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甲武鉄道」(2014/07/16 (水) 22:18:18) の最新版変更点

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*甲武鉄道  →JR中央線 明治22年開業時点で新宿-八王子の計画路線。 その後、ご存知のように新宿-東京間が計画されまして(東京駅になるまでも間があるけど)。 明治39年以降の私鉄国有化にてトップナンバー(北海道炭鉱と同時)で国有化されました。 ていうかこの直前に八王子で「中央線」とつながってるんだけどね。 さらにその官設路線部分である八王子から先の「中央線」より八王子-高尾間が管理委譲。 今は八王子までが「中央線」でそっから先が「中央本線」って呼ばれることが多いみたいです。 もっと進むと中央西線って呼ばれるんだけど、なんか不思議な呼び分け方してるよなぁ…。 現在は直通路線などもわらわらあるので、中央線グループのような体裁をなしてる路線ですね。 **三多摩合併との関係 東京府の主要(利根川水系or多摩川)用水である多摩川が神奈川県に属していたために用水管理が上手く行かず、三多摩を東京府へと編入させる、という話になった時に「まあ甲武鉄道も通ったしね」みたいなこと言われてます。 なんというか神奈川の水源はまた別なので、東京のためだけに管理するのが面倒って言われたら仕方ないわな…。 これ、鉄道系の本だとかけらほども出てこないので本当かな? と考えていたんですが。 東京府の本、水道の本、神奈川の本、多摩川の本で出てきたのでむしろ鉄道系で出てこないのが異端っぽい。 しかしこの措置のせいで「県を2つ以上跨ぐ鉄道」ではなくなってしまったので明治末の国有化条件に当て嵌まらないことになり掛けたっていう。特例です、的な法律急遽作ってました。 面倒くせぇな!! あとちょっと話は違いますが今の「中央本線」は甲武鉄道で八王子-新宿(市内)をつなぐという案と、もう一つ八王子から横浜に向かい、東海道線と接続するという案が存在していたことがあったようです。 て、要するにそれって横浜鉄道(横浜線)だよね。 甲武鉄道そのものの目的である生糸の運送計画でも出てきてたけど、地味に対抗線だよなー、ここ。 この案がどうして甲武鉄道ルートになったのかは今の時点で語られてるのは見たことないんですけどね。 (まあいざという時の代替としたら完全に最後まで被らないほうがいいって判断はありかも。) ただ、なので国有化に際して特別な扱いをしてるということそのものはそんなに不思議でもない。 **開業前後のハナシ もともとの計画者は岩田作兵衛氏でいいんじゃないのかな。 鉄道以前にも「玉川上水のところに渡しの許可貰ったものの、やっぱり水が濁るんで無理だった」だとか。 当たり前です上水って要するに今で言う水道のことだぞおい。 堤を突っ走る大八車とかいろいろやってたみたいです。 この辺の行動は八王子が生糸の集積地で、職人のいる江戸に運ぶ伝統がしばらく明治になっても続いてたからのようです。 岩田作兵衛はいわゆる奥多摩などと呼ばれている地域の出身で、まあなんか…変な人だよね? 八王子-新宿なんで当然、甲州街道だとか青梅街道とかは選択しなかったの? という疑問があるようですが。 (ただ、これは街道の歴史から見るとあんまり疑問でもないんだよね、街道って街道そのものに人が住んでるみたいな構造だし、蒸気機関の鉄道が市街地に近寄れなかったように、街道そのものに近寄れなくてもそんなに不思議でもない。) 鉄道以前に玉川上水に拘ってる辺り見てもなんかどっちの系統とも違う方だったんじゃないのかなぁ、と。 街道はそれそのものが一つの組織とか集団みたいな存在でもあるんですよね。 甲州街道はそもそもこの時期に馬車会社が乱立して、この後に運送合戦やって疲弊状態って言われてたみたいだし。 岩田さんも言ってますが、いくら運んでも荷物があるような状態だったようです。 とはいえ、鉄道の輸送力は馬車や大八車なんかとは当然段違いなんで、いろいろ変化しちゃったろうしね。 江戸に集積していた職人の変わりに京浜工業地帯の隆盛、そして生糸のままでの輸出に切り替わったため、横浜に直行するルートの開拓が求められたなどの情勢の変化もあったようです。 とはいえ、この甲武鉄道そのものはいざ開業すると貨物以上に旅客メインにシフトしたみたいなんだけどねー。 岩田さんはそもそも鉄道を志したものの、当時はまだ測量や設計という技術が日本になかったらしく。 なかったというか一人しかいねーけど引き受けてくれるわけがない! というわりともっともな見解の上で測量を習いに行って測量まではなんとかなった(ような気がした)ものの、そこから設計を書き起こすというのがなにがなんだかよくわからなかったらしく、仕方ないのでアメリカ帰りの人を捕まえて書いて貰ったんだけど全然進まずなんかビリヤードやってるし。 出来上がったら畳何枚分ものものすごい大容量になったらしく。 役所持ってったら無茶苦茶笑われたらしいです。 で、横浜派とか言われてる派なんかとも争いがあって馬車鉄道から蒸気機関車に動力変更し。 最終的に日本鉄道株式会社の子会社として政府の手によって建設されるに至り。 なんかそれ見てたらもっと安く作れそうだったから! と川越鉄道とか作ってたみたいです。「ちょっと30箇所くらい訴訟起こされちゃったてへ☆」とか言ってたけど。 でもその後も日本鉄道KKから独立した甲武鉄道の子会社的な存在として、建設費等々が安く上がったために堅実経営してたんだよーん、みたいな感じの運命辿ってたのを見て岩田さぁぁぁぁんやったああああ。・゚(゜´Д`゜)゚・。 と思いました。 あんたデタラメだし技術もなんもなかったけど偉いよマジで!! あ、初期の頃にごちゃごちゃやってたところから安田財閥引っさげた雨宮敬次郎氏とかも参加してたみたいです。 この岩田さんと雨宮さんはあんまり仲良くなかったって言われてるみたいだけど、個人的にはそんなこともないんじゃないかなー、という気もしないでもないんですよね。 まあ、わりと怜悧なところのある(でもたまにぼけてる)雨宮さんからすると、岩田さんとかわりとデタラメで口喧嘩みたいなことになっててもあんまり不思議はないものの、岩田さん、なんていうかそれを引き摺らなさそうじゃん? というか時々関東の私鉄の役員で名前連ねてるの見るんだ(そっちを先に言おう)。 雨宮→岩田でほぼだいたい並んでるんだww 多分井上さんがいると引き裂かれるのね☆ **市街線 一応新宿-東京間のことを指しますが。 東京駅が開業したのが大正3年だし傍系の甲武鉄道が入れたのも結構あとだしで、明治開業からだと当然結構間が開いてます、わりと長いこと新宿-飯田町までだったっぽくて、これが今の飯田橋駅ね。 あと大きな駅として東京駅との機能分離を計画していた時期もあったらしく、今は駅がない万世橋駅というものがありました。過去の写真やイラストが結構残ってるんでもしかしたら見たことあるかも、東京駅に似た煉瓦建築になってました。実際、プレ東京駅みたいなお試しの意味で作られたってのもあるみたい。 これがあれですね、最近「エキュート神田万世橋」が開いた辺り。 大宮に移転した鉄道博物館がもともとあったってのは鉄道マニアでなくてもなんとなく聞いたことはあるかも。 市街線の一部が曲がってるのが陸軍の川上操六さん絡みらしいんですが、まだちょっと資料見つけてないので棚上げ。 青山錬兵場につないだってのはわかってるんですが、その前後のことがわからなくてね。ただ、ここの事情は軍絡みとはいえ、明治って時代柄のせいかわりと明瞭に決まったらしくてよく触れられてますね(当時はそこまで力ないしね)。 あと高架鉄道でもなんかいろいろやってるらしいんだけどここも資料まだ。 踏切が一切ないいわゆるのちの高速鉄道の概念で作られていたようです。 鉄道遺産系の本でもよく出てきますが、石積みの方法が途中で変わってたり、煉瓦使ってたりトンネルがあったり皇居の土地掠めてたりいろいろあるようですね。 神田上水の脇を通すことで土地を確保。 当時は郊外みたいなもの、というより、神田上水の内側、南側の東京寄りの土地が市内だったんだって。なので甲武鉄道はその一番外側に沿ってたみたいです。 こっち作ってたのって仙石貢氏で良かったんだっけ? 工部省出身。 今の山手線の一部である品川線を作って、甲武鉄道・市街線を作って、山手線の一部の豊島線を作ってた…気がする。 すみません、この辺は途切れ途切れで読んでるのでかなり自信がない。
*甲武鉄道  →JR中央線 明治22年開業時点で新宿-八王子の計画路線。 その後、ご存知のように新宿-東京間が計画されまして(東京駅になるまでも間があるけど)。 明治39年以降の私鉄国有化にてトップナンバー(北海道炭鉱と同時)で国有化されました。 ていうかこの直前に八王子で「中央線」とつながってるんだけどね。 さらにその官設路線部分である八王子から先の「中央線」より八王子-高尾間が管理委譲。 今は高尾駅までが「中央線」でそっから先が「中央本線」って呼ばれることが多いみたいです。 もっと進むと中央西線って呼ばれるんだけど、なんか不思議な呼び分け方してるよなぁ…。 現在は直通路線などもわらわらあるので、中央線グループのような体裁をなしてる路線ですね。 **三多摩合併との関係 東京府の主要(利根川水系or多摩川)用水である多摩川が神奈川県に属していたために用水管理が上手く行かず、三多摩を東京府へと編入させる、という話になった時に「まあ甲武鉄道も通ったしね」みたいなこと言われてます。 なんというか神奈川の水源はまた別なので、東京のためだけに管理するのが面倒って言われたら仕方ないわな…。 これ、鉄道系の本だとかけらほども出てこないので本当かな? と考えていたんですが。 東京府の本、水道の本、神奈川の本、多摩川の本で出てきたのでむしろ鉄道系で出てこないのが異端っぽい。 しかしこの措置のせいで「県を2つ以上跨ぐ鉄道」ではなくなってしまったので明治末の国有化条件に当て嵌まらないことになり掛けたっていう。特例です、的な法律急遽作ってました。 面倒くせぇな!! あとちょっと話は違いますが今の「中央本線」は甲武鉄道で八王子-新宿(市内)をつなぐという案と、もう一つ八王子から横浜に向かい、東海道線と接続するという案が存在していたことがあったようです。 て、要するにそれって横浜鉄道(横浜線)だよね。 甲武鉄道そのものの目的である生糸の運送計画でも出てきてたけど、地味に対抗線だよなー、ここ。 この案がどうして甲武鉄道ルートになったのかは今の時点で語られてるのは見たことないんですけどね。 (まあいざという時の代替としたら完全に最後まで被らないほうがいいって判断はありかも。) ただ、なので国有化に際して特別な扱いをしてるということそのものはそんなに不思議でもない。 **開業前後のハナシ もともとの計画者は岩田作兵衛氏でいいんじゃないのかな。 鉄道以前にも「玉川上水のところに渡しの許可貰ったものの、やっぱり水が濁るんで無理だった」だとか。 当たり前です上水って要するに今で言う水道のことだぞおい。 堤を突っ走る大八車とかいろいろやってたみたいです。 この辺の行動は八王子が生糸の集積地で、職人のいる江戸に運ぶ伝統がしばらく明治になっても続いてたからのようです。 岩田作兵衛はいわゆる奥多摩などと呼ばれている地域の出身で、まあなんか…変な人だよね? 八王子-新宿なんで当然、甲州街道だとか青梅街道とかは選択しなかったの? という疑問があるようですが。 (ただ、これは街道の歴史から見るとあんまり疑問でもないんだよね、街道って街道そのものに人が住んでるみたいな構造だし、蒸気機関の鉄道が市街地に近寄れなかったように、街道そのものに近寄れなくてもそんなに不思議でもない。) 鉄道以前に玉川上水に拘ってる辺り見てもなんかどっちの系統とも違う方だったんじゃないのかなぁ、と。 街道はそれそのものが一つの組織とか集団みたいな存在でもあるんですよね。 甲州街道はそもそもこの時期に馬車会社が乱立して、この後に運送合戦やって疲弊状態って言われてたみたいだし。 岩田さんも言ってますが、いくら運んでも荷物があるような状態だったようです。 とはいえ、鉄道の輸送力は馬車や大八車なんかとは当然段違いなんで、いろいろ変化しちゃったろうしね。 江戸に集積していた職人の変わりに京浜工業地帯の隆盛、そして生糸のままでの輸出に切り替わったため、横浜に直行するルートの開拓が求められたなどの情勢の変化もあったようです。 とはいえ、この甲武鉄道そのものはいざ開業すると貨物以上に旅客メインにシフトしたみたいなんだけどねー。 岩田さんはそもそも鉄道を志したものの、当時はまだ測量や設計という技術が日本になかったらしく。 なかったというか一人しかいねーけど引き受けてくれるわけがない! というわりともっともな見解の上で測量を習いに行って測量まではなんとかなった(ような気がした)ものの、そこから設計を書き起こすというのがなにがなんだかよくわからなかったらしく、仕方ないのでアメリカ帰りの人を捕まえて書いて貰ったんだけど全然進まずなんかビリヤードやってるし。 出来上がったら畳何枚分ものものすごい大容量になったらしく。 役所持ってったら無茶苦茶笑われたらしいです。 で、横浜派とか言われてる派なんかとも争いがあって馬車鉄道から蒸気機関車に動力変更し。 最終的に日本鉄道株式会社の子会社として政府の手によって建設されるに至り。 なんかそれ見てたらもっと安く作れそうだったから! と川越鉄道とか作ってたみたいです。「ちょっと30箇所くらい訴訟起こされちゃったてへ☆」とか言ってたけど。 でもその後も日本鉄道KKから独立した甲武鉄道の子会社的な存在として、建設費等々が安く上がったために堅実経営してたんだよーん、みたいな感じの運命辿ってたのを見て岩田さぁぁぁぁんやったああああ。・゚(゜´Д`゜)゚・。 と思いました。 あんたデタラメだし技術もなんもなかったけど偉いよマジで!! あ、初期の頃にごちゃごちゃやってたところから安田財閥引っさげた雨宮敬次郎氏とかも参加してたみたいです。 この岩田さんと雨宮さんはあんまり仲良くなかったって言われてるみたいだけど、個人的にはそんなこともないんじゃないかなー、という気もしないでもないんですよね。 まあ、わりと怜悧なところのある(でもたまにぼけてる)雨宮さんからすると、岩田さんとかわりとデタラメで口喧嘩みたいなことになっててもあんまり不思議はないものの、岩田さん、なんていうかそれを引き摺らなさそうじゃん? というか時々関東の私鉄の役員で名前連ねてるの見るんだ(そっちを先に言おう)。 雨宮→岩田でほぼだいたい並んでるんだww 多分井上さんがいると引き裂かれるのね☆ **市街線 一応新宿-東京間のことを指しますが。 東京駅が開業したのが大正3年だし傍系の甲武鉄道が入れたのも結構あとだしで、明治開業からだと当然結構間が開いてます、わりと長いこと新宿-飯田町までだったっぽくて、これが今の飯田橋駅ね。 あと大きな駅として東京駅との機能分離を計画していた時期もあったらしく、今は駅がない万世橋駅というものがありました。過去の写真やイラストが結構残ってるんでもしかしたら見たことあるかも、東京駅に似た煉瓦建築になってました。実際、プレ東京駅みたいなお試しの意味で作られたってのもあるみたい。 これがあれですね、最近「エキュート神田万世橋」が開いた辺り。 大宮に移転した鉄道博物館がもともとあったってのは鉄道マニアでなくてもなんとなく聞いたことはあるかも。 市街線の一部が曲がってるのが陸軍の川上操六さん絡みらしいんですが、まだちょっと資料見つけてないので棚上げ。 青山錬兵場につないだってのはわかってるんですが、その前後のことがわからなくてね。ただ、ここの事情は軍絡みとはいえ、明治って時代柄のせいかわりと明瞭に決まったらしくてよく触れられてますね(当時はそこまで力ないしね)。 あと高架鉄道でもなんかいろいろやってるらしいんだけどここも資料まだ。 踏切が一切ないいわゆるのちの高速鉄道の概念で作られていたようです。 鉄道遺産系の本でもよく出てきますが、石積みの方法が途中で変わってたり、煉瓦使ってたりトンネルがあったり皇居の土地掠めてたりいろいろあるようですね。 神田上水の脇を通すことで土地を確保。 当時は郊外みたいなもの、というより、神田上水の内側、南側の東京寄りの土地が市内だったんだって。なので甲武鉄道はその一番外側に沿ってたみたいです。 こっち作ってたのって仙石貢氏で良かったんだっけ? 工部省出身。 今の山手線の一部である品川線を作って、甲武鉄道・市街線を作って、山手線の一部の豊島線を作ってた…気がする。 すみません、この辺は途切れ途切れで読んでるのでかなり自信がない。

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