雑記:文アルとか近代芸術、117


5月3日めも。


とりあえず目指せ文アルの用語説明、みたいな感じで【文藝春秋】を書き始めてみたんですが、そもそも調べる前からそこそこ知ってる段階から語るのもまた間違いということはわかりました、私、もともと薄っすら知識あるんだ駄目だそこ基準じゃ。
(近代に関しては何年も読んでるので資料に使われるような媒体だと知ってる。)

まああれ、そもそも世に「総合誌」と呼ばれる雑誌群がありまして、なんというか新聞検閲を受けるような政治取り扱いが可能な媒体で、文芸が比較的比重が高いものが呼ばれるようです、完全な基準はないみたい。
戦前の三大総合誌は創刊順に中央公論、改造、文藝春秋。
戦争直前には文藝春秋が部数がトップとなっていたようですが、その頃には他メディアの隆盛が著しいのであまりそれが話題になることはないかな(60万かな?)。
もともと個人同人誌ではあるものの、当時はそこまで珍しいこともなく、なんなら出版社の後ろ盾があった後に同人誌に移行することすらないでもない。
で、当代随一の人気作家である菊池寛を抱いて、なんというかかなり無軌道な経営をしていたようです、新人にも書かせるし前世紀の人にも書かせるし、芥川は客員ではあるものの当時もう病身だった彼が唯一書くということで名を馳せ。
ついでに久米さんはよく読んだら幹部でした読み落としてた、まあ他にも講座やったり他の雑誌を出しちゃあ潰しってやってたりと、とにかく資金があるか、ない時代から作家たちが文句を言わない(ちゃんと分配はしてる)。
ある意味でこの雑誌と、のちに出版社が存在したことで業界に対してのプレッシャーは強かったかもねぇ、「作家の時代」の象徴みたいなところだよな。


5月4日めも。


目指せ文アルの用語説明で【中央公論】、大雑把にまあ本願寺の機関誌として出発したというところからかなり面白い経歴ですけども、そののちに独立、そのさらにのちに小説を取り扱うようになりまして、この間読んだ本では『改造』という近いスタイルの雑誌が現れてのちに「総合誌」と呼ばれるようになったようです。
まあそうだね、よく考えたら中央公論しかない時代にカテゴリの呼び方いらないよね…、大雑把に思想の方向としてはあれ、デモクラシー寄り(大正デモクラシー)、小説のスタイルとしてはあんまり品がないものは政治誌としては困るものの、どちらかというと売れ筋扱いの人気作家重視で、同じ作家を何度も掲載する特徴があるようです。
ただ、この扱いに合致した上で売り出しに成功したのって結局のところ室生犀星さんくらいしかないんじゃないのかなぁ…。
漱石さんに小説を書かせた、というのはあくまで中央公論の名物編集者である瀧田さん個人の手柄のようだし、漱石さんは朝日新聞に主に属していたし。
菊池寛などは「売り出し」に関しては確かにこの雑誌がなければ叶わなかったであろうものの、直後くらいから別の雑誌にもぽんぽん載ってるからなぁ、露出の機会があればわりとどうにかなったような風情だし。

芥川は掲載した段階で有名人ですね(そもそも新潮のほうが早い、扱い低いけど)、新人には憧れではあったろうものの、量産を求められるし必ずしも人気作家になれるわけでもないし、と、まああくまで新人の憧れってところかなぁ…。
たまにこの雑誌に載ることが頂点への約束みたいに言われてますね、犀星が小説のほうで地位確定したのだいぶあとだよな、話半分かしらね。


5月5日めも。


えーと、三大総合誌の最後【改造】、まあなんというかプロ文の原稿料が安いからよく載せてた(荷風さんの原稿すら蹴ってた、さすがに少し後味悪そうだったけど)、賀川豊彦氏がめっちゃくちゃに稼いだ、円本ブームで潤った。
まではだいたい基礎知識として知られているものの、プロ文に傾いたのはあくまで原稿料が安く人が呼べるからであって思想は特にない、大正8年に創刊し、業界の原稿料を引き上げた、創刊を記念してパーティを開いたものの明治時代の作家たちとど新人以外一切来なかった、みたいなことが応用知識としてちょくちょく語られています。
なんかこう、いろんなことをしていたらしいんだけど、たまに外部の記憶に残ってもいるんだけど、そんなに思い出したいことでもないっぽいね…、当事者さんたち…。
正直、もう少し状況が温和だったら泥沼の戦いになっていたのかもしれないものの、戦時体制に突入してしまってライバル争いどころではなくなってしまったらしいんだよね。

まあ、プロ文はどんどん転向したり逮捕されたり、円本ブームは去り、賀川豊彦さんはそもそも執筆活動がメインの人でもないし。
それほど特徴があるわけでもない、総合誌の中で一番商売っけのある役回りでやってたんじゃないのかなぁ。
俗物扱いはされているものの、体制に逆らってプロ文に目を付け。
人権思想で有名な詩人のホイットマンをアメリカから呼び寄せ、と、確かに歴史にも残るようなことをしていてどちらかというと良い俗物方向。
作家たちにとっては原稿料が上がるきっかけになったのが一番重要だったんじゃないのかなぁ、その後、どんどん雑誌も増えたしね。


5月6日めも。


目指せ文アルの用語解説、の【新潮】、ていうかこの内容で目指してるんだかどうかも曖昧ですけども、まあ「予備知識がなくても読めないわけでもないや」ということで脳内ゴーサインが出ました、危険水域です。
新潮さんは明治末くらいにひっそりと一青年が雑誌を作りまして、特に後ろ盾もなくひっそりと生き残りまして、そのうちに会社になりまして、という、華やかさがないことを除けばだいたい文藝春秋と似た経歴なのかもここ。
他に大衆雑誌を作ったことはあるものの、基本的に純文学重視、ずっと脇目も触れずに文芸誌一徹、中間読み物…は、あれか、島田清次郎輩出したのここだっけ。

この辺は『カネと文学』という本の中で出てくるんですが、まあ、島田清次郎と有島武郎氏に関しての扱いにはちょっと気になるところはあるかもね…(個人の意思を半ば無視して生身のゴシップごと売り出すような形での露出を続けた)、あれほとんど同時期なんだよな、当時の責任者の人って誰なんだろうね、その辺のこともどこかの本でいずれ読むこともあるかなぁ。
特にそこが語られているわけでもないものの、昭和に入ってから新人受け入れ雑誌になっているところを見ると、まあ、なんらか荒れていたのかもね…。
菊池さんなどももともと文藝春秋の広告を新潮に出していたり、『真珠夫人』の単行本を出していたりで仲良かったものの、なにか一時期絶縁状態に。
ところでこの新潮、中村武羅夫さんという編集さんが非常に強いらしいんですが、この方、紅葉四天王の小栗風葉さんのお弟子さんだって(他にも風葉さんの弟子は何人か編集さんに)、あ、結構人気の大衆小説も書いてる、なんなら文アルに来るかなw


5月7日めも。


ここからは新聞で創刊順…はそもそも総合誌でも無視ってたか、あくまで文学との関係に関してで【読売新聞】からです。
ぶっちゃけまして文アルが始まった当時、紅葉先生と露伴先生が呼ばれたことだけに注目していたけれど、あの時点で逍遥さんが同時に呼ばれていたり。
露伴先生がなんか紅葉先生と対決させようとしたら身体壊してたのここだっけ…(なんか知らんけど逃げるよね露伴先生、ちょくちょく)。
まあ『金色夜叉』でヒットを飛ばしたものの、途切れ途切れで休載を重ねた挙げ句に紅葉先生が退社、その後、死亡というルートを辿っていたり。
この連載がなければもう少し長生きしたんだろうとはどうしても思うんだけど、当時から言われなかったのかな、まあ、当人の意思で断ろうと思えば断れたんだとも思うんだけども、ただ、当時の作家さんは書き続けていないとお金がないからな…。
(ものすごい勢いで出版社が持っていくので、そもそも金色夜叉の敵役の金満家って博文館とこの息子さんだってさ。)

その後は小杉天外の通俗小説が大ヒット、そして徐々に編集として入った白鳥さんが存在感を強くしていって自然主義作家らが活躍、という感じの推移。
結局のところ、ずっと文芸と仲がいいのですが、これはもともと読売新聞が江戸時代のかわら版に近いスタイルをルーツとする「小新聞」の出身ということもあり、純文学とか通俗小説とかよりもその時代に相応しい文芸を求めてるということである意味で一貫している新聞でもあるんだよな。
ただ、自然主義の衰退以降はどうなったのやら、いまいち聞かないな…。


5月8日めも。


で、えーと、【朝日新聞】からです、ここは関西出身であるために初期から中新聞という「政治も読み物も扱う」というスタイルであって、まあ次に書く毎日新聞と同じなんだけども、いわゆる格調の高い小説を、ということはあんまり考えていないようです、あくまでもセールスのためであって他の記事のほうが大事なんだよね。
ただ、夏目漱石の台頭の頃にはがっつりと準備してばーんと年俸を叩き付けて円満契約に漕ぎ着けたらしいんで、そういう意味では方針がはっきりしていて好感度高い。
漱石さんは一作めが『吾輩は猫である』なのでまあ、インテリではあるんだけどインテリ以外の人も読んでるんだよね、ちょっとずつ難しくなっていったのでなんとなく付いて行った人らが多かったのではないかな的な推論語ってる人がいましたが、あれが一番わかりやすい表現という気もする。

そして漱石さんの弟子がでーんと編集部に陣取りまして、古い人やら新しい人やらどんどん発掘していくことになりました、あんまり語られてませんけど、武者さんなんかはその中でもだいぶ早い段階から連載してるんだよね。
(そのあとでちょっと意見別れてしまったかな? 漱石さんのほうが作品傾向が変わったとも言われてるんだけどね、正直黎明期なんで構造的に未完成のままだったと思うから、武者さんが評価しないのもそれはそれでわかる。)
新思潮とは特に縁がないし、次の大衆小説辺りの時代には各社時代小説の奪い合いしてたんですけどねー、やっぱり新聞は「売れる」と「下品ではない」の兼ね合い大変だよな、基本的には通俗小説が載っていることが多かったようです。
いや男女の恋愛の話なので、品がないと言ってもそこまででは。


5月9日めも。


んで新聞ラストの【日日/毎日新聞】、順番入れ替わっていたらご容赦下さい、日日のが古くて毎日のほうが買収し、関東版として日日の名前を残した体裁です、日日と毎日は新聞連載は別個のこともあるし両方に載っていることもある、といったところ。
まあ、話は漱石さん時代になるわけですが「対抗で鴎外さんを呼び、後悔した」みたいな、鴎外さんは食べるために書いているわけではないからね! というか偉すぎてちょっと新聞社風情では意見も出来ない。

その後、芥川から社員になりたいんですけどぉ、というお手紙が学芸部(文化部みたいなとこ、文芸を扱う)の編集長の元に来まして、なんだかんだとそれから調整があったんですが、個人的には鴎外さんの二の舞を心配していたような気がしてならず、芥川がそんな折に菊池さんの『無名作家の日記』を見せた途端に即決で呼ぶ!!! ということになったようなので、なんだろう、その…最初から通俗小説書けそうな人材を求めていたんじゃないかなって思わず考えてしまっても笑われることもないよね…。
数年の間、菊池さんは文芸記事を書いたり、戯曲を載せてそれを公演したり、芥川はいまいち新聞小説は苦手だったようですが、中国派遣になりまして、なんでかその中国派遣の時期に菊池さんが通俗小説の「絵入り」と言われるような下級層向けの媒体のものを連載することとなりました。
なんかまあ、いろいろありまして、『真珠夫人』が新聞連載の歴史そのものを塗り替えた、と言われてるわりに日日新聞側は菊池さんに関して沈黙しているので、なにかあったんかもしれないね、とわりとずっと思ってる。
一旦契約解消した菊池さんが出戻ってるので、まあなんか、いろいろありそう。


5月10日めも。


前日分の雑記に年代が全く入らなかったのが心残りです、漱石さんは明治末から大正5年までです、紅葉先生は明治後半くらいになるかなー、で【硯友社】。
まあなんだ、世は空前の検閲時代だったんですよ、そのために硯友社という「政治とは関係ないです」という結社が作られまして、それで初めて雑誌が成り立ったみたいな認識するといいんだということが何回も書いているうちにやっと思い出せました、いや、読んでたんだけどそこだけ抜き出せなかったんだよなかなか!
文化結社であるというより、それ以前の雑誌というものが全て新聞を土台としていて、小説が載っていても政治体制に対して語ることがまずありき(教育のことを語ってる雑誌もあります)、みたいな風情なのでまず政治結社ではない、という宣言が必要であり、それから初めて雑誌が商業雑誌として独り立ちしたんだよ、というほうがわかりやすい気がするんですが、私の文章は全く読みやすくはないです、ごめんなさい。

『我楽多文庫』もまあまあ有名ですけども、これは機関紙で各人が世に有名になるまでその役目として機能してからそのまま円満終了し、その後もちょっとずつ雑誌のスタイルを整えていくというような理解をしたほうが硯友社に関してはわかりやすい。
徒弟制度は取っているものの、尾崎紅葉は一切弟子たちの方向性を「自分のコピー」にするつもりはなかったであろうことは多分同意されると思うんですけども、よくよく考えたらそんな作家集団一回も見たことなかった、せいぜい弟子が自分と同じタイプって可愛がるくらいしか知らないな?
なにぶん作家は人間以下だった時代、職業の端くれにまで引き上げたのはここだとは思うんだよね、硯友社の関係者、細々と終戦までずっと業界で生きてるからなぁ。


5月11日めも。


わりと時代は飛びます、の【白樺】、ここは正直なところ同人誌としての一般知名度はかなりあとになるまでないんですが、正直なところ『新思潮』のほうが純粋に同人誌としては知名度は高い(というか第4次新思潮以外に一般知名度はほとんどない、いや、文藝春秋はさておいて)。
が、武者さんの知名度に関してはかなり早い時期からめっぽう高い。
あまりに有名になる時期が短すぎてなぜ有名になったのかからわからないんですが、デビューしたと思ったら朝日新聞で連載とかしてるからかな…、なんか、下積み期間みたいなものがないんですよね。
そしてさらに政治関係などではかなり早い段階から白樺の集団として知られていまして、ところによっては「コスモポリタン=世界主義者」などとも呼ばれていたり、複数の芸能、国を跨って認識されているところを見ていると確かにその呼ばれ方に相応しい。
(人道主義と呼ばれているのはあれはちょっと保留です、どうも自然主義との対立関係を軸に据えてそう呼ぶようなので、対立はあるけど彼らがそのメインではないし、もしそうだとしても対立したことで全傾向を示すのってなんか比重がおかしいしさ。)

芸術において文芸において、「新しい村」という実際の生活共同体を含んだ権威とはまた別軸の存在として認識をされてずっと戦後まで続き、ただし必ずしも対立的でもない。
文芸との関係としてはなんか純文学でもない大衆小説でもない、みたいな人が半々くらいの確率で白樺に関わっていたりします、てか、志賀さんはなんでまたやたらと白樺から距離取ったということにされてるのかね…、文学史そのものの謎って気も…。


5月12日めも。


で、えーと、一高縛りの同人誌の【新思潮】、私が新思潮と呼んでいる場合は「第4次」とたまに第3次の面子のことを指していて、まあ他の時期からも有名人は何人もいるんだけども、この場合は他にあんまり呼びようがない、みたいなニュアンスでそうまとめられているだけなんだよね。
なんかいろんな名前つけようとしていたようですが、定着しませんでした、なんだろうね、主に芥川龍之介、久米正雄、菊池寛がいて、他にちまちま足されてるみたいな感じなんだけども、すでにして方向性ばらっばらだからな…。

第3次から触れておきますが、芥川や久米さんの一年上の学年(山本さんもこれ、落第して同学年になったけど)がメインで初めまして、久米さんは実務役、スポンサーを募って戯曲メインで大々的にやっていたものの、政治発禁となってしまったのでその後資金源が逃げてしまい一年ほどで終了。
第4次はあれ、さすがに不完全燃焼だったので漱石サロンに出入りしていた芥川、久米さん、松岡さん(久米さんの親友)がまず揃って、成瀬さんの親御さんにパトロンになって貰おうとしたら「それだとまた同じことが起こる」とフランス語原典の翻訳本を出して発行資金を作ってしまい、あと成瀬さんが菊池さんを呼ぶって言ってさらに彼の分の会費を出したので、まあ、成瀬さんがいなければ菊池さんは小説家にはならなかった可能性が正直高い気がしてる。
一年ほどで漱石さんが亡くなってしまい、漱石令嬢争奪戦が始まってしまい空中分解、そもそも久米さんも芥川もとっくに世に出てたしね、菊池さんがコンプレックス持つのもわかるけどただこの集団、なんか変だよね? キセキの世代かな?(by黒バス)

(文アルとか近代芸術、117)