雑記:文或と近代もろもろ、142


1月18日めも。


リアルタイルは4月13日、ぐるぐるもやもやしています、とりあえず私はもやもやしている時に単純なゲームを繰り返すみたいな癖があるんですが、それをやる前にもうちょっと歩いたり運動したりするほうがいいというみたいな後悔をしているんですが。
しかし考えてみればこの問題、歴史の中でも繰り返し見たなぁ、と…。
あれですね、前にヘタリアの近辺で遊んでいた時にでっかい教科書がありましてね、各国版教科書ってやつ、そこで中世の欧州において(国境は近代になって成立しました、国というより各領主たちの寄り集まり)、「妻に暴力を振るうことの禁止」というお触れがありまして、その時の男たちの嘆きがすごかった。
なぜそんな非人道的なことが許されるのか!!! みたいなの。
たまに見るんだこの非人道的なことって加害者が語ってるの、朝鮮半島の人たちを強制労働させてたかどうかみたいな話あるじゃん? どうもあの労働者の人たちは人並みの食事や休憩を与えるように抱えてた親方が守ってたらしいんだよね。
私が読んでいた資料本でそのことを暴露した方が、こんな非人道的なことがあっていいのか、当時の人たちがどんなに辛かったか、どんなに彼らをまともに扱うなと懸命になって主張したのかというその悲しい歴史が記されていたんですよ。
あれ、写真多めのふくろうの本だったかその辺。
いまだにその記述は覚えてますが他の部分は全部忘れた。

そんなことあるわけないって言おうとして、ふと思い出す、ブラック企業において人が死んだ時にどんなに生温いのかと一斉に責め立てる人たちの姿。
誰かに暴力を振るわないと人道が確保されないって意味なのかしらこれ…?


1月19日めも。


ところで4月半ばくらいなんですが、少し前にこんな話をしていたんですよ、【小説家になろう】というサイトさんがありましてそこのファンタジーが最近わりと元気がいい、というかアニメははっきり言って面白いです。
が、原作は正直しばしば辛い。
基本的に異世界ハーレムスタイルであることはあんまり問題はないと思っています、だって願望充足ってこの世でそれ以上に正しく物語りに求めたほうがいいものがあるかよって思うし、他人が物語りで清く正しく願望充足してる時に責める人のほうがなんぼか人としてまずいって思ってるんだよね。
こう思う理由はあとで語るんですけども。

が、ハーレム作品において混ざると危険なものがあり、それがあると激しく萎えるので出来れば止めて欲しいなってなるものがあり。
「お説教」なんだよね。
なんで駄目かというとキャバクラで水商売が駄目だと説教する人のごとく、ハーレム楽しんでる人間にされる説教はさすがにきっついんじゃ、この野郎がまともさのかけらもないなって閉じちゃうんだ。
あ、いや、作品がこの世にあってはならないということではないです、ただ、「ハーレムにおいて説教をする」ことがこの世で一番の快楽という類いの人間以外には楽しめないものになりますね。
相手の尽くし方が足りないっていう、もっと気持ちよくさせることは出来ないのかという、相手を窘めるための言動はさすがにフィクションでも楽しめない。


1月20日めも。


「ハーレムの構成員に対しての説教」でさえなければある程度は許容出来る部分はあり、昔辛かったぁぁ、とか泣くとか、あの人たち可哀想とか生ぬるいことを言うなり、めっちゃ甘ったるい話であっても社会の敵となったみたいな状況下における説教は、そこに敵対関係があるのでまあ別に気にならない。
説教が説得力があるかどうかの問題じゃないんだよね。
母親のおっぱいに吸い付きながらお前の乳の形がと説教するみたいなのはさすがにフィクションであっても全くもって楽しくない。
だってその説教してる人と話通じそうにないんだもの。

しかしこれをもって【なろう】というサイトそのものを否定するつもりはないんですよね、だって彼らは自分の願望を充足させようとはするものの、人気というものも鑑みる、評価されるのは多数の評価がないと駄目という構造になっている。
エンターテインメントにおいて多数の人、多様性のある人々の評価を得るというのは少なくとも上の要素なんかは否定されていく傾向があると思うんだよね。
要するに説教ハーレムじゃない面白い作品のほうが人気が上がり、それはあまり効能がないのではと自然に気付いていくということが自然に期待出来る。
あ、なろうというサイトはそういう人気ど真ん中要素においての選別をするという意味ではほとんど足りないところはないとは思っているものの、ニッチ要素マイナー要素においてはどうかなぁ、とは思っています。
最良の形式とは言い難い部分はあるかなぁ、と。
まあこの辺はおいおい。


1月21日めも。


おっぱいを吸いながらその形についての批評をするということが、正直女なのでどれほど圧倒的な快楽なのかはわからないんですが、そういや、自分に服従している相手に罵倒を浴びせたいという形での「女としてのマナー」「男としてのマナー」はわりと簡単に思い出すことが出来るので、まあよっぽど気持ちいいんだろうなぁと、思うんですが。
フィクションにおいては読みたくないけど構わんだろとしかやっぱり思わない。
ところが見事にこのパターンに進んだ集団をもう一つばかり思い出すことが出来まして、大正時代から昭和初期くらいまでに各地に存在した文士村が、そういやこのスタイルの作品だけを芸術って言ってたな?! と思い出すんですが。

えーとね、まず出世しない男です、これは明治末においては良かった。
どんなに能力があっても時代の変遷のため、世に出れなかった、辛かった当然だよね、その苦しみをその立場が弱くても語ってもいいはずだ、と自然主義が世に出て来たわけですが、これ自体を否定するのはあんまり良くないよね。
大正においては努力をしない人が出世をしなくなりました。
そして明治末においては上流階級にしかいなかった教育を受けた女が約半数となりましたが、彼女らを描くことは邪道として通俗小説として女性向けとして差別されました。
努力しない男が自己主張しない女たちを次々と物にしていくという、少し昔にあったバンドマンの女食い荒らし小説が見事なまでに爆誕し、彼らはそれのみを「純文学」と呼んでいたのは知っていたんですが、今ここに【なろう】の「説教ハーレム」を思い出すと見事に合致し、なろうのほうが数百倍ほどマシだという判断をするしかありません。
まあ文学史においても通俗小説って呼ばれてるんだけどな、いや本当に。


1月22日めも。


文士村以外にも「芸術を旨とした」集団があったんですが、その集団の作品傾向って正直よくわからないんだよなぁ、ああ、文士村の場合は同時代のゴシップに巻き込まれてたり文士村の崩壊ののちに事件記者として名が知られてたりして作品については少し知ることが出来たんですけどね、まあ作品単位で語られてることはないです。
あとあれ、プロレタリア文学において大衆化路線を叩いた派閥の人たち。
それと小山内さんが率いていた新劇と呼ばれる人たちが芸術的な高みにあることを目指していたらしいんですが、作品傾向が…ううん。
いや、さすがに説教ハーレムではなかったです。
彼らがそこまでやらかしてたら社会的な地位はあったし、さすがに普通に引かれてたろうからな…(作品傾向は一部しかわからないんだけど、発言力はあった)。

あ、白樺も一応芸術集団なんですが、民衆との融和を目指した「民衆芸術論」とか、宗教ブームど真ん中とか、あと一段下が講談雑誌みたいなところの看板を張ってらした作家さんがいたりとか。
芸術的に高尚さを目指すとは別のところにいらっしゃるので大丈夫です、むしろ多分傾向としては真逆で、一応高尚さを目指してるらしいんだけど…、中学生が読む本として認識されていたりとか、なんだろう、いい意味で外してく感じ…。
個人的には高尚さを目指していたほうがびっくりでした。
しかし、【なろう】と文士村が合致したことを考えると芸術的に高尚というものはそもそもそういう庶民向けど真ん中と自然に被ってくことになるのかしら。
まあ、民衆芸術論はだいぶ高貴になっちゃってたけど…これもなんでなのか。


1月23日めも。


ところでしばらく前から苦悩していた、「完璧なヒロインのいる作品」の一群がありまして、この作品の傾向はたった一つ、当人の責任が一切ない不幸に見舞われるというものなんですが、この不幸の数が少なければ少ないほど比較的一般的にも読めるようになりますし、中には芸術的という評価を得ることも不可能ではないと思うん、ですが。
私は鏡花のあれが好きですね、外科室とか、もう一つのほうのは読んでないけど。
まあ実際に芸術的な高みというものがあるならあの辺なんだろうなと思うんですが。

白血病でヒロインが死ぬ「から」芸術性が高いんじゃないかなって言われる作品あるじゃないですかわりと熱狂的に。
からじゃあないよな、と私なんかは思うんですが。
死を扱うとチープになりやすいじゃないですか、死を扱うという最大のチープ要因を乗り越えてまともな話として説得力を持っている作品は非常に稀有って言われたらわかるんですよ。
チープさど真ん中の作品が絶賛されてるんですよね。
ことここに至り、「説教ハーレム」を思い出してしまうわけなんですが。
鏡花作品が好き、死んでしまう作品はだいたいなんでも好きって人は正直こう、とても素直な感受性の高い方だなって思うんですよね。
死ぬことは皆悲しいよね、みたいなの。
芸術性が高いんじゃなくてそこに素朴な悲しみを見出すみたいなの。
人が死ぬ作品であるから芸術性が高いって人は、どうも苦痛が描かれてることを賛美してる気がするんだよね、ちょっと続きます。


1月24日めも。


苦痛を好む人がいる、いる、と考え。
そうすると思い出すのは「完璧ヒロイン」が出てくる作品でそれ以上の能力のある男が折れて二人が上手く行くというタイプのハーレクインがまず一定数ありまして、そこで、「なんで男がクズじゃないんだよ!?」と暴れたくる女性の人が必ずおり。
なんだろうこれは、と思ってたんですけどね。

これはヒロインの立場で暴れてると思ったのでなんとも不気味だったんですが、ヒロインが甚振られるシーンを見たいという点においてはそんなに違和感がない。
というか、そういや、プロ文の一系統の人たちが書いてた、ひたすら農民が甚振られて終了するという社会性が高いという触れ込みの作品群。
どういうわけなのかリアリティがあまり要求されておらず。
苛烈に甚振りが続くことによって高い評価を一部に得てるってことになる。
多分地主の側にもそうなってしまったという理由を書こうものなら「男がクズじゃない!!」と暴れる人がいそうな気がしてしょうがない。
これあれ、昨今話題の貧乏人のお楽しみであるお怒りサービスの一環。
ローマ帝国で行われていたというライオンが囚人を引き裂く公開処刑じゃないのかなー、ということをふと思い至るんですが。
この一群の人たちが自分たちの気高い芸術性が認められない、とか、貴方もいつか成長したらわかるわ、私は諦めないというムーブを出しておられたんだなー、と納得。
庶民はこういう剥き出しの苦手なんだよね、最低限の言い訳や正当性を欲しがるので野蛮性剥き出しだと駄目なのよね、ああまあ、それで勘違いに至ったのかしら。


1月25日めも。


ではここで小新聞の話をします、小新聞というのは今で言うゴシップ誌、イエローペーパーみたいなもので、そこでの売りが説教と正義。
公衆道徳のためのゴシップ記事を扱っておりました。
事件記事を純粋に出したら受けるだろうと考えた新聞主はきっとまともなインテリさん、そんなことは全くなく、なんにも受けることはありませんでした。
しかし確かに、あまり適当な記事であると嫌であるという読者はいたのです。
まあ「高橋お伝」の殺人事件の時に本当にいたんだけどな、各社競って盛ってったんだけど(仮名垣魯文が一番張り切ったの書いてたよ、いつものことだけど仕事選べよ)、結局最終的に盛りが若干の憶測のみという感じの本が一番売れたというみたいなことになったんですけども。
まあこれは、やりすぎだったんだと思う。
魯文さんは前にも福沢諭吉さんの本をパクって『欧州道中膝栗毛』に書き換えていたりしたんですが、ハイパー売れたから次! と業界が目論んだらもう次が売れなかったという話もあって好きなんですけども仕事選べ。

これなんかも言い訳が必要なのにそれが与えられなかったから、罪悪感メーターが働いてちゃんと知りたいって気持ちになったと思うんだよね。
そっからお伝さんは悲劇の人になってったみたいなんだけど(それで悪いニュアンスだけじゃないみたい、ややこしいよね、やりすぎてごめんねの気持ち)。
この辺の罪悪感は私は別に構わないと思うのよね、この罪悪感がないことが自慢の芸術性ってどうもやっぱり、リアリティの追及しろよ別視点を見ろよってなるのよね。


1月26日めも。


「愛されハーレムの中での説教」ってのはもうこれは簡単に言うと幼児返りで、いわゆる万能感って呼ばれてるものの代償じゃないかなとわりと素直に理解出来るんですけども、なので正直、その自覚がある人がその作品を楽しむとかその作品の中でのみ楽しむとかむしろ普通の人よりも強く抑制効いてる気もしないでもないんだよね。
欲求が健全かどうかは別として、この構図にはあんまり不健全なものは感じない。
ただ、この手の作品群に若干気味が悪いことが起こることがあって、この手の作品群に対しての説教がまず一般的に起こり、そのカウンターとしての「この作品こそが芸術の極致」と語る人たちが出てくる現象ですかね。
まあ文士村みたいな具体的なところまで出て来たので、ぶっちゃけて芥川がこの手の作品を書くことが、出来ない…!! という苦悩を抱えていたのを思い出すわけですが、しかしよくよく考えたら書けてたら吹っ切れてて良かった気もする。
繰り返すけど、万能感の中にいたいって気持ちそのものは別に不健全じゃない。
それが世の中に通じるって考えることとは全くの別物なんだよね。

具体的に言うと「誰だって万能感に浸りたいよね!」は健全エンターテインメント、「誰だって俺の万能感にひれ伏したいよな」の違いです、挙げ句に前者を責めて優越感に浸るのはだいたい後者の芸術タイプっていう。
うーん、この後者と、もう一パターンの「ライオンに囚人を引き裂かせる」タイプの芸術って同じなのかなぁ、別物なのかなぁ。
確かに支配したいという気持ちは感じるものの、真っ直ぐは結びつかないんだよなぁ、うーん、あれ、他人が人並みの生活をしていることへの怒りに似てる気がする。


1月27日めも。


で、最後の日なのでここで結論出ても出なくても終わりなんですが「説教ハーレム」における万能感というのは要するに近代から現代に至るまでに普通に解消され、それは普通にエンターテインメントとして認識されるようになった、という結論になるわけですが、そういう意味では【なろう】に日本人の進化を感じるんだけども。
文士村自体は論破されてなかったからな、作品も一部残ったし、何人かはそれを崇高だと信じたまんま死んでいったみたいな、辛いことになってたんだけど…。

どうもこう、もう一方の「ライオン引き裂きプロジェクト」はいまだに未解消であり、これはフィクションの中に閉じ込められてないような気もするんだよな。
これがプロ文の一派閥ってのはまあ、一部の人の作品傾向でしかないけど。
あの人たち、やったら説教ぶちかますから苦手なんだよなぁ…、作品としては同時代にはすでに未熟って言われてるんだけど、言動に関しては相手への批評として機能したらしいという事実もある。
しかしやっぱりこれも、なんかしらの不完全さの上に成り立っていて、なんかしらの方法論によっては論破出来る気がするんだよな。
貧乏人のお怒りプロジェクトの近くにあって、しかして庶民の支持は得られないというなんかの捩れがあるという。
しかし庶民すらそっぽを向くほどにレベル低いところに作品としては存在してるってのも、なんというかまあ、なんだよなぁ…。残酷なる真実を伝えるためみたいな芸術性の信じ方なのかな、リアリティは厳禁だけどね☆
あ、この一枚は現実社会は数人しか思い浮かべてないでっち上げです。

(文或と近代もろもろ、142)
最終更新:2019年04月13日 21:51