雑記:文アルとか近代芸術、129


8月31日めも。


リアルタイムは9月4日、まずその日を書いて一日遡り、そこからこの日を打っている感じなんですけども、あれです、なんかもうゲームに関しては周回してる記憶しかないので多分周回しかしてないな!!
ところで私、もともと日本の文学はあんまり好きではないんですけども、国外においてもちょくちょく黎明期の文学以前の歴史なんてのも読んでるんですが、いや、あの、なんか出てくるんだよね、多分あれ、中世史などをやる場合に「資料がないから」というこう、まあ要するに風俗資料として出てくるみたいなやつ。
小説でいいの? と思う向きもあるかもしれないんだけども、そもそも純粋な空想を媒体にしたファンタジーなどは時代進まないとあんまり出てこないんだよね、設定が神話的、伝承・伝説を含むなんてことがあってもそれ自体が当時のリアリティというか。
多少フィクションもあるにはあるんだけど、他所の話が下敷きにあったりして、素人が見てもわりとその辺の分解までは簡単。
分解したあとにいわゆる風俗にまで組み立て直すのはかなりの難易度ではあるものの、なにかしらの説の補強などにはよく出てきたりするわけです。
文章が稚拙すぎてわかりやすいとも言えるかな、翻訳経ててもなんかわかります。

で、私にとっては文体の話をするのは黎明期のこと、という印象があるので。
明治期にどう書いたら良いかな、そもそもフィクション舞台って許されるの? みたいな議論と文体模索がちょうどつり合い取れる認識なんだよね。
文体こそが小説の命って言われると、「おう黎明期」となっちゃうんだよね、いやまあ映画の本見てたら久々に出てきてびっくりしたという話なんだけども。


9月1日めも。


文体の話続き、ぶっちゃけまして、ドストエフスキー読みにくいじゃないですか、翻訳でも読みにくいけど、なんとなく原語だともうちょっとさらに読みにくい気がするんだよね、そしてあの文体であの深夜ドラマ展開やるわけじゃん。
一つだけ確実に言えることは「彼の模倣作家の作品だけはなにがあっても読みたくない」であり、彼の域にまで同じ方向で到達する人がいたらそれはそれで応援するけども、憧れて真似したら絶対に爆発四散してると思うんだよね。
匙加減を間違えすぎて逆にあり展開だと思うんだわあれ。
芥川なんかもこういう部類かも、展開にあってる、ただこの文章はなにこの、なに、これは一体どうなっているの、という時に「文体」の話にはなるんだけど。
それってかなりレベルの低い分析以下の話なんだよね、分析出来てない。
私はこの文体が好きこの文体は嫌いってのも正直つり合いの取れた話だと思うんだよね、プリミティブだからこそ個人的感情と並べるのが相応しい。
黎明期においては、そもそもある程度まで人に読めるようにしなくてはならない、目的に相応しい方法論を見つけなくてはならないというその努力に関して文体の話をして、この作家がこの手法を見つけ出したって評価するのも素晴らしい。

小説の命は文体、というのはなんですかねあれ。
しかもどういうわけかかなり内容が難しいのに、なんかするするっと読めてしまう人たちは全然評価されることがない「命」である文体ってなにかね。
簡単な内容を妙に捏ね繰り回したくどい言い回しで語ったあれが命なの? 演出っていうよね? ありだけど、高尚さとは無関係では??? となるんだよね。


9月2日めも。


「文体」の話引き続き、あれですね、ここまでであくまでも絶対評価となりうる文体の話が黎明期、もしくは水準以下の場合に限ってなのではないかな、という話をしているのですが、だがしかし、好みって意味ではぶっちゃけ延々と付き合うものなので気にする人が一部にいることも正直わかる。
そしてそもそも文体によってだいたいのレベルは確かになんとなくわかる。
わからないこともあります、あらすじでもさっぱりわからないこともあります、シェイクスピアとか何回あらすじ読んでも意味がわからない。
文体も、いやあれ文体どうのっていう桁じゃないよね戯曲だし。
つまるところこの軸にしたところで「かなり低レベルの人は省ける」みたいな感じなんだよね、文体でぽいと捨てても他の人の評価でリベンジ再決戦とかわりとよくあるわけだし、読みづらいけど読んで良かったぁぁ! とか普通にあるわけだし。

というかこの「文体が命」の人たちが、文章が無駄に難解で内容もそれほど取り立てて特別でもない作品に最終的に栄冠を輝かせてるのが気になって仕方がない。
しかもなんか別にその作品好きではなさそうというか。
もともと作品が好きな人たちが評価してるのは全く別の作家の人生の文脈から読み取れるコードだったりすることが往々にしてある。
ぶっちゃけてさらに言うと評価者が全然別のタイプの作家が好きだったりざら。
この進呈高尚という、特に誰も幸せになってなさそうなシステムにおいて、なんでまた文体みたいな純粋な道具としか言い様がないものが基準として使われるのか。
全部がセットで辻褄は合ってるのかなぁ、同じ顔が選ばれる美人コンテストみたいな。


9月3日めも。


リアルタイムは9月4日、そこから遡る形で打ち込んでいます、ところで私、資料がどうの、間違いがどうのということをわりと延々とがーがー言ってますが、多分これ、菊池さんがメインなためでいやだって本当に「文藝春秋になぜか日参していてそこら辺にいた」利一くんが実際には特に菊池さんとの交流すらなかったとか。
小林秀雄氏という人は文藝春秋の匿名評論にて荒稼ぎをしていて「あれ誰?」などと菊池さんに聞かれていて、のちに菊池さんに「小林秀雄ですら俺の空白の時間になにやってるか知らんだろう」みたいな謎の名指しをされており(私が最初に個別で認識した彼、実際その時点で付き合いあるの??? となった)、彼の『文學界』のパトロンをやっていて金出さねぇぞ! という諍いがあったりするようなそんな関係なのですが。
その秀雄さんから言及があるとは思ってなかったでしょう! とか言われてたり。
そうか、ばりばりに接点あるみたいだけどね。
文藝春秋の2代め社長の葬式の時は親父には世話になりました的なこと言ってたし。
社史で見たのか3代め社長の本で見たのか混ざっててわからんけど。

吉川さんは文藝春秋の飲み会で延々と語られていたりしたし、菊池さんとは競馬で一緒に遊んでたり資料渡されて小説書くように言われてたり、ぐしゃっと潰れた顔とか吉川さんが菊池さんのこと言ってたり、死後菊池さんの名前を総決算パーティみたいなところで口に出しているんだけど(まだいろいろあるけど)。
まあそれでも付き合いは特にあるわけではないようです。
つか、付き合いがあるかどうか「調べてない」って言わない?
付き合いがないがちょっと自由すぎてさすがに辛い、辛がっててもご許容下さい。


9月4日めも。


リアルタイムです、当日、かなり珍しい気がするけどそもそも日記をなんだと思っているのかは不明です、なんというか「ノルマ」としか考えてない余寒。
あとえーと、だいたい60日分くらいで追いつく感じです。
1日10日分くらいのペースだとあっという間に終了するだろうし、放置しておけばまた溜まるだろうし、ただ、どう考えても追いつくわけがない、みたいなレベルに膨大ってほどでもないよねこれ。
現在台風が来ていて、文アルの逍遥さんの白衣イベントをぽちぽちと片手間に回していて、とうらぶはなんか昨日の段階で5万ポイント溜まりました、集めてるものがなんだったかは忘れた、ここまで回して途中帰還したのが2回という程度なので今は単純作業ゲームと化してる感じ。
あと物忌みで腹がまだ少し痛い。
fgoは多分そのうち回さないとAPが回復しきってしまうので、なんかあれ、なんかあれ、面倒臭いね、うん、スタミナ制のゲームは同時に一つしか出来ないな…、いや、効率とか考えなければいいんだけど考えないとそれもそれで苦痛なんだよね。

なむあみだ仏だったかな? もともとアプリゲームだったかの作品がDMMに引き取られたようなので、さすがに気になってるんだけども、これもぎりぎりまで迷おうかなと思います、だってゲーム増えるともう限界。
このコレクション気質がなければ無理しなくてもいいんだけども、まあ、こつこつゲームに向いてる人には大抵あるんだコンプリート癖とかコレクション癖。
中途半端になるならさっぱりいらない! みたいなあれ、どうしてもセット。


9月5日めも。


リアルタイムは1か月ほどすっ飛びまして10月3日、なんか最近、ACアダプタさんがお亡くなりになりまして、買い替えない限りあの、古いバージョンの容量の低いACアダプタで「使ってない時だけ充電する」の方式となりまして、正直なところ電池の消耗も心配なのであんまり続けたくないんだけどお金もあんまりないし…。
だがしかしなにを買うべきなのかがよくわからない。
というか、ある日いきなり寿命が来たっぽいのも一体なんなのかわからないというか、そもそもが中古なので正しいのが刺さってなかった可能性もないでもないので、ちゃんと型番から調べないと、となって、進んでおりません。
まあ、パソコンにあんまり無理をさせないようにするとして、ただ、この文章だけはパソコンじゃないとさすがに打てないのでまた伸び伸びってことにもなるのかなぁ。
一応スマホでも不可能でもないんだけど、長さが固定出来なくて、そこはわりとどうでもいいという説もあるにはあるんですけども、そもそも打ち込まなきゃならない理由が特にあるわけでもないのでルール破るの嫌なんですよね。
本当に必要なら妥協するけどね!

つか、とうらぶと文アルが同時にイベントが来ない限りそんなに必要ないんだけど、あるとやっぱりないと心もとないな、スマホで同時はちょっと…、止まるし。
ええとまあ、わりとあれやこれやとぽちぽちやっています。
主に本を読んだり本を読んだり本を読んだりみたいな感じだけど。
ちょっとずつ詰まって来た、なにが疑問なのかわりと明言で語れるようになって来た、などの変化もありますねー、文字媒体ってお家騒動はあんまり残さないのかこれ。


9月6日めも。


リアルタイムは10月17日、前日分のところから10日くらい経ってるのかな、あれです、ACアダプタは通販で購入しました、なんだかんだとポイント溜まってる分で全部買えたから良かったかなー。
連動カードは使ってるんだけど地味にポイントは放置してるので、ちょくちょく消えてるかもしれないんだけど、まあそういうのは仕方ないやね。
そもそもなんで先代が止まったのかがわからないので怖くないでもないものの、現在のところ極めて順調です。
パソコン純正のじゃないんだけど、同じメーカーの規格同じやつ。

で、安心して、今はあれです、文アルのメンテナンス終了待ちみたいな。
あとあれ、そろそろ紅茶を沸かさないとならないなー、と思ってます。
それとすっかり忘れてたんですけども、文アルのキャラをぽちぽちと一日分ずつで打ち込んでいたら徳田秋声さんが2回出てまして、しかも内容が全く完全に違ったのでなかなか気づかなかったみたいなことしでかしてまして。
(要するに尾崎一門時代と自然主義時代って感じ。)
(実際にどういう感じで推移したんだかがよくわからないんだよね、ぶっちゃけ新思潮たちと絡む頃の秋声さんはパーティで自然主義の他の面子と一緒だったことがあるくらいで単独の作家扱いぽかったし。)
まあなんか、適当に、どうしたら良いかなと迷っております。
残り何人だったかがだいぶ曖昧になってしまった感じだよなぁ。
適宜こう、適宜、わりと適当な感じに。


9月7日めも。


なんかわりとぼへーっとしてるわけですが、なんか打ち込みたいな、いやでも、みたいなことを考えながら「キャラ紹介」というほどでもないんだけどキャラ言及みたいなあれで秋声が実は重複してたってやつは一応書いてきました。
別に大した拘りでもないんだけど文章量だけは変えたくない。
特に意味はないんです、特には。
完全に注意文の体裁で一行書き加えててもいいんだけどねー。

とゆか最近こう文学研究読んでいてこれは、本当に研究の基礎として知っておかなくてもいいんだろうかってことがぽちぽちとありまして。
例えば作家の経歴の中から『キング』や婦人雑誌、ひょっとしたら少年雑誌なんかも消えてるかもしれない問題。
これ、きちんと個人を調べた文学研究以外の人のほうがこの時期に関しては仕事として評価されていないみたい、とキングへの掲載らしきことを取り扱っていて(武者さんの「新しき村」の間接関係者さんの本)、若干ため息が。
何回も言うけど、評価を低くする分には止めないんだよね。
あと、本人が意に染まぬ仕事としてこの時期は仕事とは認めないってのも悪いとは思いません、差別やら格差が悪いとは思わないし正直。
筆折ったとか、経歴不明とかはさすがにないだろ誰の伝言ゲームの結果よ!?
主な関係者は久米さんとか吉川さんですかね…、吉川さんはキングを中継しないと躍進した意味がどうあってもわからない…、久米さんはキャリア初期から婦人雑誌書いてるじゃない、最初からじゃんてのが語られてなくてわからない。続く。


9月8日めも。


あとあれ、「純文学の検閲が酷かった」という認識で純文学者中心で事情を語るのも気になるんですが、多分他所の10分の1くらいしかないので…、珍理論あんまりぱっかぱっかと立てられてると辛いんですよね…。
大衆文学も取り締まり酷いけど、婦人雑誌も厳しいんじゃないのかなぁ。
いや、部数で厳しさが増えるものなので、基本的にこう、純文学は、ごく一部の作家くらいしか関係ないというか。
あ、なんかもう、完全にルール無用になった戦中はこの限りでもないです。
どっちかというと戦前部数が多かった人らが制約食らってることが多いので、正直現代から見るとかなりマニアックな部類の本が増えてたりしますねー。
文学随筆とかなんかこの時期の本が多いよね。
なんか紙の質が悪いので読みづらかったりするけど、意外と残ってたりする。
昔手に取ったことのある、どす黒い感じの本とかあの時期のものだったのかもなぁ。

まあいや、この辺はいいんだよね、この辺は。
哲学関係者のグループと、中央公論や改造のエース級の編集者を巻き込んだ大規模な取り締まり事件である横浜事件を、純文学が原因説とか作るの止めて欲しいんだよね、なんか地味に人数いるんだけど。
本気であれはメンタルダメージ大きいので、出来れば横浜事件のあらましくらいは読んでおいて欲しいです…、なぜあの領土関係の論文に端を発した事件に谷崎潤一郎の態度の悪さとか唱える気になったの、本当になんでそんなにすっかすかなの!!
純文学が世界の中心だと、谷崎くらいしか名指しされてないからね…まあ。


9月9日めも。


前日分からの続きにょろにょろ。
戦時中の話なども、純文学作家が中心になって、後世評価が高い有名な作家から順番に国からの声が掛かったという認識でいる人らがどうもおいでのようなんですが(そしてその情報が失われたと認識してるのかな?)、戦争のための戦意高揚の手段として選ばれたのが映画産業であって、その面子として講談社社長の野間さん、宝塚歌劇団の小林一三さん、文藝春秋の菊池さんが呼ばれていまして。
まあざっくり言うとあれだ、まだ映画産業がペイしてなくて。
野間さんと一三さんが映画に乗り出してたんだよね。
菊池さんがなんでいるのかはこの時点ではまだよくわからないものの(映画原作の関係かねぇ?)、まああとで作った総合の映画会社の社長やってるしねー。
一三さんは政界入りして大臣になってます。
まあ、財界には当時ぽちぽちいたので別に珍しくもないんだけどね。
文壇からだと菊池さんしか呼ばれてないせいで、正直見えづらくなってる気がする、というか、文壇で唯一「財界の人間」として認識されていたんじゃないかって思ってるんですけどねー、扱いがそれに近いし。

で、この流れから戦時中の展開を追い掛けて行くとわりとわかりやすくなるはずです、菊池さんの言動やら組織図やらで実は証拠があっちにもこっちにも転がってるし、そもそも選ばれたのが映画であり、というところから入らないとかなり意味不明になるはずです、映画から純文学作家メインにしたのも菊池さんっぽい。
つか…戦時組織改変を語ってるんだよね本人…、なんで無視るんかね、文学研究。

(文アルとか近代芸術、129)