり迷います。

文芸戦線からあと、なんだかよくわからない情報のノイズのようなものが。
いや実際、なんだったのか今も謎なんですが。
なんかね、とある派閥の頭に重治がいるんですよ、で、へー、そうだったんだー、と読み進めてくと重治が同人誌を田端で立ち上げてるんですよね。
あ、はい、学生ですか。
ただこのプロ文の派閥としての重治って、文学排斥みたいな感じのことをしているんですよね、意図はそれぞれ違うらしいんですが、そもそも「フィクションは封建制の維持として機能する」という意味で否定する人たちがいるんだわ、まあそれはいいと思う。
文学の排斥しておいて同人誌立ち上げ…? いやなにそれ、と。


2月12日めも。


小田切さんの本の中に出てくる重治の話の引き続き。
文学排斥をしている学生も同然の重治が同人誌を立ち上げているということは小田切さんも気になっていたようで、芥川が出てきて、重治が創作を止めようとしている、やめないで欲しいのだと説得されたという展開をして、彼は文学排斥をしなくなったのだ的にまとまってるような雰囲気なんですが。
まあそもそも学生だし、プロ文の文学研究系の人たちや社会劇の人たちと同人誌を立ち上げてるって話だし、時系列まずきちんと並べ直して、そうでなくても「彼を代表として書くのは適当ではないのでは??」ということは考えないでもないんだよな。
ただね、小田切さんを責めるつもりはなく、何年になにが、ということをいちいち毎回書いてくれてるんだよね。
その気ならこの本だけでも並び直しは十分に出来るし、並べ直すと多分なんかその時点でおかしくないかこれ、という内容だと思うんだよね。
どうもこう、重治が文学排斥をした人だっていう説のほうが先にある予感が。

てか、文学排斥って「フィクションが封建制の擁護の機能があるから」っていう認識に関して書いてないんですよね、なので哲学系の人やら政治系の人が語る分には正直仕方ないと思うんだよね。
なんかね、この本、大衆的小説の排斥って読めるんだわ。
純文学を守るための戦いになって、ない? いや、多分怒られるんでそうは書いてないです、が、なぜバッシングをするのかという前後がそんな感じに…。
これ多分、規制作家たちがバッシングをしていたせいですね、たまに読む。


2月13日めも。


小田切さんの本の続きのプロ文の話。
既成作家たちが直くんや貴志山治さんをフルボッコしてた時に売れ筋非難の要素があったのはまあ別に気にならなかったんだわ、まあ実際、そういうつもりだったんだろうしねー、しまいにゃ文芸戦線系からして完全排除されてったとか、それが国外にあったという本部の決定とか、文芸戦線は評価されていたのに!! とか、いろいろ政治的などろどろした話をしていたんですが。
文学排斥をしてるのが重治、多喜二、宮本顕治さん(百合子さんの旦那)の揃い踏みともなると全く集中できない、そして貴志山治さんだったところは林房雄さんになっていたりしたんですよ。
え、多喜二そんなことやってた?! 別のことしてなかった? ていうかもう多喜二は国に追われて地下生活をしているというのに、直くんだけわざわざ地下生活の中で文学は許せんって排除し続けたみたいな??
これはさすがに「おかしい」とおかしい前提で読んでいたんですが。
そういや、林房雄、重治って普通に結構名前知られてるんだよなー。
直くんと多喜二はベストセラーコンビで直くんはめっちゃ突然に出て来た人としてちょくちょく見掛ける人で葉山さんとはインパクトが段違い。

宮本顕治さんという人は転向しなかったということで、なかなか評価が高い(要するに投獄されっ放しという)、もともと見てた面子が出てこずなぜこういう面子だけで再構成されているのだろうと翌日には突入しました。
小田切さんが話を作ったんじゃなければ、まあ証拠は他にあったんだろうね。


2月14日めも。


小田切さんの本の中のプロ文たちの話。
繰り返し申し上げますが「え、これ話を見たことがあるのに構成してる人物が違う?!」というところまでしか私程度だと言えることがなく、結構くっきりはっきり書いてあるので証拠もあるのだろうとは思うんですよね。
著者さんが悪いとは正直あんまり思えないんだよなー。
しかし、見れば見るほど他の情報と噛み合わない…。
正直私は断片的な情報を組み合わせていく感じで記憶していくし、断片情報が合致すれば信用するみたいなことをしているので、そういう意味ではエラー音が出っ放しな感じでした真面目に。
ただ、証拠なしで作ってるというのには細かすぎるし、派閥に関してはきちんと分類されていたのでそこを誤認してる可能性が少なさそうなんですよね。
そしてこういう網羅的な情報の整理の仕方をした時はそうそう妙な証拠には左右されないはずなんだよね…、文学関係だと特に顕著なんですが、自分の研究領域だけがっしりと理解してる人ってのはすごく多い(他の時代のかっちり度は人による)。

逆に、それだけきちんと分析していた人の場合、しっかりはっきりした証拠が存在していたと考えたほうがいいんだよね。
が、後続の研究ではそれは否定されていて、他のジャンルでまとめたり同時代の資料を読んでいてもなにかが違う(詳細はないから違和感がある程度なんだけどねー)。
これはこう、一体なにがあったんですか、案件なような、気が…。
そういや文アルイベントでも怒り狂ってる人たちいたよなぁ。


2月15日めも。


小田切さんの本の話とプロ文と、あと文アルイベントの話。
そういや直くんの登場イベントにおいて「何様なのか裏切り者が!!」っていう感じに怒ってる人たちがいたんだよね、まあどこにいたのかは…どこだっけ、ああいや、あれだ匿名の、ついったにもいてもおかしくなかったんですが、その辺はどうだったんだろう、あんまり私はその辺を探しに行ったりしないしな。
(よく見てる人はいますけども。)
ただこれ、検索して人にもこの怒りを共有して貰おう! と考えたとするともう内容書き変わっちゃってるんだよね。
私が見たのはまあ主にそれなので、本で直くんを探せるレベルじゃなかったんで検索で見たりしてました、なにがなんだかわからないー、みたいな話もしてたね。

うんつまり、これは、どういうことなんだろう。
あの時の人たちにはなんとなく嫌なものを感じるだけで、そのまま時々思い返してどういう意味だったんだろうなぁ、と反芻してたんですけどもこう。
どこでなにをご覧になったのかを、きちんと聞いても良かったという気もする、ネットの情報とはすでに違っていたのは事実なんだし。
しかしまあ、年代を細かく列挙して重治の動向を妙に詳しく書き込んでたり、多喜二が地下生活をしながら直くんを非難していたと書いていた小田切さんが鵜呑みにしていたとはやっぱり思いにくい。
なにかおかしいと思いながら従わなければならないような内容が他に、あった。
下手すりゃ、この直近の世代が普通に否定してってもおかしくないもんな…。


2月16日めも。


小田切さんの本とまあいろいろな話。
プロ文に関しては読んだものそれ自体はともかくとして、やっぱりこの人が悪いとは思いにくいところがあったり、中間小説にしても本来の意味と切り離していた解説があったものの、これは普通に戦前の中間小説のことね、となったりとか(戦前の話をしながら戦後発祥ですと別の人たちをピックアップして話が出来上がってた)、まあなんかこう、ううん、いや、こうして10日分まとめてみると、説そのものは旧世代のものであってもこのあとに瀬沼さんなどにつながる系譜のようなものは感じるかなぁ。

ただ、さっぱりと純文学が全てで、結果的に白樺を持ち上げるものの内実について語らず、なぜ純文学が全てなのかが常に曖昧みたいな本ではありました。
要するにあれか、文芸戦線に関しては完璧、新感覚派に関してはありあり、脇の事情においては汲むべきところはある。
戦後の出版事情に関しては出版社の乱立とその倒産というめっちゃスタンダートに語られていることがかけらほども存在しなかったという点で、なんの意義もなかったんですが、あんまり熱意は感じなかったんで別にいいです。
やっぱり中間小説の戦後発祥したメカニズムだけだな気になったの。
ええとですね、久米さんとか菊池さんとか民衆寄り融合を旨とした利一くんを中間小説の原型とし、それに倣う人たちが戦後に出て来たみたいな、白樺に対する傍流としての位置を与えて構成したみたいな話なんですけどね。
まあこれ、出版の歴史とかそういうものじゃなくて、心の王国のお話だったんでしょうね、なんだろう、やっぱりどこまでも複雑な気持ちになる本だった…。

(文或と近代もろもろ、144)
最終更新:2019年04月18日 22:05