放送大学:『世界文学への招待』(2016年)


2018年

10月10日めも。


リアルタイムは2019年1月18日、講義が2月末くらいまで半年一期であるということを確認しての見切り発車です、基本的に15回の講義を10日分に圧縮する予定ですー。
講義名は『世界文学への招待』の2016年度版。
第1回講義が「世界文学の時代へ-本科目のねらい」、第2回講義が「内なる外あるいは外なる内-アメリカ文学の新しい潮流」、第3回講義が「つねに戦争中-アメリカ文学と戦争」、講師はだいたいどれもそんな感じだけど5人くらいだっけ?
メインが2人くらいいて、専門分野で3人とか5人とか呼ぶんだよねー。

で、第3回までざっくり見たところまではわりと幸先が良かったんですが、あと、第2回(第1回は講義の大まかな流れ紹介)の記憶まではきちんと残っていたものの、第3回講義の内容を書き出そうとするまでにすっぱんと忘れてしまい。
それを見直しするのにやたらと時間が掛かり、時間が足りなくなるのではという思惑もあってさらにさぼりました、終わらないと無駄だしさ。
まあ私って全体的に目標立ててもそんなことが多いんだけどね!
ただでさえ3回分講義を圧縮してるのに余計な前置きでだらだらと長いんですが、第2回講義と第3回講義を通してアメリカを舞台にした小説というのは、ボーダーラインを描くことで傑作足り得るみたいな印象が残ったかなぁ。
アメリカに住み言語が英語でなくてもいい、さらなる新しい世界の扉を開く。
アメリカの外に住みアメリカに向けて発信する小説があってもいい、客観性をもってアメリカを通し世界を描く。
戦争を描けば人間の本質へと迫っていくという、ううん、アメリカの存在感でかい。


10月11日めも。


『世界文学への招待』の第4回講義は「フランス文学とクレオール性の文学-「異郷」で発見する「故郷」」、残り12回分はどう9回にまとめるのが無難かなと考えているんですけどね、つまりあと3回分を丸める感じの。
この次の第5回がアフリカの旧フランス領出身のフランス語作家っぽいのでまとめてしまってもいいような気がするんだけども、ううん迷う。
ただこの回、私個人的にすごく好きなんだよなー。
マルティニクの作家が語っていたセゼール(クアドルプール出身の作家さん、カリブ海に浮かぶフランス海外県、同じく海外県であるマルティニクとはお隣のお隣の島かな)が、あまりに美しい詩を発表することによって世界を変えたって話、まあその時点では聞き流していたんだよね。
ところがそのセゼールが講師さんから直接語られた時に、彼らはパリで白人としての生活に誇りを持ち黒人であることからなるべく離れて生活しようとしていた。
まあある意味で、パリはそうして自身の前身を否定しようとした人を受け入れる程度の度量はあるってことなんだとも同時に思うんだけど。

しかし、彼は考え直し我らは黒人としての誇りを持つべきだと彼は作品を書いた。
大きな反響は得なかったようです、パリにおいては、まあ、そりゃそうなのかな。
ただ、黒人たち、少なくともフランスの黒人文化圏の者らはそれ以降、自分たちの故郷の地位を改変しようと動き始めたっていう話。
おお、おおお…、これは間接的になのかもしれないんだけど、物語が世界を変えた話だよね? となったんだよなぁ、ガチ案件だよ、ガチ案件だ…。


10月12日めも。


第5回講義が「「アフリカ」というステレオタイプを越えて-アフリカのフランス語文学」となるんですけど、毎回正直長いよな、いや、無駄に長いとは思わないんだけども、これ見て決め手になるかっていうとどうなんだろうと思うというか。
まああれ、説明として最適化されてるとはいまいち感じないですかね。
ただ、結論の一部だと考えるとこれはこれでありだなって(見る前ではなく、見終わったあとにコミットしてる的な結論)。
ところでリアルタイムは2019年の1月29日です、ここの名目上の日付けは2018年のものです、打ち込み始めた時点の日付けでいいだろって思わないでもないんだけど、やろうとした時期の名残はあるんですよこれでも…、どれほどまでに計画から実行までに時間掛かったのか的な。

あとあれ、偏見の一部のことをどうも「シンプルストーリー」と呼ぶらしいんですが、あるあるあるある、とめっちゃ頷く羽目になりました、アフリカだと貧しい生活とか壮大な自然とか、同情されても感動されても自分の環境とは違うんだけど、という態度が許されない状況というか。
アフリカに詳しい人がそういう思い込みするんじゃないんだ、極端に情報が少ない人が勘違いするんだ、しかも、アフリカ出身の当人が語っても否定してくんだ、詳しいと思い込んでるわけですらないんだよね、詳しくないけど思い込みが絶対みたいな!
まああれ、主題はそこじゃないんですが、その状況をぶち破ることが出来るのは唯一文学だけじゃないかなー、と言ってらして、そういや前回講義でも世界を変えた詩の話してたなぁ、うん、だからこその世界文学か、うん、深いな。


10月13日めも。


えーと、第6回講義が「現代アラブ文学への招待-でも、招待状は何語で書かれるのか?」、第7回講義が「現代パレスチナ文学-魂の破壊に抗する文学」。
同じ女性講師さんで、どっかで見たことある気もするなぁ、岡真理さんだっけ?
正直日本でアラブ文学が語れる人なんて限られると思うので、どこでなんの拍子に見ていてもそんなに違和感ないんだけどねー。
そもそも研究対象があんまり触れられないわけではないわけじゃん、アラブ世界、ご当人も紛争の記憶だけは誰もがしっかり持ってるって言われてるわけだし。
シンプルストーリーとかじゃなくて、明確なニュースの記憶で持ってるんだよな。
まあ、この回はどちらも第5回講義のアフリカと違って、かつての植民地支配の重い重圧である負の側面、そして否定しようのない本来は女であれば教育を受けることが叶わなかったという正の側面だとか。
アラブ世界ではなくされてしまったパレスチナ(人造国家イスラエルのアラブ人居住区域)に住まう人たちのイスラエル人にも伝えようとする訴えなど。
言語的にも地域的にも宗教的にもいろいろ混ざっている現状。

中にはクルド人のように自分たちのクルド語とはまた違う土地の言葉であるアラブ語を使ってアラブ人ではないけれど、アラブ語で書かれる小説があったり。
なんというか、文化文明や人種が混在する土地だからこその多彩な状況があり、その状況と今の小説は切り離すことが出来ないって語ってるんだよな。
国家イスラエルに対しても敵対者と同じ存在になっているという形で語るなど、共感することも多かったけど、文学は日常を語るところを目指して欲しいんだよなぁ。


10月14日めも。


第8回講義が「文学のコスモポリタニズム-媒介者としての二軒の書店」でリアルタイムは2019年の2月15日、そろそろ2月末までに全部見れるかどうか不安になってきたので巻いて行きたいのですがあと何回だっけ、あと7回分か…不安。
それと時々を通り越して頻繁にパソコンが止まるのでいつ強制終了をするものかとても不安です、なんだろう、久々に起動したからかな。

で、まあ、フランスのベル・エポックの時代に、要するに第一次世界大戦と第二次世界大戦の間にフランスに、特にパリには楽園のような時代が現れていたのだと語られることがあるのですが、実は日本にも近いものがあるんだよね、中庸の時代というか。
この時代にパリに作られた二軒の書店の話と、そこに出入りした作家たちの話であって、コスモポリタニズムの象徴みたいな内容だよなこれ。
また、その二軒の書店の店主が女性というのも味わいがあるし、その書店の客としてユダヤ人がいて、彼の救済にそのアメリカから来た店主が尽力するというのもいい、あと、細かいところは忘れたけど女性同士でパートナーとして住んでいらしたって話もなんかいいんだよなぁ。
ごった煮感があるじゃない。
マイノリティじゃなきゃ駄目とは言わないんだけど、それこそプロデューサーと翻訳家を兼ねた作家とかお金持ちって言ってたし、しかし、他の社会においてはあまり居心地良くは生きられないかもしれない人たちがその土地では信念と信頼のみで強い力を持つってのはそれ自体はすごく素敵だと思うんだよね。
貸本屋もして、ある時払いも許して、少女もそこから羽ばたいた、その時代にか。


10月15日めも。


第9回講義が「都市と文学-複数のまなざし、複数の声」。
第10回講義が「移動と文学-「世界」の「地図」を描く」で、一旦9回だけで独立で書いていたもののどうにもやっぱり内容が薄いような気がして、正直10回まで含めてもなんかが薄いんだけどな!!
この2回は主にプラハが舞台として語られていたんですが、あのねー、多分プラハという都市の多重階層性やらチェコの辿った歴史というものを念頭に置くと作家たちがそれぞれの立場で存在していることが面白く見れたんじゃないかと思うんですよ。
冷戦がどうのとか、同時代のパブの様子とか工場の様子とか(とある作家は文人が行くような酒場ではなく、労働者の行くような酒場を好んでいたとかそういうの)、まあなんとなく言いたいことはわかるんだ。
しかし頭の中でそれが描けずにうーん、みたいな。
今までの回だと冷戦の時に亡命者が出たよーん、というような内容をわりとじっくりと語ってくれていたからその違いなのかもなぁ。
記憶は、ないさすがに、ちょっと遠い時代で歴史としても心もとない。
ただ、西洋文学などに携わっていると比較的自然に接することになるような領域なのかもしれないなー、とは思わないでもないかも。

あとあれ、9回で語られていた現実社会の問題を取り込んだ創作と、世界の全てを描く創作みたいな分類ってあれ、日本の大衆文学(テーマ小説シチュエーション小説)と純文学みたいなものかなぁ。
彼は旅をすることで人生を描いたみたいなことも言ってたな、難しいね。


10月16日めも。


第11回講義が「植民地化、解放、南北分断-韓国・朝鮮文学の近代」。
第12回講義が「グローバル化/ポスト民主化と韓国文学-リアリズムの行方」だったんですが、11回講義はまー、正直なところわりと今まで定番の流れだったんですよね、このように国が展開してったからどのような文学がその流れに対して現れましたみたいなの、日本人なので無関係ではない部分も多い感じで。
ところが12回講義がなんかこう、全体的に作家の、…なんというのかな、人間性みたいなものが気高いというか、社会を文学によって救うってのがどの国よりもかなり明確に表れてるんですよね。
すごく上手く言えないんだけど、正直何度か拝んだ、尊くないかあれ…。

この回もいつものように韓国の辿った社会の様子と、それと連動した文学作品や、最後の紹介なんかは映画だったんですが、どうも韓国の作家たちってかなり社会的地位があるんじゃないのかなぁ、民主化運動率いてた詩人とかもいたし。
娯楽作品がないとは思わないんですが、なにかを訴え、それによって社会が考えるというキャッチボールがなんかすごい自然に出てくる感じ。
というか、今までの回と違った理由がわかった、社会がどう変化し、それに対してどのような文学作品が出てきた、というところまでで講義の内容が終わってたんだ。
ところが韓国のこの回に関してはこのような反響があった、という紹介がされているんだよね、これは…今までの国にもあったのかな、いや、そんな気もしないな。
「光州事件」に対しての被害者の視点はありふれていた、加害者の気持ちを描いたという作家に対しての文学の出来る最高の到達点って老作家の絶賛にちょっと泣いたなぁ。


10月17日めも。


ところで第13回講義は「お茶の間にいながら、世界文学-『源氏物語』と日本文学の世界性」という内容で、ぶっちゃけて最後まで見たら言わんとすることはわからないでもなかったんだけどあれだな、お茶の間っていう概念が古いんだよね、まあほら、なんか日本の方ではなかったので仕方ないよね!!
リアルタイムは2019年の2月21日、2月末までで多分講義が入れ替えになるのではないかと思うのでラストスパートな感じです、日付けを見るとそこまで辛いわけではないんだけど、見るのと内容を打ち込みするのが別の時点なので、さすがに詰めていかないと危ない。
無理とかギリギリって感じではなくなった来たかな、あと2回分だしね。

で、すごく大雑把に言うと「明治くらいまでの日本人はあんまり源氏物語を読んでおらず、パロディ本はないでもない、庶民が読まないのはまあ仕方ないんだけども、インテリ読書人ですら読んでない、その彼らをして源氏物語に向かせたのは英語訳の源氏物語だった」みたいな感じの概要なんですが。
私、一応この講義を見始めたのは文アルってゲームのせいだったので正宗白鳥さんがきっかけで大正時代に源氏物語が広く知られ、興味を持たれ、それを中央公論社長(鳩中さんの時代ね)が谷崎潤一郎に英訳版の日本語訳を勧めたんだよーん、みたいな展開はそこそこ面白かったような気はしますが。
もうちょっと間の展開がわかりやすいと嬉しかった。
で、この英訳の日本語訳をもって一般的に読まれるようになったそうです、めでたしめでたし遠回りだなおい!!! みたいな内容だったねうん、現実回りくどい。


10月18日めも。


第14回講義は「グローバル化する現代日本文学-日本語では読めない日本文学」なんですが、えーと、2月22日です、同年の翌日です。
ラストスパートというか、急がなくてもいいんだけど急ぎました。
まあすごくざっくり言うと日本の文学賞の芥川賞ってアメリカの基準だと中編に相当するんですけどね、中編ってアメリカだと売れないんですよね、と編集者たちにわりと論外と切り捨てられてしまうらしく。
アメリカのペンクラブにおいて受賞した作品は日本で2つ、中国の1つを含めても3つで50年ほどの歴史があるようなんですが、その中の一人である村上春樹はまあ欧米文学の翻訳者として知られ、めっちゃお作法があちら寄りですよね、と。
とどのつまりは自分たちの様式以外を評価する目を持とうという意識はあんまりないのではないのかなー、ということが語られていたんですが。
個人的にはまあいいんじゃないのかな、としか。
だってアメリカで作られた会の選ぶ作品だしな、一応英語圏以外の開拓を目指してるらしいんですけどもフランスとかイタリアとかドイツとか。

翻って日本での村上春樹が『まともな人間を描かない』という認識をされていることを思い返してもまあなんというか、見事な線対称だよなぁ。
両方聞かされてる人にはその、うん、なんだ、お疲れさまって思うけど!
日本語には存在しない作品の「外国語訳」の話や訳された時に生まれるドッペルゲンガーとか、グローバル化ってのも要するになんなんだろうね。
絡まってるという事情くらいは把握して生きていきたいかなぁ、正直。


10月19日めも。


第15回講義は「世界文学はどこに向かうのか?-全体のまとめ」だったんですが、あれです、2月末までで講義切り替えしませんでした! まあ無駄な焦りっちゃあ無駄なんだけどそれはそれで別にいいかなー、なんか半端だとは思ってたんだよ。
の、リアルタイム3月10日です。
風邪を引いてしまい、初期数日に出掛けていたためか、見事に拗らせてました、あとあれ、筋肉の蓄積が完全に尽きてた。
あるんだよ、体調悪いと筋肉減ってくっての。
しかし筋肉を減らすことで体調は回復みたいなの、いやそうじゃない、あれです、世界文学とは、みたいなまとめだったんですが。
一つの条件として複数の言語で流通していること、が挙げられていたんですが。
これに拘りすぎても無意味だよねー、みたいなことを。
まあそもそも、自分でドイツ語と日本語で書く人とかいるしね、とか言われると全くですね、母国語で書いてない人とか、支配者の言語で書いてる人とか、なんかこう、たくさんいたわけだし特にな!!
そしてあと、源氏物語は日本国内に英訳で復活したみたいなこないだの講義の話も。
そっかー、あれ確かにめっさ読みにくいもんな、いや、高校の時の友人がマニアだったんで原文にチャレンジしてたんですけども。

世界文学とはなにかを提示することで文学とはなにかをもう一度考えてみるといいかもしんないみたいなこと言ってたっけ、言ってはなかったっけ。
全体的に結論は出さない姿勢、文学者としては正直、誠実なのかもしれないね。

(放送大学、2018年その1)

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最終更新:2019年03月10日 18:39