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*東京鋼材(→三菱鉄鋼) まあまず、そもそも日本の鉄鋼業そのものが度重なる軍縮と安いインド銑(ずく、ちょっと不純物の多い鉄ね)との戦いが続き、大正11年に三菱製鉄の朝鮮・黄海道の兼二浦製鉄所が。 大正12年に三菱造船の「長崎製鋼所」が閉鎖されていた、という前提があるんですが。 (大正11年にワシントン軍縮条約ですね。) 三菱造船はのちの三菱重工の母体(三菱造船と三菱航空機と三菱電機とが合同)。 長崎製鋼所は長崎造船所の付随施設が独立したもののようですね。 なにを考えていたんだか、大正14年の段階で三菱銀行が東京鋼材を持ち帰って来ました。 みたいな感じの話。 東京鋼材というのは明治37年、我が国最古の東京スプリングと、大正5年設立の東京鋼材製作所が大正6年に合併。 三菱銀行との関係はどうも大正6年の段階の増資の融資からあったようなんですが、その後大正8年にも救済融資。 同じ大正8年に三菱商事から購入した原材料代金も焦げ付かせたらしく。 どうも三菱商事はその債権を理由に販売を一手に引き受けてたらしいです。 大正14年の三菱銀行の再建乗り出しはまあ関東大震災後だから仕方ないにしてもなんか甘くねぇか。 というか、大正12年に三菱系の製鉄所を閉鎖する前の段階で技術的な相談くらいしてもいい状況だよなぁww で、製鉄所が閉鎖したあとも残ってた三菱製鉄にこの東京鋼材の実態調査を依頼。 調査を依頼されたまま、結局三菱製鉄が経営引き受けることになったっぽい。 ていうかすでに販売は三菱物産がやってんだよねここ。 三菱銀行はそれを尻目に黙々と株を買い込んで、昭和2年6月の時点で99%取得。 その後昭和4年に三菱製鉄が結局東京鋼材の負債も引き受け、三菱銀行が持っていた株も譲渡されたようです。 なにを考えていたんだかよくわからないんだけど、と言われてたけどあんまりなんも考えてない気がします、三菱銀行。 三菱ってなんかそこはかとなくブランドとか最古とかそういうのに弱い気もする。 ただ、結局この子を持って帰って来たこともきっかけになって三菱重工の長崎製鉄所も電気製鋼工場(設備グレードアップしとるがなww)として昭和4年に復活したそうです(*´∀`*)ノ まあでも、昭和5年にはプチ需要が終わっちゃってまた経営苦しかったみたいだけどな! やっぱりあんまりなんにも考えてなかった気がします、三菱銀行。 ていうか昭和4年って三菱銀行も森村銀行との合併で上に下にの大混乱してた時期だね? ていうか小さな会社食べちゃ駄目って三菱当主4代目に言われてたよね確か。 (持って帰って来たものの、三菱銀行は内部人事に全然手を付けてないんだけど、それもそれでなんだ。) で、ここまでで第1幕。 **三菱製鉄と東京鋼材のその後。 それでこの三菱製鉄が東京鋼材と一緒になって三菱鉄鋼作ったのかなあ、とか勝手に解釈してました。 と、思ったらすみませんでした、第2幕あったまだこの話全然続いてた! ちまちまと業績が復活したり落ちたりを繰り返していたんですが、まあ戦中だししゃあないわな。 昭和8年の「金輸出再禁止」って事態にて為替がガタ落ちし、まあ輸出が生き返ってはいたんですがぁ。 昭和9年2月にこの東京鋼材の親会社だった三菱製鉄が「日本製鉄」の立ち上げのために出てっちゃったww この時点で朝鮮の兼二浦製鉄所を閉鎖、三菱鉱山に残りの業務を譲渡して解散。 で、残された東京鋼材をどうするか、と一旦引き取った三菱合資が悩んだ挙句に三菱鉱山の下に付けたっぽい。 どうも三菱製鉄の解散の時点で三菱財閥のあちこちに株を送っていたらしく、合資1番(これはいわゆる持ち株会社機能持ってたとこですが)で重工が2番目だったので、三菱製鉄としては重工に頼むつもりだったっぽい。 が、三菱合資がわざわざ増資を行い株の増発をさせて過半数を取得、その上で改めて三菱鉱山に、と託したってことはこっちと一緒にやって行かせるつもりだったんでしょうね。 争ってまではいないものの、微妙に意見が別れてた可能性はあるな、経緯見ると確かに。 この経緯が2年ほど掛かったんですが、どうもその時期には昇り調子だったみたいです、東京鋼材。 この後の経緯もいろいろあるけど、さすがにもういいや、東京鋼材が三菱鋼材に名前を変えたり、三菱鉱山に一回預けたけどやっぱり三菱合資の下に付けてたり(要するに中核事業扱い)。 三菱総出で深川工場作ってたり、結構いろいろ。 昭和17年には三菱合資が三菱鉄鋼を作りまして、三菱重工の元に戻ってた長崎製鉄所を買収。 で、それから三菱鋼材を合併。 ていうか三菱鉄鋼って結局東京鋼材がメインだねこれはどのルート見ても間違いないね?! ところで東京鋼材は名前変えても会社形態変えてもほとんど人事は変わらなかったんだってww (兼二浦製鉄所の経験者が参加したくらいみたいねー。) しかしなんでだろう、日本アルミニウムなんかもそうなんだけど、妙に金属加工を三菱重工から切り離すんだよなぁ…。 三菱合資の行動ってことは、岩崎小弥太(4代目)の意思ってことになるはずなんだけど。
*東京鋼材(→三菱鉄鋼) まあまず、そもそも日本の鉄鋼業そのものが度重なる軍縮と安いインド銑(ずく、ちょっと不純物の多い鉄ね)との戦いが続き、大正11年に三菱製鉄の朝鮮・黄海道の兼二浦製鉄所が。 大正12年に三菱造船の「長崎製鋼所」が閉鎖されていた、という前提があるんですが。 (大正11年にワシントン軍縮条約ですね。) 三菱造船はのちの三菱重工の母体(三菱造船と三菱航空機と三菱電機とが合同)。 長崎製鋼所は長崎造船所の付随施設が独立したもののようですね。 なにを考えていたんだか、大正14年の段階で三菱銀行が東京鋼材を「お持ち帰り」して来ました。 みたいな感じの話。 東京鋼材というのは明治37年、我が国最古の東京スプリングと、大正5年設立の東京鋼材製作所が大正6年に合併。 三菱銀行との関係はどうも大正6年の段階の増資の融資からあったようなんですが、その後大正8年にも救済融資。 同じ大正8年に三菱商事から購入した原材料代金も焦げ付かせたらしく。 どうも三菱商事はその債権を理由に販売を一手に引き受けてたらしいです。 大正14年の三菱銀行の再建乗り出しはまあ関東大震災後だから仕方ないにしてもなんか甘くねぇか。 というか、大正12年に三菱系の製鉄所を閉鎖する前の段階で技術的な相談くらいしてもいい状況だよなぁww で、製鉄所が閉鎖したあとも残ってた三菱製鉄にこの東京鋼材の実態調査を依頼。 調査を依頼されたまま、結局三菱製鉄が経営引き受けることになったっぽい。 ていうかすでに販売は三菱物産がやってんだよねここ。 三菱銀行はそれを尻目に黙々と株を買い込んで、昭和2年6月の時点で99%取得。 その後昭和4年に三菱製鉄が結局東京鋼材の負債も引き受け、三菱銀行が持っていた株も譲渡されたようです。 なにを考えていたんだかよくわからないんだけど、と言われてたけどあんまりなんも考えてない気がします、三菱銀行。 三菱ってなんかそこはかとなくブランドとか最古とかそういうのに弱い気もする。 ただ、結局この子を持って帰って来たこともきっかけになって三菱重工の長崎製鉄所も電気製鋼工場(設備グレードアップしとるがなww)として昭和4年に復活したそうです(*´∀`*)ノ まあでも、昭和5年にはプチ需要が終わっちゃってまた経営苦しかったみたいだけどな! やっぱりあんまりなんにも考えてなかった気がします、三菱銀行。 ていうか昭和4年って三菱銀行も森村銀行との合併で上に下にの大混乱してた時期だね? ていうか小さな会社食べちゃ駄目って三菱当主4代目に言われてたよね確か。 (持って帰って来たものの、三菱銀行は内部人事に全然手を付けてないんだけど、それもそれでなんだ。) で、ここまでで第1幕。 **三菱製鉄と東京鋼材のその後。 それでこの三菱製鉄が東京鋼材と一緒になって三菱鉄鋼作ったのかなあ、とか勝手に解釈してました。 と、思ったらすみませんでした、第2幕あったまだこの話全然続いてた! ちまちまと業績が復活したり落ちたりを繰り返していたんですが、まあ戦中だししゃあないわな。 昭和8年の「金輸出再禁止」って事態にて為替がガタ落ちし、まあ輸出が生き返ってはいたんですがぁ。 昭和9年2月にこの東京鋼材の親会社だった三菱製鉄が「日本製鉄」の立ち上げのために出てっちゃったww この時点で朝鮮の兼二浦製鉄所を閉鎖、三菱鉱山に残りの業務を譲渡して解散。 で、残された東京鋼材をどうするか、と一旦引き取った三菱合資が悩んだ挙句に三菱鉱山の下に付けたっぽい。 どうも三菱製鉄の解散の時点で三菱財閥のあちこちに株を送っていたらしく、合資1番(これはいわゆる持ち株会社機能持ってたとこですが)で重工が2番目だったので、三菱製鉄としては重工に頼むつもりだったっぽい。 が、三菱合資がわざわざ増資を行い株の増発をさせて過半数を取得、その上で改めて三菱鉱山に、と託したってことはこっちと一緒にやって行かせるつもりだったんでしょうね。 争ってまではいないものの、微妙に意見が別れてた可能性はあるな、経緯見ると確かに。 この経緯が2年ほど掛かったんですが、どうもその時期には昇り調子だったみたいです、東京鋼材。 この後の経緯もいろいろあるけど、さすがにもういいや、東京鋼材が三菱鋼材に名前を変えたり、三菱鉱山に一回預けたけどやっぱり三菱合資の下に付けてたり(要するに中核事業扱い)。 三菱総出で深川工場作ってたり、結構いろいろ。 昭和17年には三菱合資が三菱鉄鋼を作りまして、三菱重工の元に戻ってた長崎製鉄所を買収。 で、それから三菱鋼材を合併。 ていうか三菱鉄鋼って結局東京鋼材がメインだねこれはどのルート見ても間違いないね?! ところで東京鋼材は名前変えても会社形態変えてもほとんど人事は変わらなかったんだってww (兼二浦製鉄所の経験者が参加したくらいみたいねー。) しかしなんでだろう、日本アルミニウムなんかもそうなんだけど、妙に金属加工を三菱重工から切り離すんだよなぁ…。 三菱合資の行動ってことは、岩崎小弥太(4代目)の意思ってことになるはずなんだけど。

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