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*井上勝(明治) 鉄道の父ちゃん。 (と呼ばれているけど私鉄反対派だったじゃねぇか的な異論もあるよ)(それにも再異論があるけど。) 東京駅の改装? もしくは復原にて広場にあったはずの彫像が消える。 鉄道遺産系の方によると仕舞われたらしい。 終わったんでそろそろ戻ってくるかなー、と一部心配されていたりしますね| ゚д゚) なんでもJRの人でも特に知ってるとは限らないんだって。 確かに「郵便の父」みたいな一般知名度はないけど、資料読んでると普通に出てくるんだけどねー、不思議。 個人的には東海道線の父ちゃんって呼んでます、明治5年、初期開業。明治22年に全通。 だいたいここくらいまで鉄道建設の代表格だったんだって。 井上勝が鉄道を扱う場所に呼ばれるんじゃなくて、井上勝が長に着いた機関が鉄道を扱うらしいよww 友人に説明する時に長州ファイブって属性を忘れ去ってたごめん。 ぽくないね? と言われたんですが、山尾庸三さんとこの人は技術官僚だったからかも。 長州の場合にはなにか学習アウトラインみたいなものがあったのかなぁ、前に読んだ薩摩藩は完全に洋行者で担当を割り振ってた感じだったんですが。ひょっとして英国側の勧めもあったんじゃなかろうか。 (幕末の頃からフランスは共同、アメリカは建設許可求め、イギリスは自主建設を推奨してたみたい。) **東海道線(官設鉄道)に関して どうも新橋-横浜区間を作ったあとで京都と大阪に鉄道寮を移すように主張して揉めたらしいです。 (この主張そのものは通ってるんだけどね。) 明治6年辺りから工部省の鉄道寮から離れたりもしてるのかな? ところによっては井上馨氏と連座して下野してるって説明されてますが、全く無関係でもないのかなぁ。 「明治6年政変」ってのがあって、なんか広域でいろいろ揉め事起こってるんだよね(要するに征韓論争の年なんですが、征韓論全く関係ない件も結構あるからなぁ)。 井上馨氏は明治8年の江華島事件で政界復帰してるんだけど、井上勝さんはどうだったんだろ? 一応明治9年の時点には発言記録残ってるんだけど、どうも身分がよくわからないんだよなぁ。 この人がわからないというより、工部省とか鉄道省以外だと組織が流動的すぎるんだよ真面目に…。 この間に行われていたらしい、鉄道(新橋-横浜間)の華族への払い下げの話には関わってるのかなぁ。 一応井上馨さんまでしか名前は出てこないものの、実際に経営する時点で井上勝さん必要だと思うんだけど。 秩禄公債という政府から華族に支払われていた失業手当のようなもので払い込みしていたら、金禄公債(退職金みたいなの)に切り替えられてしまいまして、これを受け付けないって言い出したのが岩倉具視卿のようなんですが。 (秩禄公債でいろいろ問題が起きてたからそれを防ぐためにちょっとずつ扱い違うんだよね。) そもそもこの鉄道払い下げの話を始めたのも岩倉具視じゃんなんなんだお前! とか財界系の人に突っ込まれてました。 鉄道史的にどう見ればいいのかはちょっとわからない。 井上馨と井上勝の下野が解かれた以上、止めといたほうが無難なんじゃね? と考えたとしたらそれも悪意とも言いがたいよなぁ。 で、その明治9年以前にそれほど特に鉄道についての文言はないみたいなんですよね、この時点での「東西幹線」の中山道ルート推しは明治6年の時点での政府見解の一つと被ってるような。あれですね、東海道にはすでに水運があり発展していて、山間部を通すことよってその周辺部の発展を促そうみたいなやつ。 陸軍の意向ではないです、と言下に言ってるという見方もされてましたが。 これだけだと専門家っていうよりはいずれかの意見を採るかどうかの立場の人っぽいかなぁ。 明治19年に東西幹線を東海道ルートにするって時点ではこの人が宣言出してます。 そこまで異様に難航してたのに3年で作っちゃったっていう。明治22年に全通。 まあ「技能的に無理っぽ」みたいな意味合いらしいので、ただの総論の代弁だったかもしれないけど。 あと日本の鉄道が世界標準の標準軌よりも狭い狭軌でいいって判断にも預かってたらしい。 これは最初の路線敷く時点でエドモンド・モレルさん(英人)に質問されてたって話だよね。 この人の人生の中で「金なかったし仕方なかったろ」って言ってる時期と、「あれで良かったんだよ計画通り!」と言ってる時期、「…痛恨のミスだったと、今は、思ってる」って時期とがあるので、まあまあなんか関わってたって見ていいんじゃないかな。 ちなみにこれ年齢順です、一人の著者さんが並べてらして読みましたww 歳取って本音出た系かしら。 実際のところ狭軌のほうが有利な点もあるらしく(カーブ的な意味で)、建設費が安く済んだ結果、日本に鉄道網が張り巡らされる結果になったという見方もあるみたいです。 あ、別の本ではどうも大隈重信がモレルさんから軌間に関して聞かれた時点で相談した相手っぽいね。 そういや英国に留学した時点で土木習ってた人なんてそうそう他にいないだろうしなぁ。 ちなみにモレルさんはオーストラリアの鉄道建設でこの狭軌(日本標準軌)の経験してたみたいです。 で、その間には日本鉄道株式会社の「東京-高崎」間(駅名ではないです地名)で接続するってことになってたっぽい。 高崎は通運会社の時点でも馬車会社の時点でも名前が上位に出てくる一大拠点だったらしいですが。 大まかに中山道ルートで通ってるよね。 日本鉄道KKは結局金禄公債で作られたって見ていいんだろうか…。 井上勝さんが時々「新橋-横浜」間とつなげ馬鹿逃げるなー、みたいなこと言ってらっしゃいます。 東側の歓楽街なんて鉄道敷くの大変だったじゃん…。 (だから今の山手線で西側をつないだんだって、当時の名前は「品川線」、近隣でまともな町は新宿のみっていう☆)
*井上勝(明治) 鉄道の父ちゃん。 (と呼ばれているけど私鉄反対派だったじゃねぇか的な異論もあるよ)(それにも再異論があるけど。) 東京駅の改装? もしくは復原にて広場にあったはずの彫像が消える。 鉄道遺産系の方によると仕舞われたらしい。 終わったんでそろそろ戻ってくるかなー、と一部心配されていたりしますね| ゚д゚) なんでもJRの人でも特に知ってるとは限らないんだって。 確かに「郵便の父」みたいな一般知名度はないけど、資料読んでると普通に出てくるんだけどねー、不思議。 個人的には東海道線の父ちゃんって呼んでます、明治5年、初期開業。明治22年に全通。 だいたいここくらいまで鉄道建設の代表格だったんだって。 井上勝が鉄道を扱う場所に呼ばれるんじゃなくて、井上勝が長に着いた機関が鉄道を扱うらしいよww 友人に説明する時に長州ファイブって属性を忘れ去ってたごめん。 ぽくないね? と言われたんですが、山尾庸三さんとこの人は技術官僚だったからかも。 長州の場合にはなにか学習アウトラインみたいなものがあったのかなぁ、前に読んだ薩摩藩は完全に洋行者で担当を割り振ってた感じだったんですが。ひょっとして英国側の勧めもあったんじゃなかろうか。 (幕末の頃からフランスは共同、アメリカは建設許可求め、イギリスは自主建設を推奨してたみたい。) **東海道線(官設鉄道)に関して どうも新橋-横浜区間を作ったあとで京都と大阪に鉄道寮を移すように主張して揉めたらしいです。 (この主張そのものは通ってるんだけどね。) 明治6年辺りから工部省の鉄道寮から離れたりもしてるのかな? ところによっては井上馨氏と連座して下野してるって説明されてますが、全く無関係でもないのかしら。 「明治6年政変」ってのがあって、なんか広域でいろいろ揉め事起こってるんだよね(要するに征韓論争の年なんですが、征韓論全く関係ない件も結構あるからなぁ)。 井上馨氏は明治8年の江華島事件で政界復帰してるんだけど、井上勝さんはどうだったんだろ? あと、現時点で結び付けて語られていたのを見てるわけでもないんですがこの間に行われていたらしい、鉄道(新橋-横浜間)の華族への払い下げの話には関わってるんじゃないのかなぁ。 井上馨さんが関わっていたことははっきりしてて、この時期だと井上勝氏以外に鉄道専門家がいないんですよね。 秩禄公債という政府から華族に支払われていた失業手当のようなもので払い込みしていたら、金禄公債(退職金みたいなの)に切り替えられてしまいまして、これを受け付けないって言い出したのが岩倉具視卿のようなんですが。 (秩禄公債でいろいろ問題が起きてたからそれを防ぐためにちょっとずつ扱い違うんだよね。) そもそもこの鉄道払い下げの話を始めたのも岩倉具視じゃんなんなんだお前! とか財界系の人に突っ込まれてました。 鉄道史的にどう見ればいいのかはちょっとわからない。 井上馨と井上勝の下野が解かれた以上、止めといたほうが無難なんじゃね? と考えたとしたらそれも悪意とも言いがたいよなぁ。 一応明治9年の時点には発言記録残ってるんだけど、工部省所属でいいのかな。 この人がわからないというより、工部省とか鉄道省以外だと組織が流動的すぎるんだよ真面目に…。 明治8年に海運保護政策(共同運輸への保護と連動って言われてましたが現在確認中)以降、どうも鉄道政策への他機関からの意見陳述が一般化したようです。 それ以前にもお雇い外国人や文化人などのものは存在してるんだけどね。 明治9年ってのは工部省から一旦の区切りの見解が出されたってことなのかも。 で、その明治9年以前にそれほど特に鉄道についての明確な文言はないみたいです、この時点での「東西幹線」の中山道ルート推しは明治6年の時点での政府見解の一つと被ってるような。あれですね、東海道にはすでに水運があり発展していて、山間部を通すことよってその周辺部の発展を促そうみたいなやつ。 陸軍の意向ではないです、と言下に言ってるという見方もされてましたが。 これだけだと専門家っていうよりはいずれかの意見を採るかどうかの立場の人っぽいかなぁ。 明治19年に東西幹線を東海道ルートにするって時点ではこの人が宣言出してます。 そこまで異様に難航してたのに3年で作っちゃったっていう。明治22年に全通。 まあ「技能的に無理っぽ」みたいな意味合いらしいので、ただの総論の代弁だったかもしれないけど。 あと日本の鉄道が世界標準の標準軌よりも狭い狭軌でいいって判断にも預かってたらしい。 これは最初の路線敷く時点でエドモンド・モレルさん(英人)に質問されてたって話だよね。 この人の人生の中で「金なかったし仕方なかったろ」って言ってる時期と、「あれで良かったんだよ計画通り!」と言ってる時期、「…痛恨のミスだったと、今は、思ってる」って時期とがあるので、まあまあなんか関わってたって見ていいんじゃないかな。 ちなみにこれ年齢順です、一人の著者さんが並べてらして読みましたww 歳取って本音出た系かしら。 実際のところ狭軌のほうが有利な点もあるらしく(カーブ的な意味で)、建設費が安く済んだ結果、日本に鉄道網が張り巡らされる結果になったという見方もあるみたいです。 あ、別の本ではどうも大隈重信がモレルさんから軌間に関して聞かれた時点で相談した相手っぽいね。 そういや英国に留学した時点で土木習ってた人なんてそうそう他にいないだろうしなぁ。 ちなみにモレルさんはオーストラリアの鉄道建設でこの狭軌(日本標準軌)の経験してたみたいです。 で、その間には日本鉄道株式会社の「東京-高崎」間(駅名ではないです地名)で接続するってことになってたっぽい。 高崎は通運会社の時点でも馬車会社の時点でも名前が上位に出てくる一大拠点だったらしいですが。 大まかに中山道ルートで通ってるよね。 日本鉄道KKは結局金禄公債で作られたって見ていいんだろうか…。 井上勝さんが時々「新橋-横浜」間とつなげ馬鹿逃げるなー、みたいなこと言ってらっしゃいます。 東側の歓楽街なんて鉄道敷くの大変だったじゃん…。 (だから今の山手線で西側をつないだんだって、当時の名前は「品川線」、近隣でまともな町は新宿のみっていう☆)

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