雑記:文アルとか近代芸術、136


11月19日めも。


『大正の名著』というのを読んでいるのですが、『明治の名著2』よりも出来がいいような気がするのがどうなんだろう。
なら『明治の名著1』がとても良かったかというと微妙で正直めっちゃ退屈でした、ただし信用出来ない部分というものがなかった。
明治2に関してはあれ、明治という社会がもとがもとなので嘆く気持ちがわからんでもないんだけどもどうにも女権に関しての語りがしつこく(女性作家に関しては無理もないんだけど、実際、作家となるために離れ業もしくは夫の理解、もしくは夫に金を稼げと命令されたとかそんなんしかない、それ紹介するのが悪いとは言わねぇ事実だし!)。
なんというか不平不満で終わっていたのがどうもなー。
こないだ読んだキリスト教の初期教育が事実上の女を黙らせ、男の所業は旧世代の男よりもよっぽど乱脈(江戸時代までは妾は持つけど責任が伴ったんだけど、その責任が撤廃され、見せ付けるように妻の忍耐力を試すみたいな男が続出)、てな状況が語られてる時ならあのくらいの激しさがあってもいいんだけどね。

ちょっと前の時代まで実際にいなかった女学生を出さなかった、みたいなところはまあともかく、作品の出来が悪いだけで悪し様に罵らなくてもいいじゃない。
あれです、逍遥さんの『当世書生気質』より女性作家のインスパイア作品のほうが優れてるのにー!! みたいなの。
あとから作った作品のが出来がいいのは当然だし、それは逍遥さんのせいではないし、ぶっちゃけその当時に世に溢れてたらしいインスパイア作品群も同じように紹介されてないんだから怒られてもなぁ、みたいな。


11月20日めも。


ところであれです、読んでいるのは『大正の名著』です、ぶっちゃけまして独歩、藤村、花袋は『明治の名著2』のほうに入ってたのに秋声が取り上げられてるのが白樺勢よりも遅いのがリアルだなー、としか。

あとあれ、有島さんの「或る女」が取り上げられていたもののモデル問題については一切踏み込まず。
志賀さんに関しては身勝手さを成長させることなく振りかざした作家、として取り扱われていました、ああうん、あの、文壇の中でもかなりの地位的なニュアンスも付随していたものの(まあ上から数えたほうが早いかなと思うよ、頂点ってされるから複雑なのであって)、それだけ自らを律することなくまともに食べていけたんならそれはそれで一芸というか大したものだよな…。
私は正直作品の評価などをすることはないだろうものの、この勢いのまま数年前に終わったばっかの戦争を、出版業界においての責任第一だったと見做されていた人物を語る時にすらさっくりと無視ってのけたという事実がある限り、一定評価はするけどね。
確かに身勝手だけど、我が身可愛さで保身に走ることがなかった、相手が米軍相手でも軍部相手でも同じく!
そこまでいくと別にいいじゃんって思うんだよどうあっても。
まあただ、作品は読まない、無理することないよねー、うんうん。
この志賀さんの作品から旧弊の道徳に捕らわれず他者を笑いものにしないという精神を読み取った菊池さんの批評だけを抱えていこうかと思います、あれ好き。
それもそれでなんかがポジティブすぎる気もすんだけどな、まあいいやうん。


11月21日めも。


ところで『大正の名著』を読んでいまして自由国民社という出版社のようです、なんか蘇峰さんとこみたいな名前だなというくらいしか感想がないけど(見たことあったっけ、文学ジャンル以外で出版社あんまり見てないから自信がない)。
で、あれ、秋声の話なんだけどね、「ちゃんと」女性を書いてる作家で自然主義最高峰って書かれてたんだけど、これは納得の解説だなー、と。
ぶっちゃけいろんな作家の女性描写見てたけど、漱石さんがなんとか肉薄して頑張っているというところであとのはなんか男の身勝手さをありありと反映してるんだよね、えーと、なんというのか女はもので男の身勝手さを吸収するための装置みたいな感じ。
吸収する装置として働かない女は天が罰を与えるみたいな作品がとても多い。
鴎外さんなんかは非難されてたけど「男もまとも」もしくは「男がまともでないことは作中でも共有されてる」のでまだしもなんじゃないのかなー、舞姫なんかも私はそう思ってるんだけどね、あれはこう、女に落ち度がない話なんだよな。
男がどんな態度を取っていても女は受け止めなくてはならず、それが出来ない女は罪人であって罰を受けなければならない創作ではないんだよな。

武者さんのなんかはちょっと変わってて男女差があんまりなかった。
あと、自分と他人との差がないというか、身勝手という分類なのかもしれないんだけど他者の身勝手をも認めて尊重するならそれは個人の尊重なんじゃないのかなぁ。
時代が時代なんで上手いこと表現出来ないってことになってたけどね。
これもこれでわりといいんじゃないのかなぁ。
秋声の場合は、特になんも考えずに女を見たまま書いたんじゃないかな、うん。


11月22日めも。


『大正の名著』を読んでおります、秋声のあとが菊池さんだったんだけど、あれ、芥川もう出てたっけかなぁ(呼び方の違いはあんまり気にしないでね、全てにおいてなんとなく、なんか変化するんだ)。
ところで一個間違いを見つけた、戯曲の「父帰る」の初演は大正9年なんだけども小説の成功によってじゃないんだよね、ほぼ「真珠夫人」の毎日/日日新聞への連載と同時期だったということがよく語られているよね。
(実際どっちも結構な人気に火が付いたぽいから、どっちが上だかよくわからないみたいなんだよね、菊池さんは真珠夫人は評価してなくて父帰るのほうで後世に名を残すんじゃないかなって言ってる。)
で、大正10年のはずなんだ、身内招待して自分も見に行ったの。
別に大した間違いでもないんだけど、小説の成功によって初演に漕ぎつけた、とはっきり説明するのはちょっとどうかなという程度の話ですね。
ぶっちゃけ逸話を紹介するのは別に気にならないんだけど(逸話ってのは近代においてはほとんど噂話のこと、たまに作り話もある)、そこに至るまでの解説が詳細になってると気になるんだよねー。

ただ、ここではいつものように芥川と久米さんが純文学で認められていたのに自分は通俗分野でしか認められず、みたいな余計なものはなかったのでまあいいや。
純文学の優越とかまだ特にないと見做すのが今の時点で妥当かな!!
(通俗小説の低評価はあるよ。)
そもそも通俗小説書いたのは真珠夫人が最初だから時空が歪みがちなんだよな…。


11月23日めも。


そういや『大正の名著』の中でちょっと興味深かったのが厨川白村という人なんですけども、ちょくちょく見るけどなに書いてるのかよくわからなかったんだよね、ところが透谷さんの恋愛至上主義(これは人生を家単位ではなく、自分で決めるって意味で現代のものとはだいぶ違うよ、しかしあくまでも概念であって実行しないとか言われてたけどその意味はよくわからない、どういう意味だ)を一般向けに書き直したみたいな感じの人でベストセラー突っ込んだようです。
わあ、ちょっとずるいwwww
(しかしこの世はどうしてもわかりやすさで手に取る人が多いことは仕方ないというか、そこを飲み込めないで暴れるのはよくないと思う。)
てか大正後期のベストセラーなんかは触れてるの見たことあるんだけど、前半はこういうのが売れてたのかー。
なんかあれ、岩波さんとこで売れてた本もちょっとカテゴリ似てる気がする、人生訓というか、なんだろう、人生を楽にするノウハウ本みたいなの?
そう考えると売れてて当然みたいなところはあるか。
ところでこの冒頭で挙げた人は読み方がわかりません。
知っていなければこれからも読めないのでちょっと困るんだけど、本題に絡むということはまた特にないからなぁ。
手元にあるのがついでに調べる所存で、「くりやがわはくそん」。
わりと見たまんまだったなうん。

あとあれ、エッセイ人気は阿部次郎さん、倉田百三さんなんかか。


11月24日めも。


リアルタイムは2019年の2月16日です、手元が暗いのでキーボードが微妙に打ち間違える感じです、あと、前日スタンバイにしておくと電力消費が抑えられるとか思いながらスタンバイにしていたんですが、翌日、立ち上げる前にパソコンががっつり温まっていたので今本当に後悔しています、少なくとも無意味だった。
ていうか、立ち上げたあとで温度下がってるんだけどなにこれ…。
(大したことに使わない、最近はゲームもスマホだしなぁ。)

で、なんかこのページの打ち込みの前半のところで『大正の名著』を読んでいたんですけどね、今見直してみて特にそれ以上言うことが思い出せなかったので、まあだいぶ日時経ってるしな、うんまあ。
最近だとなに読んでたっけか、なんかこうそれなりに読んでいたんだけどいまいち詰めが甘い本が多いというか、だがしかし、愚痴言うほどの内容もないというか。
新聞研究の人はあれ、面白かったんですけども、なんか一部残念だったな。
上手く言えないんですけども、プリミティブな新聞の問題点について妙に甘いんだ、おうそれ、普通に脅迫だよな? その事件って最終的にでっち上げって判明してなかったっけ、みたいな案件に関しても無理もないからぁ! で押し通す感じ。
さすがに脅迫とか恐喝とかでっち上げは時代関係なく止めておいたほうがいいんじゃないかと思うんだけどね、作り話がごく普通に載ったとかもそういやなかった(多分知ってるけど触れてなかった、私でもちょくちょく見るんだから)。
しかし提灯持ちに関してはどんなに穏当なものであっても許すまじ!! だったせいで「確かに行き過ぎ」案件の説得力がなかったというか、ううん…。


11月25日めも。


ええとあれ、新聞研究の本再び、タイトルは「新聞記者の誕生」ですね、前にもこの著者さんの本読んだことあったかなー? なんか微妙に周縁メインっぽいので微妙に引っ掛けてない可能性も低くないんだけどね。
あとこう、他の本であんまり参考文献にはなってないかもなぁ。
にゃ、新聞の重要なファクターであった論客なんかに関しては内容に問題もないし、あの初期のでっち上げ記事なんかに寛容な分、ある意味、そういう記事を書いた理由とメリットに関してもちゃんと分析してるところがあるからねー。
でっち上げでっち上げと明言してるのは、相馬事件のことでとある藩主がそこの家の家老に毒殺されたんだよー、みたいな記事があったんですよ。
まあこれでぶち上げられたのが志賀さんのおじいさんなんだけどな。
で、大雑把に人柄や当人の得るメリットから、まあないだろ、と見られていて、そもそも毒殺ではなかったよー、という無関係の医者の診断があって。
さらに正義を告発するニュースソース人物が蒸発して消えたからなんだけどな。
全体的にこう、揉み消しって雰囲気ではないんだよね。

この辺の顛末が丸っと触れられてませんでした。
顛末を触れた上で、それでもこの記事は真実だったのである、みたいな見解があるならそれはそれで止めないんだけども、この顛末を丸っと無視ったまま肯定されてもなぁ。
あ、黒岩涙香の話ね、えーと、新聞はどこだっけ、「万朝報」か。
翻案小説とスキャンダル記事でわりと売っていたところですね。
実際同時代に相馬事件ってどう受け取られてたんだろうなー、微妙にわからん。


11月26日めも。


いやまあ、倫理的にはちまちま引っ掛かる点がないでもなかったものの(人として許せんということではなく、ここでこう認識してると認知が歪まない? というあくまで研究者的な意味で)、朝野新聞とか初期の東京日日の対立とかはわりとというか、かなり面白かったなー。
で、次の時代が万朝報かな…。
いやそういう単純なことでもない?
そういやこの本だと読売新聞が比較的部数を伸ばしていったということは語られているものの、その手法に関してはいまいち触れられてないかも。
それと都新聞に関しては関東大震災ののちに自然増で生き返った的に解説されていたんですが、どっかの新聞に論客を取られて傾いたって書いてあったな。
まあ、この辺に関してはなんか記憶が曖昧で…。
かつて覇権争いに加わっていたこともあるんだからね、的に認識したほうがいいかな。
大正に入ってからの毎日/日日連合と朝日新聞とかどうやって二者対決になっていったのかという見解をどこかでは読みたいんだけどこれもなし。

ていうか今書いてて気付いたけど、論客メインの人なんですね、あくまで。
手法というか商売ノウハウによってのし上がった新聞には特に興味がないというところまではまあいいんじゃないかなー、それはもう好みとしか言い様がない。
だがしかし、論客たちも仲良しの政治家のために信念混じりで記事書いてるとか普通にあったわけだし、自分の贔屓のスポンサーのことをよく理解した記事書くような記者まで絶対悪で片付けられてもなぁ、極端すぎるのよね。


11月27日めも。


「新聞記者の誕生」ぼちぼち。
まあただ、この本を読んでいてしみじみと思ったのは媒体よりも抱えた論客のほうが人気や認知が高く、彼らがぽんぽん移動することで多分読者もそっちに付いていったんだろうなー、というところでしょうか。
この人たちは大正くらいには凋落しているというか、なんとなくのシェアの違いを感じるんだよな(蘇峰さんがその筆頭と考えるとわかりやすいかも、上の世代には格上いるけどトップメンバーに並んでる、田口卯吉と福沢諭吉みたいなオールマイティ人気の人らくらいかなぁ、蘇峰さんより上なのって)。
新聞単位で語られているとどうもわかりにくいんだよね、結果的に。
雑誌なんかもわりとそんな感じじゃないのかなー。
中央公論があれ、論客を独立雑誌に取られて傾いてたことあったよね。
いやまあ、最高の地位たる文学を取り入れた雑誌、という論調で語られているので論客とか、本願寺から離れたことで独立してった勢力が雑誌の中にいたんだよねー、みたいな物理的な事情が語られてないから理解しにくくなってるけど…。

この辺の事情見てると、まああれ、論客を他所から取り入れるよりは小説を載せることによって新規開拓出来るみたいな話って、あんまり格調が高そうに見えない。
今のコミュニティペーパーに四コマ漫画を入れることによって人目を引きたいとかそういうニュアンスに近いんじゃないのかなぁ。
新聞は媒体で選ばれるはずっていう新聞史語りとか、小説は高尚なものとか、なんというかまあ、後世の論理による歴史編成ってやつだよなぁ…ううん。


11月28日めも。


ちょこっとあれ、『中央公論』の話、この雑誌が本願寺の機関誌だった時代を経て独立し経営を立て直すために小説を載せるようになったよー、というやつ、人によってはこの世でもっとも高貴な小説を載せることによって見事に日本一になった、みたいな感じの語りをされているのですが。
(私も何度か中央公論に載ることが文壇の頂点である証って見てる。)
やっぱりこれ、四コマ漫画じゃないかなー、あの新聞の片隅とかにある四コマ漫画って品がいいじゃないですか、それなりに面白いじゃないですか。
でも、血沸き肉躍るみたいな感じの作品あると困るじゃないですか。
本文がメインであって、その添え物として、それなりの品質と品位とは必須であるものの、たまには語り草になってもいいわけだけど、そんなに重要ではないよね。
小説中心の中央公論語り以外を見ていると、小説取り入れました、で終了して、何年にはこの論調、何年にはこの人の政治論が、この頃にはこんな弾圧受けてみたいな、小説が中心であるということは特にないですね。

この中央公論において小説はどうもそんなには大切ではなさそう、というのはまあさて置いて(新思潮の辺りにはかなり盛り上がってるしなー、特別号においては流行作家がいかに大事なのかっていうお話はぽちぽちある)、しかも売り上げを左右する流行作家というキーワードも全くなく、芸術的な価値だけで語るあの文学史の一ページみたいなものはなんでしょうね一体。
にゃ、論客並みに人気を得た流行作家がいたよー! その時には中央公論も小説で頑張ったよ!! でもないんだよね、そこは略されてるんだよね、なんだろうね一体。

(文アルとか近代芸術、136)
最終更新:2019年02月16日 16:27