雑記:文アルとか近代芸術、106


1月13日めも。


リアルタイムが2月27日、さっき丸一日分がぶっ飛びました、友人に聞いてみたところやっぱり普通になに使ってても落ちるそうです…困ったね(文字打ち込んでるとなんでも落ちます、確かクロームも落ちたな、検索打ち込もうとした時)。
で、えーと、なんかこう、どうも冬季うつっぽいのです。
しかしこういう時に無理に動くのはちょっと、バナナ食べて日光に当たり、身体を出来る範囲で動かしたいと思うんですが、なんかもう胃が冷たい。

あとあれ、菊池さんが「作家の分水嶺」ってことはわりと普通に言われてまして、一番露骨に言ってるのは多分自然主義+白鳥さんとかだと思う。
なんかね、仕事来るようになったよね、みたいな。
それと著作権に関しては菊池さんが文芸家協会、で良かったっけ、作家と戯曲の組合を合体させたやつ(戯曲のほうは山本有三がメインでいいのかな、なんかいつもの面子って感じのところで作ってる、久米さんとか菊池さんとか、あと久保田万太郎…はいたっけいなかったっけ、まあこの人も少なくとものちのち文藝春秋に出入りしてるけど)。
これを「話の屑籠」で著作権成立したからいらんくなったんだけど、なんか成立した途端に妙に組合数が増えたんで潰せなくなり、結局菊池さんのところに組織が戻って来たらしいです、ああまあ、なんだ、なんとなく全部わかる気がする。
戦時中などの国からの依頼なんかは結局ここの会長っていう名目で受けてたりします、いや、当人が書いてるところ以外だとなんかないんだけどな…。
まあ、彼が業界トップ、というか、そう動き始めてからだいぶ経ってからの頃だから他の人が扱うとあんまり身分に拘ってないんだけどね…まあ一応。


1月14日めも。


2月27日、前日分は日付超え辺りの頃に打っておりまして今回は夜9時くらい、とにかくあまりにも無尽蔵にテキスト打ちで各種ソフトが落ちまくるために異様なまでに時間が費やされている、ということをぐだぐだ語っていたら文章の密度があまりにもみっちりになりすぎていて反省しました。
なんかねー、それと同時に菊池さんの影響力書いてたのよ。
ちょうど前日分の続きね。
ただ、これはもともと別の話の前提にするつもりだったんだけど、なんか結構ややこしいっていうか情報がまとまってないので折に触れてちまちままとめるようにしてたんですが、なんかこれをいざまとめてみるとどっかで見たな? となる。

すごく正直「よく他人の功績を奪い取って語られてしまう」とある人物Xさんの経歴として語られていることを見たことがあった、みたいです(Xさんは悪くないよ)。
みたいっていうか、菊池さんの経歴だから読んでやたらいらっとした記憶が蘇り…。
ぶっちゃけ、とある有名な人が周辺の知名度が落ちる人のエピソードを吸収してしまうこと自体はよくあり、まあ、なんかもう諦めで語られる現象ではあるんだよね。
(そしてこの吸収も離れたジャンルの記録などだとそのままなので、第三者が見るとばれっばれみたいな結構切ない展開になっていたりして、まあ、切ないというか、無駄な諍いさせないでっていうか。)
周囲の人の手柄が別の人に、というのは結果だけ見ると若干あれだけど一種の伝言ゲームの結果だったりするものの、業界で一番有名な相手からパクったんなら問答無用で悪意だなこりゃ…、や、Xさんのファンがやったとも思わんよ雑過ぎる…。


1月15日めも。


前日分のだらだら続き。
いや、菊池さんはいいんだ、あの人のことはややっこしいので(昭和6年の段階では業界トップってわけでもないみたい、これが「話の屑籠」の初期ね、ただその頃から概ね古参まで含めてトップクラスの扱いで、そこから数年で確定かなー)、まあ何度か折に触れてまとめるようにしてるんだけどね。
なにぶん、なにがどこに出来て、どの組織がどこにあって。
海外からペンクラブ大会が来るって時に「はーい、受け入れ先は作っとくわー…」とかだらっだら答えてる辺りではもう確定って言ってもいいとは思うものの、この感覚そのものが伝えるのが結構難しいしね。

というか、繰り返しますが客観的な話だと菊池さん以降に作家の立場が変わったって話はよく自然主義の人らがしてまして、含む白鳥さん。
白鳥さんはそもそも菊池さんの『無名作家の日記』を激賞してくれたので、あんたが世に送り出したんじゃね? それで菊池さん仕事が定期的に入るようになったんだよな(事実上のデビュー作とされてるけど、要するに出世作、これで作家としての地位確定なのかな)、と思ってるんだけど、なんかそっちを誇るみたいなことは全くないのね、菊池さんのほうはかなりあとまでお礼言ってるわよ…?
いやそこでもなく、なんというか、作家の地位が変わったのは菊池さんでいいみたいなんだけど、小説を読む人口が増えたってのはどうも彼よりも前みたいなんだよね、彼が増やしたのは通俗小説による非インテリ読者層。
というか、文学青年への憧れなんかはもうちょっと前の世代なんだよね、て話。


1月16日めも。


だらだら続き。
なにを言いたいのかというと、読書人口そのものが増えたからそもそも文学青年が一般的になって、それこそ東京帝大での文学ブームなんてものがあったので(京大に行くことになった菊池さんが言ってたけど、京大だとそこまで文学が絶対ってわけでもなかったんだと、ていうか、要するに一高は文学重視だったんだね?)、芥川のちょい前くらいの世代から世に出てってるんだよな。
てか、ひょっとして谷崎がそういう世代のトップバッターってことでいいのかしら、これがあれ同人誌である『新思潮』の第二世代だよね。
『新思潮』の第一世代である小山内薫さんとか、もはや硯友社にも出入りしてる桁だし(多分一般人の身分で)、なんかちょっと違う感じだし、文学青年どうのー、だと谷崎もしくはちょっと前くらいからって認識でいいのかしら。
谷崎って確か菊池さんと同い年よね、要するに芥川の4歳上かな。
白樺が谷崎よりちょっと前、名前が広く知られたって意味だと逆転する程度でわりと似たような時期、新思潮4次の人が白樺までを新世代として扱っていて(ちょっと世代が上って表現)、まあやっぱりその辺って考えて良さそう。

えーとだから、明治末くらいか。
自然主義らが漱石さんとは時期がいろいろ前後してるものの、ほとんど同時期の作家ってしていいみたいなんだよね。
白樺がそもそも漱石さんの作品に呼応して現れたとも言われていて(まあ少なくとも時期は合致、初号にも載ってますね)、ええと、いや待ってまとまってないな。


1月17日めも。


どうもやっぱり、文学への志向を方向付けたのはなんらかの社会的要因であり、それに最初に載ったのが漱石さん、それとその前の世代から文壇には存在していた花袋らの自然主義のグループってことでいいのかなぁ?
で、その次の世代のトップバッターが白樺、続いて新思潮? 第一期ってことを考えると新思潮のほうが早いのかしら。
ただこれもどうも戯曲って気がするしなぁ。
あれですよね、新思潮の第三期が戯曲寄りだよね。
正直、戯曲に関してがまだまだ調べられてないので言い切ることは出来ないものの、小山内薫さん(新思潮の第一期の中心人物)で考えるとそのほうが妥当かなーと。
というか、歌舞伎に外部の人間が入りだしたのがいつかみたいな、あと、壮士芝居が川上音二郎で書生芝居があって、みたいな、うーん…。
書生芝居ならどう考えても素人の書き手、つか、帝大出身の劇作家とか歓迎しない要素が全くないような気もするんだけど、あくまで推測であって読んだことはない、というか、歌舞伎に関わってた人からしか見たことないのよね、まだこの辺。
そのうち、川上音二郎でいい本見付けないとなぁ。
ただ、あの人も他の芝居の流れと完全に分離されて扱われてることがあるから、あんまり妙な本を最初に選びたくない…流れの中の本も絶対あるはずだしね。
(歌舞伎座に立った唯一の現代芝居だってさ、川上さん。)

じゃなくてー、あれなんだよ、あれ、明治末くらいからの小説の「書き手」になろうという要求ってのは、なにかなー、て話したいのよ前提長いって。


1月18日めも。


そもそも『日本文壇史』なんかでもわりと初期の頃は印刷機械についていろいろ言ってるんだよね、まあ結局活版が上手く行かなくて…活版だっけ、違ったかもしれんけど、とにかく文字組が上手くいかなくて木彫りに戻ってたりもしたわけですが。
この時期の話は基本的に新聞。
単行本なんかだと文字組じゃないとちょっと難しいよな。
新聞社がわりといっせいに銀座に集まってたり、その後、またわりと一気に有楽町近辺に移ったりしているところを見ると、どうもその辺で文字が組めるようになった、というか、雨露を気にしている様子がある。
この辺で結構高性能な印刷機械が手に入ったんじゃないのかなー。
で、明治末には多分また一気に増えてる、んじゃないかと思うんだよね、妄想だけど、どこかのジャンルでは取り扱ってるはずなんだ。
(出版業界でもあってもいいとは思うんだけども、かなり零細のところじゃないと難しいかもなぁ、ううん。)
大正末くらいには多分この辺はそんなに問題ではなくなってるんじゃないかなー、文藝春秋関係だけはそれなりに資料見てるけど触れてるの見たことないし。
次の円本の時代もかなり零細企業まで参加してたぽいしね。
大量生産そのものがチャレンジャーだけど、印刷機械どうのというところまでは神経質には触れてなかったからなぁ。

つまりなんというか、そもそも明治末に紙がそれよりも前の時代よりも気楽に印刷出来るようになってるのかな、てのが多分言いたいことです、長かったけど。


1月19日めも。


ぐだぐだ続き。
というかそもそもこの雑記ってのはとりあえず頭の中を整理するために書いているので、人に伝えるスタイルなのも比較的「伝えるつもりで書く」からなのですが、たまに読むことすら出来なくて直すことはあるけど主題や結論が曖昧とか前提にすら到達しないとかそういうのだと気にしないんですが。
さすがにそれでも今日は酷めだったねいつも以上。
多分もともと菊池さんが分水嶺ってのに、若干の違和感があったんだと思うんだよね、新世代に彼よりも年上の人らがいるので、旧世代のラストってのはあれ、自然主義でいいはずです、彼らに関しては「助かった!」と明言してる。
志賀さんなんかは同じ白樺で中間文学(だいたい大正時代の中期くらいから目立ってるけど文学史からはほとんど存在を無視られた)の仲間の人と、菊池が出てきていい部分もあったが純文学としては駄目になった、的な言い方してるんですが。
まあこれに関しては置いとく。
「自分なんかは菊池よりも世代が前なので良かったが」ってのは普通に客観的に事実だと思うんだよね、で、なんというか、全体の論旨は一言だけ言うとただの昔は良かった的な生存バイアスにすぎないかな、とだけ。
あれ、昔は出産で死ぬ女はいなかったってやつ、出産で生き残った女以外は死んだだけだよっていう、本来なら死んでたはずの作家が生きてる程度の意味ならあるかな。

本気でだらっだらと語って来たんですが、要するにあれ、漱石さんはどこに位置してんの、という話をさっきから延々としてます。


1月20日めも。


自然主義が旧世代なんだよね、これは確定、白樺が新世代なんだよね、白樺よりもちょいあとの谷崎もまあ新世代扱いでいいんじゃないかなって思わないでもない、彼の場合はそんなに世代に拘らなくてもいいかもだけど(なんにも属してないし、荷風さんの激賞を受けたくらいしか聞かない、中央公論の援助を戦中に受けてたとは聞いたことが)。
白樺を誘引したという言い方をされている、漱石さん、彼の登場以降に小説が書かれたことはそれ以前の作家にとって別の話、とされるまでの漱石さんは、別に派閥に属してないわけでもないような気もするけどどこの派閥かって言われたらよくわからない。
というか、あれです、鴎外さんが漱石登場以前には「ほとんど小説を書いていない」ってされてて、彼の登場以降に彼の対抗馬として書いた作品のほうが多分、えーと、なんというか…その、出来がいいです、歴史作品とか書いてるし。
(代表作が『舞姫』なんだよなという気持ちを殺しつつ、まああれは、自伝的小説でそれは誰でも一作は書けるというようなことを言われてるからそういう理解をしたほうがいいのかなぁ。)

漱石さんは別に過小評価されてるってわけではないと思うんだよね。
ただ、なんか文学史って意味だとなんか、省かれるんだよね、朝日新聞を牙城にして各種作家らに作品を書くように説得して回ってたことなんてのもそんなに一般的に知られてない(私が知ったのはそれがテーマの本と新聞の本で)。
弟子なんてものはいないんじゃないかな、とまで言われてるんですが、多分、自然主義らが七転八倒して「長い文章で現代題材」を扱えるようになったのと違う手法なのよね、で、条件が揃えばどうもかなり容易に真似出来たらしい。


1月21日めも。


というか、自然主義なんかは比較的読める内容なんですが(花袋のリリシズムにぐんにゃりすることはあるけど文章は別に平気よねあれ)、同時代の小説ってこう、なんというか、なんというかあんまり現代人が読めるようなものでは…。
あの、樋口一葉が「男と比べても」って言われてたけど、彼女が登場した時代に現代でも読める作品は…なんというか、何作品かくらいっていうか。
なんかもう、手法そのものが確立してない感じです。
自然主義を海外の模倣としてはあまりに稚拙、と表現していた菊池さんにはやっぱり私は同意出来ず、あれが日本で初めての現代のオリジナル(いくつかの例外はさて置き、さて置きっていうかなんか特殊な小説ばっかりなんだよな、一葉さんはまた別)って捉えた鴎外さんのほうが正しいんじゃないのかなぁ、と思うわけです。

で、そんな時代に夏目漱石。
いろいろな時期は前後するけども、自然主義と概ね同時代とされる作家。
ある日突然に『猫』(吾輩は猫であるの略、文学史読んでると正式名滅多に見ないwww)で世に現れたっていう。
東京日日新聞は、東京朝日新聞にどう足掻いても勝てず、対抗馬として呼ぶのが鴎外さんくらいしかなかったという。
鴎外さんはそこでなぜか社会問題を世に訴える歴史題材の作品を書き始めました、鴎外さんしかいないって気持ちはわかる(相手は超絶インテリ)、鴎外さんの書いてる作品もそれ以前に世にない新鮮なものだし、個人的には好きです、社会派なのもいい。
まあ売れるわきゃねぇだろ!! て日日新聞のセールス担当も正しい。


1月22日めも。


そもそもが印刷機械が、というのも、他の事業が日露戦争後に進展してるからそこも同じなんじゃないかなぁ、という一面がまずあり。
国威高揚っていうか日本人でも意外といけんじゃないの! みたいな、ロシアに勝ったんだ劣等人種なんかじゃないんだ的な、「国家主義」と柔らかく呼んでるのがこの時代です、国粋主義って呼ぶのが躊躇われるんだ…そんな歪んでないもんそんな。
この時代を埋めるために哲学とか小説とかが求められたらしいんだわ。
まあこの辺に関しては、周辺をぽつぽつ読んでればさして珍しい意見でもなんでもなくよく出てきます、見ればわかる程度に語られてたり触れられてたり。
漱石さんの話ってまあ、いろいろ意見はあると思うけど、文章って意味でさして珍しくない、格調がどうのとかあんまり言われてない。
内容がちょっと「えー、これは、どういう」ということはあるけど、読むのがそんなに難しくないし真似出来そうなんだけどこう、品がないわけじゃない。
時代が先にあって、あとからぴったりそこに嵌まる人が出てきたパターンだと思うんだけどこう、なんとなくこう、あれ。

俺にも書けるかもしれない!!
と思われたのではないかなっていう、こう、なんか。
多分そんなことが言いたかったんじゃないかと思います、いや、これだったかなぁ、ただ、順番で考えてくとなんかこれは間違ってない気はする。
売れるとか世に認められるかとかは全く別として、まあ真似したら書けるってのはありそうだなー、と、自然主義は同階級しか真似は無理っぽというか、そんな。

(文アルとか近代芸術、106)