雑記:文アルとか近代芸術、132


9月30日めも。


あけましておめでとうござってます、なんというかリアルタイムは2019年の1月18日です、また年を越えました、主な敗因はスマホがわりと使い勝手がよく比較的短い文章なら打てることでしょうか。
しかしパソコンを引っ張り出してみるとやっぱり絶対量が違うというか。
なんというか、指1本と指10本の違いはどうしても大きいよね。
なんかあれ、いつ頃始めたのかわかりませんがff14新たなる王国っていう、建国アプリみたいなものを初めてfgoがログインだけになりました。
結構古いゲームなのでポイントに惹かれたんですが。
まあ貰えなかったです、というかあれ、どこにも証明するものなかったからな…(めっちゃ細かい個人情報を送らされた上で駄目だったので離脱した)、そうやって一定数諦めることが最初から盛り込まれてたんだろうなー、と。
おかげでポイント付与系の情報を調べることそのものが全くなくなったんですけどね、まあそれもよくある展開なんだろうなぁ。
だってそんなに効率良くないしポイント還元。
そうやってチェックしたり実行したりすることが楽しいと思ってるからやるのであって、嫌な思い出が出来たらやめるよそりゃ。
義務とかじゃ全くないので、嫌なことがあった場合の影響が大きくて当然だよな。

あとあれ、読み終わった本を去年分を120冊で切り上げて(読書メーターでi000って書いてるやつ)、続いての「j000」が開始されました、18日で7冊というのはいいペースなのかそうでもないのかよくわからない、ラノベも読むしね。


10月1日めも。


ところで相変わらずわりと今年も【文豪とアルケミスト】がメインかなと思うんですが、少なくとも去年始めたゲームどうこうはあんまりないし、いやまあ時間はそれなりに使うけどあくまで資源バランスゲームっていうか。
(とうらぶとか文アルは「備蓄ゲーム」だと思ってる、コツコツが全て。)
調べごとなんかはあれ、演劇とか映画が始めたばっかりで手探りって感じなので今基本部分をやっているところというか、楽しいです。
始めたばかりのジャンルで少しずつ理解出来るようになる段階というのが全ての調べ物の経緯の中で一番楽しいです。
なのでまあ、ちょくちょく引っ越すことにもなるんだけどね、ジャンルを。
ゲームなどの周囲にいることもありますが、これは昔から似たようなことをしていて、SFを読めば宗教を調べ、歴史小説を読んでは原典に当たるみたいな、ヘタリアを読んでいた時期は時事関係全般を調べていたりしました。
あとあれ、腐女子が集団になっていたところに属していた時に「差別の歴史」を調べたりとか、なんというかきっかけがあると縁遠いところに飛び込んでいけるので、縁が遠ければ遠いほど最初に馴染むのに苦労するので、そういう意味でフィクション由来で調べものを始めることもわりと多いのですが。

初期の苦労が大きいと楽しい、が目的なので正直説教されるのはあんまり好きではないですかも、いや、非オタクから言われる場合は仕方ないんだけどねー。
なんで説教されるのかはわからないけど、多分あれ、私が存在してるだけで説教されているような気分になるのかもなぁ、趣味なんだからしょうがないよなしかし。


10月2日めも。


リアルタイムは2019年1月越えです、特になにを書くということも決めておらずわりといつもの愚痴です、最近はあれ、調べごとに関してというか「文学史」というドグマそのものに関してはそんなに違和感がなくなってきました。
いや、文学史がおかしいのに慣れてきたというのが正しいのか。
というかこれはどうも伝統を誇る芸能に関しては同じような歴史を辿っていることが少なくないという話が演劇の本にてされていたんですが。
一番びっくりしたのが「伝統を誇示する」というそれ自体が好事家相手には特に行われることがないということで、言われてみれば勝手に調べるから別に必要ないのか、とわりと納得したのですが。
そんじょそこらの俗世間と違う格式の高い芸能っていう、その雰囲気作りそのものが庶民向け展開だったという。
言われてみると納得。
好事家アピールってあんまり頭軽そうな内容じゃないしな。

で、文学史、めっちゃややこしいことにインテリが特に評価してもいない、庶民が特に評価してもいない作品が頂点に輝くことに相成りました。
私はこれを好事家の好みだと昔から信じていて、その上で「読みにくい作品のほうが偉い」という頭の軽そうな評価を小馬鹿にしていたんですが。
インテリではなかったです、インテリがこの作品が読みにくいから価値が高いなんて言ってるという事実は全くありませんでした、中学生とかが昔から言ってた(今の中学生より年齢高い)、君らが言うなら仕方ないんだよ、ごめん、そうか!! みたいな。


10月3日めも。


ところでなんで中学生というか思春期に相当する青少年(女性含む)が「なんとなく難しいものが高尚」と思うかというと、なんとなく難しいものが珍しいからじゃないんですかね、めっちゃ難しいけど、中身がみっちりあるものだとちょこっとレベルが高い人たちが崇めてたりするんだよな、哲学とか。
表現が難しいから価値が高いのではなく、ややこしい概念を骨を折りながら語っているから価値が高い、ですね、あくまでも中身が大事なんだよね。
まあ哲学とか完成に至ってないこともあるけど。
文章が難しいから価値が高くなるという価値感は、実際の学問の中には特にないんじゃないでしょうか。
あんまり柔らかい言葉だとどうなんだ的な意見もあるけどね。
でもこの辺の柔らかい説明ってたまにジャンルの第一人者とかがしてるしね。
表現を安易に簡易にしてそこで失われる意味がどれだけあるのかちゃんと弁えているのか、という見解などは真面目かなー。

ただまあ、さすがに安易に難しい文章だから偉いってのはうん、最初から混ざりっ気のない似非インテリじゃないかと思います。
それっぽい雰囲気のために堅い文章にしてるよ! みたいな素人向け意識してて偉ーい、みたいな人もいるけどそろそろなんの話だ。
あとラノベの文章は如何なものかとかはあるかな、明治時代にもあったよね、文語体であるべきとか漢字撤廃すべきとかの議論(本当になんの話なのか一体)。
読みにくい文章に単独の価値がある時点で多分遠いとこから見てるって話かしら。


10月4日めも。


ところであと、文士村などの本を見ていると登場する「働いたら負けだ」的なあの、貧乏だからこそ尊い的な言動が出てくるんですが。
これを実現するために女性を殴って働かせる作家とか出てきます。
女もいわゆる新しい時代の教育を受けた女では駄目なようで。
男も愛人を作りまくらないと駄目らしく。
結果的に当然ながら金銭的にかなり厳しいので、だいたい文士村グルーピーを食い荒らして時に女性の共有するみたいな感じの生活へと自然に推移する感じに。

正直、最初にこれを読んだ時は(馬込の文士村の本が一番顕著だったけど、菊富士ホテルにも近い雰囲気はあった、あっちにはわりと世間的にも認められてる作家が混ざってて幾分マシだったけど)、なんでそんなことになってるのか全くわからなかったんですが、どうもこれ、自然主義などが出て来た頃。
大雑把に「純文学」の概念そのものが生まれた時代の文学の再現なのかなぁ? と。
武者さん近辺読んでる方が言ってますが、貧乏でなくてまともな文学が書けると思うな的なことを言われてるらしいんですよね。
ただ、その貧乏な文士たちは私の記憶の限りでは人間以下扱いされてるもので、あの、なんだろう、全体的に話がどこかの時点で狂ってる(人並み以上は紅露鴎逍のみ)。
武者さんよりあとの新思潮だとどうかなぁ、そもそも超絶エリート集団、おまけに世に知られたのは学生時代という触れ込みで出たのでなんか微妙。
だがしかし、芥川なんかはわりと必死に女性口説いちゃあ振り向れると拒絶したりしてるよね、まあ、貞節ない男も女も嫌いだもんな(幼少期のトラウマ的に苦手ぽい)。


10月5日めも。


ずるずる続き、最近この「純文学の大正後期から昭和初期における展開」みたいな話をよくしてるんですが、断片的にはわりと皆知ってるんだよね。
明治大正の作家たちってまともな倫理観持ってないのが普通みたいな。
ただぶっちゃけ、自然主義辺りの時代とかは仕方ない気がするんだよな、なんというか家の事情で結婚するのが普通の場合に妾を咎めるのはどうかなって思うし。
産後死亡率数割みたいな時代に、一定の地位より上の女性にあんまり外で働いて欲しくないみたいなのも別に間違ってるとは思わないよ。
いやだって真面目な話、下手に出産以外にリソース割くと社会維持出来ないじゃん、代わりにその用が果たせない場合、女性のほうがわりと自由に生きられるしね(庶民の場合は女が働くのがどの文化でも普通です、明治大正にはなぜか全ての階級の女を職業から締め出そうとしてた人たちもいたけど)(私にはよくわからない)。

いや話がズレたけど、自然主義の作家たちは自分も身勝手だけど、女にだけ高い貞節を求めるみたいなそことそこ合わせたら駄目なのでは、みたいな作家は少ないんだよね、いないわけでもないけど。
まあ同時代のキリスト教教育に関わってると一部そんな感じだし。
(内村鑑三さん関係はそんなことないよ!! ただ彼のところに出入りしてても駄目だった人はいた、女は閉じ込めて自分は見えるように放蕩みたいなの。)
駄目なほうは伏せるけど、花袋とか秋声とか、女を責めない人たちだったってちょっとだけ世代下の実際の知り合いの研究者たちが言ってたし。
問題はあれだ、女を閉じ込めて自分は見えるように放蕩ってあれ。


10月6日めも。


だらだらだらだら続きの続き。
だがしかし、心の底から女が好きで本当に女が好きで、ついうっかりどう足掻いてもふらふらっと浮遊してしまって、奥さんにも結果的に悪いことしたなみたいな谷崎は別にそんなに問題はないと思ってる。
なんというかどっちかというとかなりマシ。
自然主義程度にしか悪くないというか、貞節がなってないそういう人っていうか、作家としてもまあいいんじゃないかね、変な作品残しそうでいいじゃん。

『女を隷属させて自分は放蕩を尽くす』
なぜならば、それこそが高尚な作家となる正しい道だから!! みたいな感じになって必死に女に言うことを聞かせようとしまいには殴ってた人たちはあの、本当に、なんでそんなことを比較的しっかりと軽く誇らしげに文章に残してしまったの。
流れの全てが不可解すぎて数か月くらい悩んだよマジで?! 悩むよね!
まあ彼らは冷静に作品とか見てると通俗小説分類なんだけどねー。
作品傾向がどう見ても通俗小説だからしょうがないよね、ただ、売れてる人たちへのバッシングなどでは高貴さ主張が結構残ってたりします、広津さんとか。
ただ書いてるの『女給』なんだよな、大御所がカフェ店員口説いて振られる話。
この作品がだから、なに?? となっていたのは文士村の本書いた著者さんでした、まあ通俗だよな、でも高貴さを主張してるんだけどね彼は、文士村でも目立つし。
この人たちが出版業界からも普通に浮いていたということのほうが最近まで知識にありませんでした、あ、うん、そう、そうなるよね? …あらやだ、なんなの文学史。


10月7日めも。


そもそもなんか変だなー、と思ったのは白鳥さんでした、あの人、「純文学」って言葉を使わないんだよね、通俗小説は存在してるけどそれ以外の領域をばっつり分断してない、あと、漱石さんもどうも純文学というより「文壇小説」という分類になるようです、リアルタイムではなくてものちの文壇には評価されてるしね。
なんでかなと思ったらなんかどうも、純文学って言葉自体、自然主義とほとんど変わらない時期に登場したらしく、花袋なんかがそこに乗っかってたらしいんだよね、どうも自然主義が純文学ってことになるぽい。
ああまあ、自分たちの生活まんま、なんの面白みもなくてもそれでも人間を描くことが出来るみたいな、正直その辺は嫌いじゃないです。
(『座談会・明治文学史』に蘇峰さん系の記者たちに受けたバッシングの時にそんな感じの趣旨のことを。)
なるほど自然主義は確かに純粋なる文学だ納得、面白くはなくても価値はある。

ただ、まず貧乏な生活をします! そのためにぶら下がることの出来る財布を用意し、簡単に食い散らせる女たちを侍らせます!!
は、純粋に芸術とは全く別のものというように私には見えるのですが。
んであと、実際に彼らの書いた小説も純文学分類になってないんだけども、ただ、純文学作家なのだそうです、売れたり当たったり地位を得るとその権利を失うことになるようです、あー、えー、うーん。
そうね、新聞小説で当てた人とか純文学作家に分類されてないな、通俗小説を書く分には大丈夫のようです、売れたり当たったりしなければ。そっかー。


10月8日めも。


だらだらだらだら。
という感じのあれは、時系列順に資料を並べて実際の評価をだいたい頭に入れてっただけで私の独自見解ではないというか…、そもそも普通に馬鹿にしてる人たちが近い時代に見られるんだよね(ガチ知り合いなのでそんなにはっきりは言わないけど、頭に入れてると普通にわかるの結構ある)。
この「文士村的な純文学」がどうやって生じたのか、はっきり観測出来るのは文士村近辺なものの、一体どこまで共有されていた価値観なのか。
売れてる作家たちはだいたい抜けてる気はしないでもないし、文士村からも彼ら成功者を避けてる節がないでもない、まあこれもいい。
芥川の行動が他の文士村と似てるなって思ったものの、田端には特にないです、馬込に犀星が移ったあとも犀星の周辺ではちょっと違う世界が展開してる感じ(犀星は働いてもなかなか苦しいんだけど詩人だとしょうがない、自然主義みたいなもんだな、環境のほうが整ってない)。

芥川に価値観が感染してたとしたら広津さんとか宇野さん辺りからかなぁ、まあなんか他にもアマチュア作家との付き合い多かったけどね…。
みたいな感じで、今はまだばらばらなんだけどねー。
ていうか友人の子牛に言わせれば「生活様式がバンドマンと同じやね」ってことになるので、変な芸術意識を持たせるとどこにでも自然発生するっぽい。
だが、なぜそれが語られる高貴な一つの歴史となり、子どもに教えることになったのかはまた別の話って気がするなー、多分あれ、庶民向けなんだな(前のほうの雑記)。


10月9日めも。


だらだらだらだらと最後の日です、これが新年初めての書き込みとなるとどうかなと思うんだけど、去年の9月のページなので気にしないでおこう。
ところであれ、芥川が死ぬほど悩んだのがそもそも学友たちが誰も特に本気にしなさそうな内容だったらなと思うと、ちょっと妄想にしてもよろしくないのではないかと思わないでもないものの、芥川を非常に思っていた小穴さんに「女なら誰にでも縋る」と言われた状態が実現していたことを考えると、証拠のある時点まででもう十分酷いし。
それが使命感に燃えてしかし結果が特になんも産んでいない流れだったということを足したところで現状よりもそれほど酷くなった気もしないです。
まあうん、芥川ならそういう使命感もありえるかもしれない。
そうして、学友たちはわりと実害があるわけでもないなと、どっちかというと女買いに行くほうがマシだ的にお金渡すくらいで済ませていたような節が(菊池さんがそう言ってたのはやっぱり小穴さんに芥川が言ってた)。
菊池さんそうじゃないんだ、純文学作家になろうとしてたかもしれないんだ。
ていうか、その「バンドマン様式の純文学作家」ってのは本当に目指さないとならないのか芸術なのかは私にはさっぱりわからないけど! 自然主義作家に近い存在になるとしたら落伍者になるしかないんだけど、そもそも芥川はそれなりに売れっ子で庶民からも尊敬されているのでそこからのスタートだと確かに厳しい。
(友人たちからは天然だと思われていたみたいだよ!)

難しかっただろうけどやっぱり完遂させることに意味をどうしても感じない。
芥川なら不倫男も女も嫌いだってパッションを小説にしてこそ純文学だったと思うの。

(文アルとか近代芸術、132)
最終更新:2019年01月18日 20:58